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気力が湧くということについて

何かあるから生きていけるではなく、 何もないけど生きる気力が湧くということは 起こり得ると思いますか? つまり、ここで質問したいのは、 無条件のやる気は存在するか、ということです。 それとも、あくまで対象とか欲があってこその 生きる原動力なのでしょうか? もしも、無条件のやる気が存在するなら、 それが起こらないのは、何が問題だと思われるでしょうか?

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noname#80116
noname#80116
回答No.5

質問説明に接して すばらしい問いだと思いました。 Q: 《何もないけど生きる気力が湧くということは / 起こり得ると思いますか?》 A: はい 起こりうると思います。《無条件のやる気〔が〕存在する》と思います。 Q: 《あくまで対象とか欲があってこその / 生きる原動力なのでしょうか?》 A: いいえ そうは思いません。ただ 《対象や欲》は 存在するとも考えます。 たぶん 《無条件のやる気》が 先に起こって これが この世界の中に生きている自分に――この世界に生きている限りで――何らかの《対象》としての仕事を見出させ そのときこの仕事をめぐる想像力というべきような《欲》をも起こさせるものと考えます。 そして これは 一たん 何らかのかたちで この世に属していない人間となって そこから Uターンして戻ってきたときのことだと考えます。その前の段階は 欲や対象が先にあって そこからやる気が出る場合です。 Q: 《無条件のやる気が存在するなら、/ それが起こらないのは、何が問題だと思われるでしょうか?》 A: 三つの側面を考えました。 (1) まづ 人それぞれであるという条件があります。 その意味は 人によって 早い遅いがあるということです。 もっとも 《あとの者が先になり 先の者があとになる》とも聞きます。 (2) 《それが起こらない》第二の原因は 一般に 条件付きのやる気に満足しているからです。特に この経験世界では 結果が出ますから その成果に満足しうるということが起こります。もっと多く さらに多くというやる気も それとして現実的なのだと思われます。 (3) 一たん彼岸に到達したと思った先の者も この世では 経験世界との対話に苦慮する場合が 多いというのが 第三の理由です。いわゆるその悟りが 現実的な力にかき消されていき勝ちです。 というよりも そもそも 彼岸というのは 《何もなくとも生きている状態》ですから その状態じたいが 無力です。ですから 言いかえると この無力の保持が むつかしいということになるのかも知れません。 つまり 悟りとか彼岸とか 聖人だとか そのように 経験世界のことばで規定しなければならないとすれば そのこと自体が 無力ではなくなろうとしており つまりは なにがしか有力になろうとしているということになるかも知れません。そのあたりで わたしたちは苦慮するものと思います。 さらに 具体的なことを一点捉えるとすれば おそらく きょう・今の時点に留まることのむつかしさであるかも知れません。きょうのことを 明日のことして つまりは きっと明日にはというように将来を期するかたちに持っていく(または 持って行かざるを得ないように影響を受ける)のではないでしょうか。 というふうな考えを抱きました。

noname#51508
質問者

お礼

お答え頂いた内容は、大体の所共感しているつもりです。 ただ、自分は悟りとかを考えるよりも、「生」にもっと深く入って 行きたいという思いの方か強いです。 もしも、それが同じことなのであれば問題ないですが、回答者さん の意図を汲み取っていない部分がありましたら、すみません、とし か言いようがないです。 有難うございました。

noname#51508
質問者

補足

お答えの、三つの側面についてですが、 (1)これについては、自分のペース配分でやるのが一番よいのかな、 という他ありません。確かに適切であるなら、時間がかかっても 悪くはないかなとは思います。 (2)多分にあるかもしれません。自分は人間関係において結構受身 な面が強く、何かしてくれたらそれに応えるという形態をとるか、 自分から進んでやる場合も少なくとも良い反応がないと駄目です。 ですが考えてみると、結果を求めずに自分の信念とする所を押し出 して行くということについては、出来ない話ではないかもしれません。 ただ、それを行った場合起こるであろう問題は、 ・初心を貫くこと。何が大切かを見失いがちになるであろうこと。 ・今に留まること。自分は「生」はある意味で生き物だと思いま す。想定外のことが常に起こるので、常に固定概念との戦いになる ような様相になるであろうこと。それができないと、今には留まれ ない。 あと、無力ということについてですが、 現時点で、あなたは何を持っているのかと聞かれたなら、答えられ ないかもしれません。ある意味で、自分には何もないという観はあ り、それを悲観している所もあるような気がします。 それで、「何かになろうとはしないこと」と「何かによって力を得 ようとはしないこと」について、今後煮詰めていきたいと思いまし た。 (3)簡単に言うと、「夜に決心した内容は、昼間の現実にかき消され る」ことと似たような話でしょうか。周りの人たちの想念を受信し すぎると、自分が落ちていくような感覚になることがあります。

