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「暗さ」と「おろかさ」について

fujic-1990の回答

  • fujic-1990
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回答No.3

 難しく考える必要はないような気がしますが。  それらの言葉は、人権とか教育とかを問題視しない昔にできたことばですから、それを前提にして考えれば、一般的に言って、暗ければ見えない。見えなければ理解できない。理解できない人は愚かです。  逆に、明るければ、よく物が見える。見えれば理解できる。理解できれば愚かではないわけです。もちろん、一般的に言えば、です。「必然的に」知的になるのではありませんし、『そなわざるを得ない』わけでもなく、単に、そうである場合が多い、だけのことでしょう。  しかりしこうして、暗さと愚かさはセットになり易く、明るさと賢さはセットになりやすい。そういうことではないでしょうか。

noname#41852
質問者

お礼

基本教育がなっていない時代には、知識がないということが致命的であったかもしれないですね。今はいらないことばかり詰め込むというおろかな時代です。大変納得できました。

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