- ベストアンサー
秋収蜂起について
中国工農紅軍が戦った「秋収蜂起」の発生原因や発生地域等、詳細に教えてください。
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
●エドガー・スノー『中国の赤い星』とアグネス・スメドレー『中国の歌ごえ』から● ●『中国の赤い星』から関係する部分を引用します。 自分の生涯を語りながら、ここで毛は、革命の残骸から起きあがり、さらに徒手をもって敗北の中から新しい勝利を建設しようとする、ソヴィエト運動の開始を述べるべき場所に達した。かれはつづいて語った。── 「1927年8月1日に賀龍と葉挺のひきいる第20軍は、朱徳と協力して歴史的な南昌暴動を遂行しました。これは赤軍の組織の最初のものでありました。その1週間後の8月7日に行われた党中央委員会の特別会議は、陳独秀を書記の職から除きました。私は1924年の広州における第3回大会以来党の政治局の一員であって、この決議に参加しました。この会議に出席した他の10人の人たちの中には、蔡和森、彭孔塔および瞿秋白がおりました。党は新しい方針を採択し、当面国民党との協力のいっさいの望みを放棄しました。というのは国民党はすでに決定的に帝国主義の道具になりさがり、民主主義革命の責務を実現することができなかったからであります。いまや長期にわたる公然たる権力への党争が開始されました。 「私は、のちに秋収暴動として知られている運動を組織するために、長沙に派遣されました。そくで私の予定は、次の5つの点の実現を要求したものでありました。 (1)省党部の国民党からの完全な分離、(2)労農革命軍の組織、(3)大地主および中小地主の財産の没収、(4)国民党から独立した共産党権力の湖南における確立、および(5)ソヴィエトの組織、がそれであります。当時第5の点はコミンテルンの反対を受け、後になるまではスローガンとしては採用されませんでした。 「9月にはもう私たちは、湖南の農民組織を通じて、広範囲な暴動の組織化に成功しました。そして労農軍の最初の単位が組成されました。入隊者は3つの主要な源泉──すなわち農民自身、漢陽の鉱夫および国民党の叛乱部隊から募集されました。この初期の革命軍は、『工農第1軍第1師団』と呼ばれました。第1旅団は漢陽の鉱夫から組成されました。第2旅団は湖南省の平江、瀏陽、醴陵、その他2県の農民保衛隊から組成され、第3旅団は、汪精衛に反抗した武漢の守衛隊の一部からできました。この軍隊は、湖南の省委員会の承認を受けて組織されたものでありますが、湖南省委員会とわれわれの軍隊の一般綱領は、党の中央委員会は積極的に反対するということよちも、むしろ傍観の政策をとりました。(『中国の赤い星』121Pから) ●『中国の歌ごえ』から関係する部分を引用します。 国民党のいくつかの部隊が──その指揮官の若干は共産党員や共産党のシンパであったが(訳注・朱徳、賀龍、葉挺などの南昌起義)── 1927年の7月に、南昌で蜂起した。広西省や広西省で数週間たたかったのちに、彼らはついに掃討されてしまった。広東の労働者や兵士たちは、12月11日に起ちあがった。しかし、すぐにほかの軍隊が、外国の砲艦の援護をうけて、彼らを破り、広東市で数千人を殺戮した。共産党員となった国民党の指揮官朱徳の統率のもとに、生き残り者たちは、たたかいながら退路をひらいて、江西省の山中にはいった。やがて朱徳と農民出身のインテリである毛沢東に率いられる農民と労働者の軍隊が組織されはじめた。(『中国の歌ごえ』43Pから) 時間がなかったので、この2人の著書だけから引用しました。多くの史料はこれらの著書を参考に書かれていると思います。とりあえず、こんなところでいかがでしょうか?
お礼
中華ソヴィエト解放区や秋収蜂起を調べるのには書籍頼りになりそうですね。他のJ・Sホーン等の関連書籍も探してみます。