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武士道について
日本には剣術や体術、相撲や囲碁など様々な 伝統芸能がありますが、これら伝統芸能の社会は 武士と同じで基本的には礼や義などの武士道精神が 芸能世界の倫理になっていたのでしょうか? お願い致します。
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江戸時代では、郷土力士をヒイキにするのは当たり前でした。 藩の城主、侍もすごかったらしいです。 また、江戸の町の消火番が藩に割り当てられると、こぞって凄い豪華な衣装で大名は競い合っていたそうです。 各藩ごとに道場もあります。 藩の道場の強さがまず優先されます。 次が剣士の家柄。 体術では、関節技の流派、投げを得意とする流派、締めを得意とする流派。 これを総合したのが柔道ですね。 もちろん、勝つ事が最も大事であったと思います。 相撲でも、20歳でも綱は綱。 40でも頭を下げます。(強さが順番。) >礼や義などの武士道精神が芸能世界の倫理 宮元武蔵の五輪の書では、最終的に行き着く所になっています。 ひたすら強さだけを求め、 最終的に剣から人生の全てを求めるようになります。 剣とは何なのか?(人を生かす物。) 強さとは何か?(人を守る物。) 剣術とは何か?(己を磨く術。) 行き着けば、囲碁も茶道も将棋も同じ「道」だと思います。 武士道精神とは、死ぬ事と忠義です。 これはあくまで狭義であると思います。 剣道の礼儀は、スポーツ精神です。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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日本の武士道はともかく、禅宗、儒教は発祥の宗家はそれぞれでありましょう。そしてその地域では確かにそこの大家も輩出しておられましょう。 しかし日本の禅、日本の儒教として宗家は無論世界の何処のそれぞれも真似も追随もできない、一つの思想、修行法(精進法)、美学と美術を完成してきております。 宗家時代は、無論、歴史も相当に遡りますから、今の思想、文化、意識、価値観で理解、評価するのは正しくありませんが、その時代のその地域の文化はやはり今からみれば、一般に相当に粗野な時代であったようでもあります。だから日本のこれらは、発祥や宗家とは異なる、人類に誇らかな文化、思想、修行精進だと存じおります。 日本の武士道は他国の武士、騎士、士大夫、そしてクシャトリアとは異なる、日本の文化の中の武士道です。生き方は明確で、これはヒンドゥの根本思想にもしっかり通じるものです。それだからどうっていうことでなく、どちらも根本の究極をしめしております。 しかし一面、日本の武士道もまた、何処の国の士道も所詮は、国と支配の中で意識化してきた運命経てきており、時に儒学、時に禅などが混在しますが、またそして時の権力や、世間の都合よく、看板や表札として利用もされてきました。よかれ、あし(悪)かれ。 一見曖昧で広範なのも特徴です。 武術、習い事、極めていく精進ごととは、当然根っこが同じ日本人性、日本文化です。 これら全ては、当然に関連し合っております。 粗雑に理論や、近代科学知性などの手では鷲づかみにできないからといって、存在や価値の否定はできないものです。我が恩師などからなど、そういう論評に接してきてはおりますが、そういうものはお気の毒にも、無知を露呈しております。 自分と森羅万象の究極の追求ということで、剣禅一致でもあり、それを、時には武士道という言い方をする場合もあるのは、みな同じ根っこだからだと存じます。 でも私は鍋島や西郷、山岡の武士、自分としての持ち方を武士としております。 武蔵は自分としての一道を極めたその一つのあり方だと存じます。それには自分も同感します。 いずれにしろ、極めることが日本の文化、武士道だと存じます。 極めの仕方が日本性だと存じます。これは何処にもない。禅であれ。 曖昧、包括(神道も)、包含・同化しながらの仕方ですので。
お礼
遅れてしまい申し訳ありません。 丁寧にありがとうございました
- no009
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武士道といっても回答子によってもいろいろな解釈があるように人さまざまです。とりあえず、禅に基づいた武士道として考えていきます。 平安末期に武士が台頭し始め、鎌倉でその地位を確立します。禅も平安末期に伝わり、武士の間で次第に広まりいきます。その中で武士道が生まれてきます。武士道は武士の発生とともに最初から存在したものでないと思います。(江戸期には儒教に基づいた武士道?も発生します。臣が君に弓を引くことは武士道に反する?行為だという武士道?こんなものは武士道と認めたくありませんが。) 日本の伝統芸能と武士道の考え方の類似性について 日本の伝統(水墨画、茶道、能、剣道など)は禅の影響を多く受けています。武士道は禅そのものである、という人がいるくらい禅思想そのものと考えます。 つまり、禅という基盤の上にそれぞれ出来上がっていますので、考え方は類似というか、同じです。 禅の思想が日本人の基本的な考え方に強く影響していると思います。 欧米の空手道場で、自分の使った道場を掃除することに反発されたという話を聞きます。日本人は当然のこととして道場を掃除します。禅の心です。日本人はその行為を禅とは理解せずにごく当たり前のこととしています。 世界陸上でも、フィニッシュ後に日本人が走ってきたトラックに一礼をします。松井選手もアメリカのグラウンドに入る時に一礼をします。欧米人には理解しにくい禅の心です。 余計な事ながら、礼も終わらぬうちから、畳の上で寝転びながら万歳をやるような競技は日本の恥だと思います。消えてなくなれ、柔道。
お礼
遅れてしまい申し訳ありません ありがとうございました
- komes
