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悪い人が罰せられて良いのか

すごく悩んでいます。 悪い人は罰せられて良いのか、ということです。 人には大きく分けて善い人と悪い人がいます。 2者の違いはそれぞれの価値観・理性・思慮の 違いだと思うんです。 では悪い人はどうして悪い性格になってしまったのか。 それは遺伝の性格が少々と 生まれてからの教育や環境からきていると思うんです。 でも頑張って教育すれば必ず善い人になるとは限りません。 それは少しの出来事で結果が変わる 繊細な化学反応みたいなものです。 なのに悪い人は国民皆から嫌われ、 死刑を受けたりします。 それならそうなる前に心を改め 善い人になれば良かったではないか、 説得される機会もあったかもしれない、 と考える方もいるでしょうが、 でもそのとき心を改めなかったという判断も、 遺伝の性格と 生まれてからの教育や環境からできた性格がする 判断ではないでしょうか? それってその人の責任として たまたま運良く善い人に育った人達が 罰を与えて良いのでしょうか。 そう思うと悪い人が起こした悪いことの責任は どこにいくのか悩んでしまいます。 でも悪い人を野放しには出来ないことはわかります。 しかし、自分が今まで築いてきた常識が崩れていくようで、 何もかもが不公平に見え、 やるせなさでいっぱいになってしまいます。 非常識な質問でごめんなさい。 また、至らない点が多々あり 不快にさせてしまったらごめんなさい。

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  • eienn
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回答No.5

これは、この世にいくつも存在する、「どうしようもないこと」の一つでしょう。 人は生まれてくる場所を選定できず、すなわち悪になることも善になることも選定できない。 いつ死ぬかも基本、選定できない。寿命もある。 いくつもあるのです。どうしようもないことというのは。 それを割り切る強さがあるかないかの、違いなんです。 ただ、あなたのその同情心を大切にしていただけたらと思います。 仏教的には、一人の罪はみんなの罪になります。 罪を生み出すのは、結局は社会と環境にあり、社会と環境は、数多の人が作り出すものです。 なので、論理的には、個人の罪の責任は、人間全員にあるといえるでしょう。 しかし社会運営上、全員を裁くことはできません。 この問題に対して、最良の処置があるとすればそれは、教育しかないでしょう。 みなに、この全体的な考え方を教え、あなたのように、同情心を持つものを増やしていく。また、なるべく悪を生み出さないように、教育機関、とくに義務教育期間(もちろん家庭もですが基本は学校)が努力するべきですが、それも難しい。 間違っても、悪は裁くべきもの、善には悪を裁く権利があるなどど、思ってはいけないのです。そこにこそ、人間の思考の中で最も恐ろしい差別というものがあるのです。 難しいのです。人の世は。

kanako1113
質問者

お礼

ありがとうございます。 「どうしようもないこと」なんですね 私がとても変だったわけではないんですね 良かった。 実は親に前にこのことを聞いてみたんです。 そうしたら「その考え方は間違ってる。許せない」 と言われてしまったんです。 でも納得できる理由は言ってくれなくて… だからスッキリしないままだったのですが、 「最近の子は」みたいな目つきで見られたのがトラウマで 周りの人には聞けず 教えてgooに加入して聞いてみたんです。 この考えを受け止めてくれる方がいただけで嬉しかったです。 ありがとうございました。

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noname#118935
noname#118935
回答No.14

面識のない女性を車に拉致して殺害した三人組の事件のニュースを見ながら、「罪を憎んで、ひとを憎まず」なんて気にはならない。しかし、「悪い人」の生い立ちに同情的なあなたは違うのかな。 「罪を憎んで、ひとを憎まず」という言葉を、わたしなりに噛み砕いてみると。<悪いことをするには、それに至るまでのいろいろと不幸で哀れな事情があるのだろうけれど、それはそれとして、犯した「罪」は罰せられなければならない> あなたの問いを「生い立ちの恵まれない〔不幸な)ひとを生い立ちの恵まれた〔幸福な)ひとが罰していいのか」になおして考えてみました。わたしの結論は、「罰せられるから、不幸な人たちは救われる」。 <不幸なひとは幸福なひとにくらべて犯罪に手を染める率が高くなる>と仮定したうえで、「犯罪が罰せられない」となると、どのようなことが起こるのか。 幸福なひとたちは自衛策として、「根源を絶つ」行動に走るのではないでしょうか。 「不幸は犯罪の温床」「不幸であるという状態そのものが危険なシグナル」だから、幸福の世界の住人は、不幸なひとを不幸であるという理由で根絶したくなるのではないでしょうか。 ということで、悪事に応じて罰せられるということは救いのあることのように思えてくるのです。とにかく悪事さえしなければ、安泰でいられるのですから。

