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「自我」と「自己」の違い

こんにちは。 タイトルの通りなのですが、「自我」と「自己」の違いとは何ですか? 私は現在大学で社会学の講義を受けています。 そこでミードの「主我と客我」に興味をもち、関連するサイトを見ていたのですが、サイトを見れば見るほど両者の違いがよく分からなくなりました。 どなたか分かりやすく、かみ砕いた回答をよろしくお願いします。

みんなの回答

回答No.3

 乞う:許容。今後のご回答などを勉強させてもらいたく、主として記載しますことを。  「自我」は客体されえない、常に奥に入っていく、主挌たる、意識の根源としての意識、存在性(意識対象にはなりえなく、常に実践性(カント的に言えば、実践理性というのかな)でしか自分に出てこない意識。  「自己」デカルトの体が自己というように、客体化した自分、自分史とか、経験内容とか。その客体たる自己に関する意識(内容)も自己でありましょう。  そこで意識している主体は、主挌たる「自我」ではないでしょうか。  社会学もミードもその「主我と客我」を存じませんで、勉強しているヒンドゥでは、宇宙の創造は、一なる意識のイディアでしかない。  その一なる意識をブラフマといい、その個別化意識が魂をアートマ(ガンディのマハ・アートマを連想してください)。アートマがここでいう「自我」であり、存在と意識の根源基盤なのでしょう。それを、マヤなる創造の堕落的原理・当為が故に誤って経験している、表面的自我意識=自分をエゴという。だから、常に自我とアートマが意識し経験しているのに、常人はその自我とアートマを気づけないでいる。という区別ではないでしょうか。そんな概念区別で勉強をしてはおります。

adfkhas
質問者

お礼

お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。 色々な捉え方があるのですね。 興味深いです。 ただ私は勉強不足でして・・・ガンディの思想などをまったく知らないので今後勉強したいと思います。 回答ありがとうございました。

noname#194289
noname#194289
回答No.2

言葉というものは難しいと思います。免疫学などでは自己非自己の識別などという言い方をしています。こういう場合は認識の主体ははっきりしません。拒絶反応の対象にならないものを自己と呼んでいます。私見ですが免疫学の体系は心理学のそれと奇妙に重なる用語が使われているので面白いと思います(自己寛容など)。本題ですが俗な言い方では見ている自分と見られている自分というのはほぼ自我と自己の使い分けに対応するかとも思います。ご質問の本については全く読んだこともありませんが。主我が前者で客我が後者とすればしっくりするようにも思います(著者のことは知りませんからあくまで言葉の感じだけのことですが)デカルトのコギトエルゴスムは自我でしょうね。機械論者としてのデカルトは案外自分の体をデカルトの自己と考えていたかもしれないなどと空想しました。

adfkhas
質問者

お礼

お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。 そういえば免疫においても自己って使いますよね。 私は生物学を専攻しておりますので、その方がなじみがあります。 そして確かに社会学などの学問とかぶってるものも多々ありますよね。 おもしろいアプローチの仕方を提供していただいてありがとうございます。

noname#82286
noname#82286
回答No.1

自我というのはどうも自分との関係であり自己というのは心の安定度のことを言うみたいです。つまり自己というのは世界他者自我の安定を保とうと試みる存在だそうです。

adfkhas
質問者

お礼

お礼が遅くなってしまって申し訳ありません。 なるほど、そういう風に解釈すればいいのですか。 なんとなくつかめた気がします。 回答ありがとうございました。

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