イスラム教 本来テロに関係なく良い宗教と感じますが
敬虔なイスラム教徒はテロ、ジハードに関係ないと思いますが?
コーランに書かれた教えには異教徒を排除するような教えは
存在していなくて、
それは新約聖書に描かれているキリストの教えと同様です。
イスラム教自体は、極めて差別性とは無縁な宗教であって、
異教徒を差別するような論理は、
真のイスラムの教えには存在しないと言われています。
この点を指摘することは、今後の世界平和を考える上で
重要な論点であって、
イスラム過激派の主張はあくまで政治的なもので、
イスラム教とは基本的に無関係であるという認識が重要です。
この事実は、キリスト教との比較でもより鮮明になります。
一般にキリスト教の信者は、神の子キリストを特別視しています。
しかし、イスラム教信者はモハメッドをキリストのように
特別視はしていなくて、モハメッドはあくまでアラーの神の教えを
人々に伝えるメッセンジャーに過ぎず、
私たちと同じ人間だと考えられています。
この違いは、キリスト教とイスラム教の違いに反映されています。
キリスト教徒の世界では、
キリスト教徒と異教徒とは、もともと厳密に区別されてきました。
それ対してイスラム教徒は、異教徒に対して極めて寛容です。
しかも、その寛容さはコーランの教えに由来しています。
キリスト教には差別の歴史が濃厚にありますが、
イスラム教には基本的に宗教絡みの差別の歴史が存在しないと言われています。
ただし、シーア派とスンニー派の対立など、
宗教的な教えの解釈も絡んだ政治的な対立は、この間に一貫してありました。
しかし、これは宗教的な対立というよりも、極めて政治が深く絡んでいる問題です。
ひとつ象徴的なこととして、キリスト教徒は
歴史的に布教活動を積極的に行ってきましたが、
そもそもイスラム教徒は布教活動自体を行いません。
キリスト教徒の布教活動には、
異教徒を正しい宗教に改心させるという狙いがありますが、
イスラム教徒にはそうした発想がありません。
そこはイスラム教が、異教徒を含めて
すべての人間が神の前で平等であるという発想を、
まさに教えの基本にしていることに由来しています。
イスラム哲学の権威として有名な井筒俊彦氏の著書などを読むと、
その辺のことが詳しく説明されています。
こうしたイスラム教についての基本的な認識が、
大多数の日本人には欠落しているので、
上記のような点を指摘することは重要なのです。
イスラム過激派が、コーランの文句を言えない人
を異教徒として殺害したからといって、
そうした常軌を逸した行為をイスラム教と結びつけるのは、
おそらく正しい判断とは言えないのです。
イスラム教自体を批判しても、
およそ発展的な議論にはならないのでは、という感じがします。
少なくともテロに心を痛めている
大多数の敬虔なイスラム教徒との連帯を阻害するだけにしかならないと思います
ただ異教徒差別はないものの、女性差別は存在します。