  • michael-m
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回答No.13

誰でも一度はぶつかる問題だと思います。個人的には難なく納得してしまっている人の方が不自然に思います。 私は「罰」という言葉で考える事が本来の形ではないと考えています。 人は自分の行動に対し責任を負わなければなりません。罰と呼ばれているものは、その責任の取り方だと考えています。 その責任の共通の規範が法律ではないでしょうか? 罰を与えると考えるから自分が上に立っている錯覚を以ってしまうのです。共通の責任の取り方と考えれば、上に立つのではなく、自分達も同じ高さに居る事になります。 でも一番大きな重い責任は、罪を犯さずに済むような教育を怠ってきた社会にあるでしょう。 これは画一的な教育では不可能です。個人個人に対する処方箋が必要ですし、短い期間で要綱が纏まるものでもないと思いますが、必ずやらなければならないことでもあります。

noname#155689
noname#155689
回答No.12

> 悪い人は罰せられて良いのか、ということです。 良くないですよ。 ただ、人間は集団で生きる以上 集団を乱す行為は認めてはならない筈です。 集団を守るなら集団を乱した個人は罰するしかありません。 罰を与える側だって辛いでしょう。 人が人を罰するのは、仰る通りやるせないものです。 しかし、我々はそのやるせなさに向きあわねばならないと思います。 逃げてしまっては、人間社会が無法地帯と化してしまいます。 しかし、人は神ではありませんから 絶対的な善悪など判断できない筈です。 あなたが悩むのは何もおかしなことではないと思います。 私も一生懸命考え続けようと思います。 常識なんて、単なる気休めでしかないでしょう。 あなたも一生懸命考えていって下さい。

回答No.11

単に罰しているわけではなく、長年かけて築き上げてきた法律 というルールに従って罰しているわけです。 だからルールに従いたくないのであれば自分の気に入ったルールの 所に移り住むか、今のルールを変えるための行動をすることです。 人の考え方を変えるというのは、誰かが働きかけたからといって 簡単に変わるものではありません。 まず自分が変わりたいと思わない限り変わることはないと思います。 そして変わるための切欠は自分で見つけださなければならないのです。 自分の思い込み一つを変えるのも大変なはずです。 いろいろな考え方があることは大切なことです。 それを自分で達成しようとするのならば意味はあると思います。 でも自分の考えていることを誰かにやってもらおうと思うのならば 自分がそのためにどれだけ負担ができるのかまで考える必要があると 思います。 何事もタダでは出来ないのです。

回答No.10

おそらくは本当の意味でその感覚、沸き起こる感情は正常だと思います。 それでいいのではないですか?

