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反論して下さい
「古代ギリシアの自然哲学者たちは、万物が水や空気といった無機的物質からできていると主張したが、彼らは現代からみるとあまりに幼稚で非科学的な唯物論を唱えていたにすぎず、学としての価値はない。 このことについて反論がある方の意見を聞かせて下さい。
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実は反論したいとも思わないのですが、 困っておられるようなので。 いろんなやり方があり得ます。 1)古代ギリシアには「自然哲学者」などは存在しなかった。 2)古代ギリシアには万物が「無機的物質」からできていると主張した人物は存在しなかった。(現代で言う有機/無機の区別は存在しなかった……などの理由) 3)現代から見て「科学的」であるだけが「学」としての価値ではない。 4)「幼稚な」唯物論と「成熟した」唯物論との違いは程度の差に過ぎず、「成熟した」唯物論にだけ「学」としての価値があるとは言えない。 5)だいたいこの課題自体が「学」としての「価値」がどこに存するか明示していないので反論に値しない。 これは4)とほぼ同じ主張ですね。 6)万物は無機的物質からできている。(有機/無機の区別ができるならこれがおすすめ) 7)実は「幼稚で非科学的な唯物論」を「現代の成熟した科学的唯物論」は論破できない。 8)「学としての価値はない」と考えられるものをことさら否定しようとする考え自体に価値がない。いまどき「古代ギリシャの自然科学者」を擁護しようとする者はいない。 9)「学としての価値はない」というが、そもそも「学」自体に価値はない。 10)この課題を与えた人間自体に価値がないのだから、この課題に答えることに価値はない。(出題者の人格への攻撃) 11)「古代ギリシャの自然哲学者たち」が「万物が水や空気といった無機的物質からできている」と主張したことに「現代からみると」「学としての価値がある」と考える人が少なくとも1人以上いる。(価値とは相対的なものである) 12)もし「古代ギリシャの自然哲学者たち」の主張に「学としての価値がない」とすれば、このことに反論せよという課題自体に意味がなくなる。もし、この課題に意味がないとすれば、答えるだけの価値はないし、この課題に意味があるとすれば、彼らの主張に学としての価値はある。 まだいくらでも反論の方法はありそうです。 よかったら他の方も考えてあげてください。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.2,6のご回答にちょいと私の言うことからの説明を申しあげます。 ヨガの中でそういう説明はされており、それは、宇宙のアストラル的要素としての肉体への現われを説明したものです。それは意識の一定の段階の、ある要素ともなり、知覚のと経験の枠みたいに働き、ものの現れ要素となります。カント的にいうと先験的(アプリオリ)カテゴリーでしょう。これが世界の成りたちとなりますので、先の回答さんの宇宙のできる要素でもあります。これはヒンドゥの説明ではそうなるということです。つまり人間は宇宙、小宇宙であり、宇宙と正に同じなのだ、ということです。バイブルが、神の似姿ということをいいますが、顕在意識が意識できないだけである。という宇宙一体の開悟の方は一体の中から申されている。これがヒンドゥの一哲学の言い分です。現今、唐突にこんな話に接すると希臘の哲人のお話同様に、受け入れがたいものでしょう。こういう方たちは哲人であったが、カントなども含め、決して近代西欧歴史の、意識の、考え方での、学者という部類だけには入れられないのでしょう。尊敬してきているカントも、所詮、西欧的にも、一部の知性で弄繰り回していた、概念構成詩の偉大な頭脳だったに過ぎない。と不遜にも思います。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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中国の春秋に続く戦国の整理とされる五行は木・火・土・金・水の 5 種類(日本語では、もっかどごんすい)はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%A1%8C%E6%80%9D%E6%83%B3にあるとおりですが、≪行≫は≪辻≫、アストラル的要素という意味での≪神≫でありましょう。これはヒンドゥのサンキャにも土水火風そして空などとあり、現象世界の要素以前の元の要素であり、またそれを顕し、それらを知覚経験させてくれる、意識側の、不可視の要素ともなっています。サットヴァとでもいえましよう。これらは決して、感覚の知覚を越えていて、物質要素ではないので、近代科学的の手法ではアプローチや云々はできません。これを感知した、感知している方は、科学でではない手法で、観しておられます。希臘の哲人も、これに通じていたのではないか。西欧中世を経てルネッサンス後の西欧近代科学が、宇宙の全てを語りうるものとは思えませんね。陰陽五行も正に、そしてヒンドゥや中国のみなさんも、森羅万象に静かに一体になり、そのものになって、そのもとして仰っていることで、正に自然哲学そのもでありましょう。前のご回答が、批判を、といわれていますが、批判としては申しあげていません。補足にでもなればいいと存じます。
- 1000827313
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>反論して下さい ANo1様、ANo2様が既に答えられているのですが、考えようによってはこれらの答えは正しいと思います。 地球の成り立ちから考えて見てください。火の塊で、水も空気も無かった所からです。窒素に覆われていた頃に出てきたものは、今でも我々の体内だけでなく、地球上の全ての物質に存在し、生物に含まれ生き続けています。これを何故彼らが想像し、感性でそれが正しいとしたのかを考えると、彼らは幼稚どころか現代の科学者たちがやと分かった事を既に観想していた遥かに優れていた人達と看做してもおかしくないと思いますが・・ 其の考えで行くと「五行思想」も一理あると思います。 hummer1様に対する反論になりましたでしょうか?