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道を極めるということは哲学的宗教的に最終極限に達することを目的とする精進と考えます。 従って宮本武蔵の晩年の絵画、書、彫刻など武芸と無縁と思われるものにも悟りという境地を感じさせるものがあります。 日本の伝統芸能と挙げられている諸芸にも、それぞれその道を極める精進を要する点では同様です。 従って武士道精神が母体という事ではなくて、目指す境地が同一な目標と解すべきではないでしょうか。 日本固有の精神構造の影響が表れていると見るのですが・・。
お礼
ありがとうございます。 非常に納得しました。 目指すところが同じなのでしょうね。 例を挙げれば武道家も武士も月日が立てば 禅の修行を必須にしますし武士道も芸能も 偶然かもしれませんが目指す所が同じだったのでしょうね。 武道に限れば中国武道も似てる所はあるので 東洋は全体的に共通してそうですね
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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インドのカースト内のクシャトリアの宗教性と倫理、中国の士大夫の矜持と社会責任、西欧の騎士道などそれぞれ国と民族の文化が生み出し、国と民族の文化に影響しております。 山本常朝殿説く、通称、鍋島論語も、日本の一つの武士道であり、日本の武士道という場合、時代によっても、人によっても、地域によっても固定しているものではないようです。幕末三舟、山岡鉄太郎、大 鉄舟のと肥前佐賀の方々のとは微妙に違いがあります。 あらゆる所で、武士の恥とか、美学や体面が大事にされた時代に、仰せの芸能、道は発端を持っており、この、恥、美学、体面との交流影響は大きいので、共通するところは多いでしょう。 鉄舟や南州隆盛が極めていった、武士道は遊芸には超然としたものと思っています。 天下国家に対して私を出すな。天下国家に己を死す。金も力も、名誉も名も、命もいらない。 これが武士道というものの、本体部分です。遊芸には不要な側面です。ここでは美学も不要。己の格好なんてどうでもいい、という次元です。常朝殿の、犬死で結構。己の死ぬ所で死ぬ。自己の方向をきめるときに死ぬほうにきめる。 西郷が、郷党の決起のものたちに、『なれば、おいどんの命ば、さしあげましょう』、 そして遠く江戸からの刺客に、『それは遠路まことにご苦労様です。いまは幸い家人がおりませぬ。どうか私の命ばお取りください』。 そしてせえごどん(西郷どの)には、更には僧侶との『入水』がある。 これらは今死んで、意義がどうの、価値だのは考えないで死ぬほうを選んでいるのです。 正に、常朝様の死ぬことと見つけたりです。これが人間の万古不易の生き方と、私は思っています。 インドのクシャトリアのあるべき生き方に共通しますが、こういうのは遊芸の場面では、でてきません。日本的美学を大事にするという側面では、相互に関連していますが。
お礼
ありがとうございます、 そうですね、私も関連していると 思う側の人間です。 ありがとうございました
- rin00003
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囲碁は平安時代にはあったと思いますが、日本独自のものではなく中国から渡ってきたと思われますので、今でも、中国はもちろん、韓国、日本ともさかんに打たれています。 その点でいうと、日本の武士道だけの倫理ではないようです。 ちなみに将棋はインドから渡ってきたのですが、いろいろなところで形をかえ、日本も形をかえて、日本独自のものとなりました。 江戸時代はお城将棋といい、強い人は江戸城内で将棋を指していましたので、もしかすれば、日本の武士道と関係があるのかもしれませんね。
お礼
ありがとうございます。 囲碁は日本のものではないですね。 もちろん日本の文化に合わせて発展してきましたが ありがとうございます
- aokisika
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「武士道精神」というもの自体が、その時代により様々に変遷しています。 変化して一定でないものと比較しようとすることには無理があると思います。 たとえば、背中から斬りつけるのは卑怯であって、真正面から切りつけるのが武士道だ、と考えられた時代もあれば、 敵に背中を向けて逃げるなどというのは卑怯の極みであるから、そんなヤツは背中からたたっ斬ってやるのが武士道だ、と考えられた時代もあります。 正面から斬るのと背中から斬るのと、どちらの武士道を念頭において、他の芸道の倫理を考えますか? それによって見方は180度変ってしまいますよ。
お礼
ありがとうございます。 なるほど武士道も時代によって違うのですね。 分かりました、ありがとうございます
- cyototu
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武士道の真髄は「葉隠れ」に書かれているように、礼でも義でもなく、「死ぬこと」だと思います。 だから、他の技芸のは本質的なところで両立しないと思いますが、どうでしょうか。
お礼
ありがとうございます。 ただ禅などを修行する事を考えても武道と 武士道の行くところは同じような気もします。 ありがとうございました
- north_2nd
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それらの出自や発展形態で各々異なると思います。 礼や義が武士道ということであればその武士道は朱子学とかを通過した儒学的武士道でしょう。 囲碁は元々僧籍であることから始ってる上に江戸幕府の庇護のもと発展してるのでその辺りごった煮です。 色々調べてみられてはいかがですか?多分流派によっても全然違うと思いますよ。
お礼
ありがとうございます。 やはり碁などは違うようですね。 色々調べたいと思います。 ありがとうございました
武道は全般的にそうでしょうが 囲碁や茶道などは違うと思いますよ 武士道とは武士の道を例えたものですから武道には関連があります
お礼
分かりました。 参考になります。 早速の回答ありがとうございました
お礼
ありがとうございます。 体系的には別でも 極めた者は芸能の人間でも 武士道に共通する所があるという事ですね。 分かりました、参考になりました