  • kigurumi
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回答No.9

【無知の涙】を書いた人がいます。 彼は獄中で書きました。 自分は無知だった。無知だったから人を殺してしまった。と。 何のかかわりも無い人をわずかな金銭を取る目的で4人殺しています。 彼の幼少時代は餓鬼のような状態でした。 両親は家に帰ってこず、兄弟は靴の底をかじるって飢えをなんとかしのいでいた。 彼は集団就職で上京したが、生きる意義すら無い状態なので、長続きせず、19歳の時、鬼畜のように金目的で人を殺していった。 捕まっても「早く殺せ」と言っており、死刑も怖くなかった。 その彼のもとにせっせと聖書を運び続けた牧師がいたんですね。 彼はそんなものに価値などひとかけもないと無視しつづけたのですが、それでも牧師はせっせと通った。 あるとき獄中、暇ですから、聖書をチラっと開いたらしいんですね。 彼は初めて人間が編み出した文学に接触した。 そして、後に「自分は死刑に値する罪を犯したから、死刑になっても当然だ。だけど、自分は無知だったから人を殺してしまったということをわかって欲しい」と訴えるようになりました。 どういう意味だと思います? 無知だったから人を殺すに至ったとは。 彼はその後、文学に目覚め、19回新日本文学賞を受賞しています。 人に一回きりの命があることなど考えることなく殺し、死刑になっても怖くないと豪語し、後に死刑に値する極悪行為をしたが、どうしてそこに至ったのかわかって欲しいと訴え、死刑が執行される前から、全力で処刑に抵抗するように変化していった。 何に抵抗したのでしょう? 死ぬことが怖いからじゃあないと思います。 あなたがおっしゃりたいことが未解決な状態なので、その未解決の下で処刑されるということに、抗議したんだと思います。 彼は獄中結婚しました。 随分前にテレビで妻の発言が放映されました。 死刑囚の夫に死刑に日取りが確定した時、インタビューをしたようですが、その時の妻の言葉が印象的でした。 「それでも生きて生きて生きて生き抜く。 それでも生きて生きて生きて生き抜く」 誰に向かって言っていたのでしょう。 夫にか、自分にか、世間の死を考えている人にか、回避できない死を目前に控えている人にか。 一旦は無期懲役まで減刑されましたが、しかし、最高裁で「彼の家庭環境の劣悪さには同情するが、彼の兄弟たちは人を殺していない」として死刑が確定しました。 死刑判決が出ても普通はなかなか執行されず、執行前に病死したり、老衰するまで長年過ごす死刑囚もいる中、彼は突然1997年処刑されました。 嘆願書も多数出ており、一旦は無期懲役の判決まで出たのに、突如死刑執行となった裏には何があったのか。 一説によると、未成年による犯罪が急増しだし、その年、神戸連続児童殺傷事件の犯人とされる人が捕まったことが、彼の死刑執行に影響を与えたのではないかと言われています。 死刑が確定してから執行されるまで通常何年 あるいは何十年とかかるケースはざらです。 どうしてか。 人は真理を知りえないので、特に人の命を奪う行為は、本当にいいのか実はわかっておらず、それで死刑確定しても、すぐ処刑しないんだと思います。 多くの人を殺したからといって、本人だけに全ての罪をなすりつけ、蓋をしてしまっていいのか。 自業自得、自己責任と言われたらそれまでですが、日本は文化的な国です。 殺すことを国民に禁じる以上、死刑判決すら本来は存在しえないはずです。 私が蓋をしてしまった と表現した理由。 福祉が充実していたら、あるいは近所の人同士で近隣同士助けあっていたら、人が人を殺すということが防げたのではないか と思ったからです。 全然不十分な状態で、対策をちゃんとしていない状態で、防げたかもsりえないのに、適切な処置をせず、実行犯に責任を全部おっかぶせ、真犯人を探そうともぜず生かしつづける。 真犯人は生き続けているのだから、再度起こる可能性が残ってままです。 合法の名の元に人を殺す行為も殺人です。 人は絶対を知らない。 無知の涙を流すのは誰なのか。 かといって、私は愛する人を虐殺されたら殺意を覚えるでしょうし、機会があったら怒りに任せて殺す可能性も持っています。 そして無知の涙を流すかもしれません。 殺したからといって解決するわけではないと気づいたとき、流すと思います。 人を殺した以上、殺されても仕方ない。 だから自分の愛する人を殺した相手を殺した以上、自分も死刑になったも仕方が無い。 こうなると不毛です。 無知によって死を招いたわけですから。 >そう思うと悪い人が起こした悪いことの責任は >どこにいくのか悩んでしまいます。 真犯人を探し出し糾弾しても、解決しませんよね。 糾弾しようとすると、解決しなくなるかもしれない。 誰が悪いとしたところで、発生を防ぐ手立てを考えないのなら、口だけ達者な無責任な人になってしまう。 そして糾弾されそうな側は、防衛策を張り巡らし、よけい予防策が取れない状態にまでなってしまう。 司法は事の顛末を調査し、前例などと比較し、刑量を確定するのが仕事です。 また、別のものは、事の顛末を知り、なにが殺人を招いた原因かを分析し、それが無かったら防げたのではないかと考えたら、行政に生かしていく。 そうしなければ、殺人はこの世から消えない。 上辺の対処法だけじゃ駄目だと思うんですね。 <人を殺したら処刑されるから殺さない> だけではブレーキが効かないまでに憎しみを募らせる人には効果が無い。 じゃあ 憎しみを募らせることにならないよう、なにかをすればいいわけです。 そうしたら人が人を殺しにくくなる。 生きてこそ やりなおしができる。 そのやり直しを奪う行為をし続ける以上、この世から人が人を殺すことはなくならない。 生きて生きて生きて生き抜くであって、殺して殺して殺して殺しぬくじゃ駄目なんですね。 頭ではわかっていても、生きることを放棄したとき、なんでもできてしまうことも知っている。 じゃあ 生きることを人に放棄させないような社会にすればいいんですが、、、、。 難しい。