その他の回答 (6)

noname#42771
noname#42771
回答No.7

難しく考えなくても、大丈夫ですよ。 「無条件」「何も無い」というのは、目的が何も無い、という事かと推測します。  そんな時、あなたはどんな気がしますか?  退屈でしょう?  「何かないかな?何か面白い事ないかな?」  「心躍るような、何かないかな?」 と思うでしょう?  それが無条件のやる気です。その無意識から突き上がってくる向上心こそ、生きる事の理由になり得る、しかも、明るい生きる理由に。

noname#51508
質問者

お礼

今無いものについて、どうこう言ってもしかたがない所があるの で、今有るものに目を向けて行くべきかもしれません。 という感想を持ちました。 お答え下さり、有難うございました。

  • ruehas
  • ベストアンサー率68% (816/1194)
回答No.6

こんにちは。 何の「理由」もなしに生きる気力が湧くということはあり得ません。ですから、「無条件の気力」というものはこの世には存在しませんので、それが湧かないということは、それは「理由を見失っている」ということになります。 我々動物の「行動選択の動機」といいますのは必ずや「欲求と対象」によって成立するものであり、この条件が揃わない限り如何なる行動も選択されることはありません。 生命中枢の司る「本能行動」といいますのは「生得的な無条件反射」の組み合わされたものですが、これは決して無条件で動機が成立するということではなく、それは「利益・不利益に対する価値判断」が予め定められているため特定の条件に対する結果を変更することができないということです。果たして、摂食行動といいますのは食欲や餌などに対して「報酬行動」として選択されるものであり、お腹がいっぱいになれば直ちに動機は成立しなくなります。このように、我々の行動選択において何の「利益・報酬」もない「無条件の動機付け」というものは一切存在しません。 哲学のカテであからさまに生物の論議を振り回すのは毎回のことながら気が引けるのですが、これは一応原理でありますから、ここはひとつこれを基に「気力」というものを少し整理してみたいと思います。 「情動行動」の選択といいますのは本能行動のように生得的に定められた基準ではなく、生後体験に基づき大脳辺縁系に学習・獲得された価値判断に従って動機付けされるものです。恋愛感情といいますのは正にこの情動反応であり、特定の異性に対する利益・不利益の判定が「報酬」として学習されたものです。ですから、この価値判断が学習されてしまいますと、我々には知らず知らずのうちにそのひとに近付きたい、そのひとが欲しいといった「意欲」が湧いてきます。 これがどういうことかと申しますと、まず何の報酬もない動機付けというものは存在しません。では、それは「無条件の気力」ではありません。少なくともそれは、我々の行動選択の動機、即ち「気力・意欲」には本能行動や情動行動のように「無意識の内に価値判断の下されるもの」と、「その報酬を意識・自覚することによって発生するもの」の二種類があるということです。 つまり、 「無意識に成立してしまう動機」 「意識されることによって成立する動機」 我々の気力にはこのふたつの種類があります。 本能行動の成立を気力と呼ぶことができるかどうかはちょっと分かりませんが、大脳皮質がこの報酬を自覚することによって成立する意識行動の動機といいますのは、果たしてそれは我々人間の「理性行動における気力」ということになります。 「理性行動」といいますのは本能行動や情動行動のようにその場で判定の下されてしまうものではなく、未来の結果を予測して利益・不利益の判断を行うという「計画行動」であります。このため、それは複数の情報に対し、大脳皮質の意識の下で高度な比較・判定が下されなければなりません。そして、それが未来報酬として自覚されるならば、そこで初めて理性行動の動機が成立します。 このように、理性行動といいますのは未来を予測した行動の選択です。では、仮に無条件で発生する気力というものが存在したとして、それが湧いてやる気満々であるにも拘らず、自分が何をしたら良いのか分かっていないのでは話が全く矛盾します。 大脳皮質においては、 「知覚―認知―自覚―判定」 この前後関係は絶対に変わりません。 ですから、未来に成すべきことを知り、少なくともそれが報酬であると自覚し、意識されない限り、気力だけが勝手に発生してしまうといことはどう考えてもあり得ないわけです。 本能行動や情動行動では脳内に獲得された判定基準に従い、無意識のうちに行動は動機付けされてしまいますので、仮に理性行動における有意識の気力が自覚されなくとも我々は十分に生きてゆくことができます。ですが、理性行動とは未来を予測し、本能行動や情動行動では判定の下せないより価値の高い結果を獲得するためのものです。では、そこに動機が発生しないということは、それは取りも直さず「大脳皮質に報酬が自覚されていない」、即ち未来に価値を見出していないか、生きる理由を見失っているということになります。 我々人間にとって「生きる気力」とは、それは未来に理性行動を選択するための動機だと思います。

noname#51508
質問者

お礼

全体的に自分のピントが多少ずれてしまっているような気がしない でもないです。 ともかく、仰っている内容をもう少し検討してみます。 お答え下さり、有難うございました。

noname#51508
質問者

補足

自分は今のまま、特に変わらずに生きていくとしたら、たぶん未来 に価値や生きる理由は見出すことは出来ないと思います。 自分の「理性」から見て、未来に望む「報酬」は、今の所はっきり としたことは言えないのですが、ただ、もし自分が何もない所から 「希望」を持ち続けようとしたり、あるいは、「好きな異性」と建 設的な関係を作っていくために、その人と前向きに関われるように 想起し続けたり、あるいは「隣人の幸せ」とか「人類の幸せ」を報 酬を求めずに想起し続けた場合、それに準じて自分の生き方が定ま ってくるかもしれないという考えも一応持っています。 要は、無条件で与えることが出来るようになりたいという側面もあ ります。 その場合、自分の生き方が定まったり、望んでいたことが出来るよ うになることが「報酬」と言えるかもしれません。 こうしたことが、「生きる気力」に成り得るのかは今はよく分かりま せんが。

