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近代ヨーロッパ

高3生です。 受験勉強として世界史を勉強していたのですが、色々疑問が生まれてしまいまして・・・。 1.ハプスブルク家とは何なのでしょうか? 神聖ローマ皇帝に選出されることもあったスペイン・オーストリアの王家という感じですか? 2.神聖ローマ帝国=ドイツと考えていいのでしょうか? また領邦はオーストリアやオランダなどがあると思うのですが、これはつまりドイツの中にオーストリアやオランダがあるということですか? 3.ウェストファリア条約でヨーロッパの主権国家体制が確立された、と教科書にあるのですが、これはウェストファリア条約によって領邦に主権が与えられ、プロイセンなどの主権国家がうまれたということですか? また、そうだとするとイギリスやフランスは何をもって主権国家体制が確立した、というのでしょうか? 回答よろしくお願いします。

  • mabody
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質問者が選んだベストアンサー

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  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1

フランス大革命~ナポレオン時代 この前の段階、つまり18世紀までは、基本的には、各王家の陣取り合戦がありました。 というような理解をしてください。 陣取り合戦の方法は二つあり、ひとつが婚姻政策、もう一つが戦争。 1:ハプスブルク家 現在のスイスあたりの小領主から婚姻政策を中心にして、神聖ローマ帝国になり、神聖ローマ帝国カール二世のころに、スペインからいろいろな王国の王を兼務。 2:神聖ローマ帝国は ローマ帝国です。 おおよそは、現在のドイツ+北イタリアあたりがもともとの領域。皇帝によっては、ドイツにはほとんどいないで、北イタリアにいた人もいます。イタリアへの支配が弱くなってから、わざわざ 神聖ローマ帝国ににしてドイツ人の王とか名乗ったりしています。 3:ウェストファリア条約 他の王家の内政に干渉するな!干渉(典型的には、宗教選択)したために、30年も戦争して疲れたよ。というもの。主権王家体制であります。王家のないオランダは主権国家体制となります。 イギリスとフランスに関しては、100年戦争の終結を持って、主権王家体制になった感じであります。 曲がりなりも、それまでは、神聖ローマ帝国皇帝は、各王家に対して指揮権がありました。が、この条約で指揮権が亡くなったので、神聖ローマ帝国の死亡診断書と後世の歴史家が名付けました。 日本人の感覚だと、江戸時代という高度に中央集権化された封建体制があったために、どうしても、時代によって大きくなったり小さくなったりするヨーロッパ世界が理解できません。江戸時代でも沖縄が琉球王家として清に朝貢しつつ、薩摩の支配を受けていたというような、両属的な存在でしたが、ヨーロッパはそういった沖縄のような立ち位置が普通だったと理解すると、わかりやすいかも。

mabody
質問者

お礼

分かりやすく説明していただきありがとうございました!

その他の回答 (4)

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11114)
回答No.5

2番についてのみ。 神聖ローマ帝国というのは非常に日本人に理解しづらいところです。元はといえば、古代ローマ帝国の正統な末裔ということになりますが、血筋は関係ありません。カソリックのローマ教皇が「こいつはローマ帝国の末裔で、皇帝である」と宣言すれば皇帝になれます。日本史でわかりやすくいえば、天皇から将軍の詔勅がくだれば征夷大将軍になるようなものです。 しかし一方、その帝国の版図内に「選帝侯」という人たちがいました。これは文字通り皇帝を選ぶ権利、つまり一票を持った貴族たちです。ローマ教皇が「こいつを皇帝にしたい」と思っても選帝侯を無視して選ぶわけにはいかなかったのですね。しかし、当時のドイツは貧しく文明的にも(スペインやイタリアからは)遅れていたので、選帝侯たちの発言力もさほど強力ではありませんでした。 皇帝になるためには、ローマ教皇のお墨付きが必要ですから、歴代皇帝と皇帝になりたい人はローマ(イタリア)志向になります。一方、選帝侯はドイツにもいますから、彼らからするとローマ志向はドイツをないがしろにされて面白くない。だから自ずと両者の利害は一致せず、帝国を名乗っていながら帝位が空白だった時期も結構あって、それに肝心のローマは教皇の領地ですから、「神聖ではなく、ローマとも関係なく、帝国でもない」という摩訶不思議な存在なのです。 その神聖ローマ帝国において勢力を伸ばしたのがハプスブルク家です。元は、スイスに近いオーストリアの豪族であったといわれていますが、オーストリアを中心に勢力を伸ばしました。その戦略はもっぱら「結婚」によるものです。次から次へと結婚して「一族」の中に入れてしまって勢力を拡大しました。その結婚政策の最大のものが、スペイン王家との結婚です。 オランダは、当時はスペインの領土でした(しかし激しい独立戦争を経て独立します)。だから、ドイツの中にオランダがあるというより、スペインの中にオランダがあり、スペイン≒神聖ローマなので神聖ローマの版図の一部にオランダがあるわけです(ややっこしいですね)。 またドイツ内では、選帝侯のような発言力を持った貴族が存在したので神聖ローマ皇帝の支配権が及ばない地域も多くありました。選帝侯たちは半独立国家みたいなものでしたし、そういう事情でドイツ内には強い支配者がいなかったので各都市の独立気運も高かったのです。 現在のドイツは直接的にはプロイセンの末裔と考えていいと思います。プロイセンはかつては神聖ローマの一部で、やがてハプスブルク家から独立します。あのフリードリヒ大王はハプスブルク家のマリア・テレジア(マリー・アントワネットのお母さんです。超美人。若い頃は)と激しく戦っています。現在のドイツはプロテスタントが多く、同じドイツ語圏でもオーストリアではカソリックが多いのはこういった時代背景があるのです。