  • pastorius
  • ベストアンサー率48% (538/1110)
回答No.8

悪い人と善い人がいるんじゃなくて、一個人の中に悪い側面と善い側面があるんです。全的に悪い人や善い人なんていません。そもそも善悪の規範そのものが絶対的ではなく社会状況などによって変遷します。 遺伝要因や環境要因が人に悪いことをさせるという考え方もあり、現実に外的要因が大きく影響することはまず間違いありません。このことが日本国法では14歳未満の者の行為は罰しないと定められている理由のひとつだと解釈できます。 罪に対して罰を与えることの意味については次のような考え方があります。 たとえば子供の罪に対しては法的な処罰規定が無くとも親や学校や社会が罰を与えます。罰によって罪を犯した者が社会性を身につける効果が期待できます。(犯罪者に対する教育) 私たち自身が罪を犯したとき、私たち自身が罰せられるべきだということに異論がある人は少ないでしょう。他人についても同じです。社会がそのような仕組であることで、社会に属する人々はこの社会に対して一定の信頼を置くことができます。(社会的な犯罪の抑止) こういった考え方よりももっと単純な、罪によって被った損害に対する、被害者による復讐であるという考え方もあります。(被害者に対する心的弁済) ところで罰を与える理屈がどのようなものであるにせよ、罰を与えることを正当化する最大の根拠は、私たちが自由意志を信じているためだと考えられます。 人は遺伝子や生育環境といった外的要因のみによって決定論的に行動するのではなく、個々の自由意思によっても選択的に行動するものであるという考え方が一般的です。罪も、外的要因によって否応無く犯さざるを得ないのではなく、当人の自由意志によって犯すか犯さないかの選択が可能であると信じられています。 イスラム教徒は罪を犯しても「インシュ・アッラー」といって神様のせいにしてしまうことがあります。これは自由意志という考え方の放棄と言えるでしょう。全知全能の唯一絶対神というものを信じるならこういった考え方は自然だと思えます。 しかしその論法ならば、罰を受ける(与える)ことも「インシュ・アッラー」だと言えます。この場合には罪も罰も全知全能の唯一絶対神によって予定された現象だということになります。 どの考え方が正しいということは断定できません。 罰を与えることそれ自体が罪であるかもしれないという考え方もひとつの正論です。 個人的には、現実問題として相当多数の人々が共有できる罪の概念はやはり存在するし、それに対して罰を与えるという行為がたとえおこがましいものであっても、善悪を超越して決然として罰を与えなければならない場合はあるのだと考えています。 絶対善という観念を振りかざして罰を与えるというより、私自身の好き嫌いの問題だと言えます。私も自由意志の信奉者ですから。

kanako1113
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 法の例も出して頂いて、 すごく参考になりました! pastoriusさんのご回答で気がついたのですが、 人は遺伝子や生育環境といった外的要因のみによって決定論的に行動するのではなく、個々の自由意思によっても選択的に行動するものであるという考え方が一般的です。罪も、外的要因によって否応無く犯さざるを得ないのではなく、当人の自由意志によって犯すか犯さないかの選択が可能であると信じられています。 この部分が私は納得できないのです。 その「自由意志」による選択は 「今までの外的要因から構築されている思考」から されているはずだと思いませんか? それはつまり外的要因のせいではないでしょうか。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.7