noname#194289
noname#194289
回答No.4

この問題は生命の発生や生物の出現の問題にまでさかのぼると思います。生物は何か目的があって出現したとは考えられません。目的と言うのは人間のような頭脳を持ったものにしかできません。無視などは別に目的が会って動き回っているのでは言ってしまえばしかたがないので動いているのだと思います。人間がいろいろ考えて虫にも目的があると言いますが、私は虫が目的を考えているとは思えません。人間の場合も基本的には同じで、改めて自分はなぜ今こんなことをしているのかと考えても特別はっきりした理由が見つからないことがほとんどだと思います。これを惰性と言ったりしますが逆に何もしたくないとかする意欲が湧かないといえばもっともだと思ってしまうのが人間の弱点だと思います。つまり我々は虫と同じとは考えにくいのだと思います。うつ状態になるヒトは原則として頭が良い人であることも同じ理由ではないでしょうか。

noname#51508
質問者

お礼

何となく、悲観的なご意見のように感じてしまいました。 こちらの誤解でしたら、すみません。 お答え下さり、有難うございました。

noname#51508
質問者

補足

通常人間は、流されて生きており、意欲を失うこともまた、流され 起こっているというご意見でしょうか。 意欲が湧かないことをもっともだと思ってしまうことが人間の弱点 であるなら、もしもこの弱点を克服した先には何も考えずに雑務を こなすような「生」だけがあるということになるのでしょうか。

回答No.3

「気力」という言葉が問題。  元気:何かをするエネルギー やる気:特定の物事に向けられたエネルギー  気力:人間が考えを行動に移すときに不可欠な能力や力 つまり、対象のないやる気は存在しない。 日本語で考えれば分かる。 『やる気が出た』という言葉は何かをやる気力が出たという意味。 つまり、方向性を含んだ言い回し。 しかし、『何もないけど生きる気力が湧く』は日本語として間違っていない。 気力の対象が生きる事であるからだ。 『何もない』と言っているのは、『生きる以外に目的は無い』の言い換えであり、『生きる』という対象は絶対に存在する。 現実的に考えるなら、戦場に急に投げ出された人間がわけも分からず生き延びようとするのと同じ。 『特に目標や理由は瞬間的には見つからない。 長く考えたところでないかもしれない。 だが、死にたくない。』 つまりはそういう事。

参考URL:
http://glc.office.tottori-u.ac.jp/Syllabus/Ningenryoku/kangaekata.htm
noname#51508
質問者

お礼

皆さんのご意見で共通していることは、 「この世のものであれば、やる気に対象は必ずある」と、仰ってい ることだと思います。 お答え下さり、有難うございました。

noname#51508
質問者

補足

「死にたくない」と思っている場合に、では何をもって「生きてい る」と判断するかということを考えてみると、意外によく分からな くなります。 その場合、「生きている」ということがいつもあいまいになり、何 かに執着している場合は、段々と退廃していく観もあり、生きてい るなんてこんなものだという結論に陥ってしまう要素をもはらんで いるように思えます。 結局、自分にとって「生」とは、 自分の目の前に立ち現れてくる、自分にとっての総括的状況という ように感じられます。 今、その総括的状況として、自分から(例えば)願望達成などを強 く求めていく必要性が生じているように感じています。 けれど、今までのやり方ではすべてうまく行かなかったので、もう 一度それについて、考察したいと考えたしだいです。 要するに、この「生についての捉え方」自体が、対象ということに なるのでしょうか。

回答No.2

気力とは、物事をなしとげようとする精神の力、または、 心の活動力で、通常は目標があるけど、性的な活力も 気力で、通常はチンチンが勃起しますが、気力がなくて も健全な男なら、むしろ疲れている時、無条件に勃起す る場合があるけど、貴君のような人には無条件に勃起し ない様で、何が原因なのかは、こちらが聞きたいですよ。

noname#51508
質問者

お礼

どうやら、無条件に気力が湧くということは、 当たり前のことのようですね。 自分が変に気にしすぎたのかもしれません。 お答え頂き、有難うございました。

  • shift-2007
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回答No.1

なぜ生きるのに気力や原動力が必要なのでしょう? 答えではなく、どうしてそのような問題が発せられるのかが重要じゃないでしょうか。

noname#51508
質問者

お礼

何が問題かと言えば、仰るような内容が問題なのかもしれません。 お答え頂き、有難うございました。

noname#51508
質問者

補足

補足要求ということなので書きますが、 なぜそれを問題にするかと言われれば、 簡単に言えば、生そのものに閉じている自分と それを超えたいという自分自身の葛藤だということに なるでしょうか。 こうした葛藤があるがために「気力」や「原動力」 を必要としているのだと仰りたいのでしょうか。

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