mabody
質問者

お礼

分かりやすい説明、ありがとうございます! ですが、ややこしくて忘れてしまいそうです・・・。

  • a-koshino
  • ベストアンサー率23% (102/441)
回答No.4

ハプスブルク家は、婚姻によって様々な領地を継承しました。 神聖ローマ皇帝としての身分は、ハプスブルク家が持つハンガリー王やボヘミア王、スペイン王などとは別のものなので、混同しない方がよいでしょう。 ハプスブルク家がネーデルラントを所有していても、ネーデルラントは神聖ローマ帝国の一部ではありません。「これはつまりドイツの中にオーストリアやオランダがあるということですか?」とはならないわけです。 また神聖ローマ帝国とは、近代的な国民国家のような存在ではなく、近世的な封建諸侯の連合体(江戸幕府のような体制)ですので、「神聖ローマ帝国=ドイツ」と考える時の「ドイツ」が、国民国家的体裁を整えたドイツ帝国を指すなら、イコールにはなりません。

mabody
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 なんか色々間違えて覚えていたみたいですね^^;

  • y1y9y8y1a
  • ベストアンサー率31% (30/95)
回答No.3

ほかの回答者の方々と重なるところも多いですが… ハプスブルク家はもとはオーストリア付近を本拠とする、神聖ローマ帝国を形成する一領邦国家の君主です。 政略結婚や戦争をもとに勢力を拡大し、その過程でハンガリーやスペイン、ドイツ地方を勢力下に置いていきます。 やがてカトリック教会の勢力の弱体化、ハプスブルク家の勢力拡大によって、ローマ教皇の戴冠を受けることなく神聖ローマ皇帝を名乗るようになり、世襲していきます。 また、領土を分割し、オーストリア系と、スペイン系に分かれていったのだと思います。 神聖ローマ帝国は、もとはかつてのローマの威光を復活させるべく、カトリックのローマ教皇によって皇帝の地位を与えられる(戴冠)ものです。 実態はドイツ地域の小領邦国家連合といったところで、「ローマ皇帝」の地位をタテにイタリア方面へ進出していきます。 名目的にはローマ皇帝であり、その勢力圏がドイツ地方であっただけなので神聖ローマ帝国=ドイツということにはならないでしょう。 ウェストファリア条約とは、30年にわたるプロテスタントとカトリックの戦争によって疲弊したヨーロッパ諸国が、お互いの領土や体制を尊重することで和解するための条約です。 これによって神聖ローマ皇帝やカトリック教皇による国家への介入ができなくなったため、「主権国家」がうまれることになるのです。 同時に、神聖ローマ帝国は各国への指揮権を事実上失うことになり、その存在は形骸化します。

mabody
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 神聖ローマ帝国はたまたまドイツ地方にあっただけなのですね^^; 神聖ローマ帝国=ローマと理解しておきます。 ウェストファリア条約でうまれた「主権国家」というのはプロイセンやオーストリアなどのことですか?

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

1:ハプスブルク家 現在のスイスあたりの小領主から婚姻政策を中心にして、神聖ローマ帝国になり、神聖ローマ帝国カール二世のころに、スペインからいろいろな王国の王を兼務。 これ 1:ハプスブルク家 現在のスイスあたりの小領主から婚姻政策を中心にして、神聖ローマ皇帝になり、神聖ローマ皇帝カール五世のころに、スペインからいろいろな王国の王を兼務。 ちなみに カール五世は 現在のベルギー生まれで、常用語はフランス語だったそうです。

mabody
質問者

お礼

ありがとうございました。

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