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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無機物、有機物の概念や観念を意識していたか。近代理知的思考がモナドなどという観念が、かの思索の方々に同じであったか。かの思索の方々の思索は、近代理知の推論や演繹などと同じ作業やプロセスであったか。万物の根源という根源は、かの方々はどういう観念であられたか。その水、空気はを無機の単位として観念していたか。私は解釈法学の専攻でしかないので、ここらが疑問です。万物ということ、世界や自分のことを、とても高い価値水準の貴兄様たちの観念と同じに対していたのか。其処に価値の高低をいえる根拠は何か。何がかのかたより貴兄が進歩しているのか。私には見えない。水や空気を万物の組成要素としたプロセスは、高い進歩を遂げている貴兄と同じ、あっちこっちにそれらがあるからだと、いう推論か、どうか。私は必ずしもその跡を追跡することは、高い進歩の貴兄様方もできえていないと存じます。要するに私は、あの方々の対する態度、思いは高度なのものであったのではないでしょうか。その次元のこととしていえば幼稚でも、非科学的でも、唯物論でもないと存じます。私は哲学の専攻ではありません。ずうっと生きててきている人間達の中の、個個の人間の一人でしかありません。あしからず。極く常識で思ったに過ぎないと、自分では思っていますが。非常識だったでしょうか?お教えを乞います。
- cafatabaco
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その幼稚なものの上に立ってるあなたがなにをゆってんの? 今に至るプロセスを価値がないというならあなたの若かりし頃もまた、幼稚で価値のないものですね。価値のないプロセスを経て今存在するあなたは全く価値のない人間だ。もしあなたに価値があると言うならその価値はいつ現れたの?昔は泥で作った団子でままごとしてたでしょ?月にウサギがいたと思ったでしょ?あなた流でいうと 「彼らは(昔のあなたは)現代(今)からみるとあまりに幼稚で非科学的な唯物論(想像)を唱えていたにすぎず、学としての(振り返る)価値はない。」ってことやね。
>このことについて反論がある方の意見を聞かせて下さい。 はい、では遠慮なしで。 ヨーガ的な見解では、そのとうりなのです。 空元素、風元素、火元素、水元素、地元素の五つの元素で。 詳細は・・ 地=肉体の筋肉、骨格 水=血液、粘液などの液体。 火=体温のこと。 風=呼吸、つまり空気。 空=肉体のところどころにある、空間という意味。 で、死のプロセスでは、この五大元素が、崩壊していくとか。 ただし、古代ギリシアの自然哲学者たちは、このことを知っていたのか、つまり、この趣旨で言っていたかは当然、不明です。 そのため、趣旨と違っていたら、ごめんなさい。 以上
ところで、原子や分子は無機的物質ですよね。 全てもものは原子・分子からできています。つまり無機的物質からできています。人間だって炭素・水素・窒素・・・など無機的物質からできています。 言葉上の「有機物」ということは別にして、「有機的物質」などこの世に無いことくらい常識ですが、「幼稚で非科学的な唯物論を唱えていたにすぎず・・・」という幼稚な考えはだれがしたのでしょう。まさかご質問者様ではないですよね。