今日のニュースをインターネットで読んでいたら、次のようなニュースが載っていました:  名古屋市千種区の路上で、歩いていた30歳ぐらいの女性をミニバンで拉致し、25日午前0時ごろ、愛知県愛西市内の国道155号線沿いの駐車場に車を止め、現金約7万円を奪った上、ハンマーで殴るなどして殺害した。面識はなかったという。「金を奪う目的で力の弱い女性を狙った。誰でも良かった」と供述しているという。 もし、逮捕された人の供述が正しいことが証明された場合、こういう悪い人を罰してはいけない屁理屈でない理屈があるのでしょうか。 あったら、是非その理屈を聞きたいです。その驚きを、何かに使ってみたいからです。

kanako1113
質問者

お礼

アドバイスありがとうございます。 私もこの事件聞きました。 悲しかったです。 悪を憎む気持ちは強いのですが だからこそ人が行った悪でその人を憎む今の世が正しいという 証拠(理論)が欲しくて投稿したので、 私にはわかりません。 ごめんなさい。

noname#92327
noname#92327
回答No.6

こんにちは。 あらゆる生命体は環境に適応する事で進化してきました。 つまり種の保存を目的に「優れたものが生き残る(=劣・悪と呼ばれるものを駆除する)」という ある一定方向に流れる習性があるのではないでしょうか? この種の保存という大きな流れは、個々の最適化だけではなく、種に対する全体最適も含まれると思います。 つまり、人間でいうと反社会的な行動とは種の保存に反する動きであり、 これを淘汰すべく本能が働くのではないでしょうか。 もしくはそういった行動をする人が淘汰されていくのでしょう。 また、裁判の場では情状酌量という事もよくあるかと思います。 目に見えない種の保存という流れを一個人の価値判断で一手に受けた場合、改めてるには大きすぎる事に気づかされるのでしょう。 その時、悪く言えば責任を取りきる事が出来ない為、グレーはシロ、生活環境を鑑みて情状酌量の余地有りという話も出るのでしょう。 以上、まとまりがありませんが、ご参考まで。

kanako1113
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 斬新な視点でとても参考になりました。 生物学?的に考えるとそうなるのですね。

  • sakusya
  • ベストアンサー率18% (6/33)
回答No.4

不公平を憎まず、公平を憎んだほうがいいかと思われます。この世界は不公平です。しかし、だからこそ成り立っている。 悪い人と、善い人の区別をはっきりとつけるなんて、哲学的に言えば不可能だと思います。だけど、人を不幸にする人間、人を踏みにじる人間に対しては対処しなければならない。 善い人が悪い人を裁く権利はないのだと思います。しかし、誰かが裁かねばならない。じゃないと、他人を踏みにじらない人、むしろ、他人に手を差し伸べる人が損をすることになるから。それを否定するということは「自分は不幸になったり、殺されても構わない」と言うのと同じことです。 あなたは多分、物事を大局的に見すぎているのだと思います。責任は、あくまで自身が負うものであり、他者に求めるものではありません。 だって、そうでしょ? 人が殺されたとして、その人を殺した人物の今までの人生を知ったところで、知ったこっちゃありません。そんなものが人を踏みにじる理由になるはずがなく、なったとしても、それをしていい理由にはやはりなりません。 それでも、善悪の皆無、善が悪を裁く権利、世の中の不公平さを哲学の次元で語る人がいたとしたら、その人は自分の命のことを別にして考えているのでしょうね。

kanako1113
質問者

お礼

参考になるアドバイスありがとうございます。 そうですよね 責任は自分が負うものですが、 生まれたときから悪い人になりたい人はいなくて、 他の環境だったらその人もそうならなかったのかなと思うと、 逆に自分が今と違った環境で もしそういう人になっていたらと思うと、 とても悲しい気持ちになるんです。 私は理屈っぽいらしくて、 どうしても 悪は悪であり心から憎むべきものだという 証拠が欲しかったんです。

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