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死刑制度反対について

なぜ死刑制度反対の方が多いのでしょうか? わたしはどんな形であれ人を殺したら自分の命を投げ捨てるべきだと思います。 情状酌量の余地があるのであれば減刑をすればよいことで、自己快楽や理由無き殺人などは死刑でいいと思います。 冤罪などは証言のみを鵜呑みにせず科学的物的証拠や状況証拠などをそろえれば問題ないと思います。 裁判で人が人を裁いて死刑で人を殺すのはよくないと言う方がいますが、それを言ったら法律や裁判の意味がないと思います。それに判決を出すのは人ですが、裁くのは法律と思います。執行するのは人ですが・・・これは執行する人間も死刑囚にさせればいいかと・・・ 死刑制度反対の方はこの質問の回答よりも死刑に変わる刑罰を教えてください。 終身刑などもありますが、たとえば、自分の身内を殺した犯人が終身刑になったとしますが、刑務所の運営費は主に税金です 家族を殺された悲しみをこらえながら毎日働いて収めた税金で家族を殺した犯人に一生めしを食わせていく苦痛をあなたは耐えれますか?

みんなの回答

  • 3691819
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回答No.19

 こんにちは。 私はある殺人事件の裁判を通して冤罪がいかに生まれてくるのかを、目の当 たりにして理解する事が出来ました。脆弱な状況証拠の積み重ねにあからさ まなデッチ上げ証拠を平気で採用する裁判長。物的証拠も無く自白も全く 取れていないにも関らず、判決は懲役刑でした。  現状の司法制度では疑わしきは有罪という風潮が根強く、冤罪の生まれる 余地がかなり有ると私は思います。基本に乗っ取り「疑わしきは罰せず」 を実践し、冤罪の生まれる可能性を限りなくゼロに近づけなくては、 死刑制度に100%賛成は出来ないというものです。  また再審請求の壁も以上にハードルが高く、その点も冤罪を生む要素の 一つになっていると思われます。  また未だに無期懲役刑を創らない政権与党には呆れてしまいます。 この刑があればどれだけの遺族の心が救われた事やら・・・

回答No.18

> わたしはどんな形であれ人を殺したら自分の命を投げ捨てるべきだと思います。 あなたはそう考えるのでしょうが、そう考えない人も少なくはない、ということです。 ちなみに、故意か過失かにかかわらず、ですか?過失であれ人の命を奪ったのであれば、その命を投げ捨てるべきという人もいるでしょうし、遺族の人にもそう思う人はいるでしょう。ですが、すべての人がそう考えているわけではありません。 私は、次のような理由は死刑に反対する理由になりうると思います。 ○人を殺したから殺してもよいというのは、殴られたら殴り返してもよいというのと同次元。殺人者を死刑にするなら、傷害犯には被害者と同じ傷を負わせるのか。人の目をつぶしたものの目はつぶす、というハンムラビ法典の世界になる。 ○人を殺したからといって、その人を殺せば、それは殺した自分たちが彼らと同じ次元に落ちるということ。死刑制度を容認するということは、日本国民は殺人者と同次元であるということになる。 ○殺したところで、殺された人が帰ってくるわけではない。それよりも生かして罪を悔いさせ、少しでも罪を償わせるべき。 ○現実問題として、日本では死刑制度が正常に機能していない。ちゃんと実施できない制度なら、廃止も含めて見直すべき。 私も、身内を人に殺された経験はありませんので、想像するしかありませんが、たぶん、犯人をにくいと思うでしょう。それこそ、殺しても飽き足らないというくらいに。 ですが、逆にいえば犯人を死刑にする程度で許せるとも思いません。むしろ、一思いに殺してやるよりも、一生責めつづけ、犯した罪をしっかりと後悔させて、反省して遺族に泣いて許しを請うようになって、初めて殺してあげてもいいと思えるのではないかとも思います。 むろん、終身刑はあなたのいうように、犯人をのうのうと生かすことになるかもしれません。ですが、殺してしまえばそれまでで、限りなく可能性は低くても、犯人が後悔という地獄の苦しみを味合うことを願い、あえて終身刑を望むかもしれません。 あなたは死刑制度の存続の正当性に何ら疑いをお持ちでないようですが、存続することにもまた問題点があり、もちろん利点もあるわけです。私自身、死刑の廃止を主張するわけではありませんが、死刑という制度の存続にも疑問があります。廃止論者の意見もよく聞いて、もっと広い視野でものを考えてみてください。

noname#35986
noname#35986
回答No.17

秋霜烈日

noname#35986
noname#35986
回答No.16

死刑賛成派です。 次に執行される死刑囚に死刑を執行させる。

回答No.15

 自分は反対ですね。    ただ実際は制度があるのですから、おおっぴらに堂々とコソコソせず公開で行われたらいいと思います。また被害の関係者(たいてい遺族でしょうか)の意向によって「あだ討ち」も、可能にしたほうがいいと思います。  殺したいほど憎い被告を目の前にし、何もできずたとえ 「もういいです」 となってしまっても、そこに遺族の救いがあるような気がします。今は被告の救いが優先みたいですし。  的外れですいません。  

回答No.14

私は国民が決めた、現行法による死刑執行論に反対ではありませんが、死刑の他にも無期懲役として、生涯懲役を課するのも一つの方法と思います。 長年に亘り生涯を社会から隔離して、自由を奪い懲役をさせ、服役者の生活費、施設費、管理運営費等を捻出し、犯罪に対する罰を与え、反省させる方が、死刑になるより、受刑者には体力的、精神的に辛いのではないのでしょうか。

  • bigboss55
  • ベストアンサー率24% (12/49)
回答No.13

私は死刑制度に賛成です。今回の山口県の裁判でも、突如 死刑制度反対論者の弁護士が出てきて、売名行為に精出してる。犯罪者の過去の生い立ちに不幸があり、其れが事件の発端だ!等と、馬鹿げた事を言い出す。そんな論拠が通じるなら、世の中犯罪者だらけ。過去の生い立ちは国民全部が何らかの、不幸を背負ってるはず。この馬鹿弁護士はお坊ちゃま育ちで、今まで不幸な目に有った事ないのですか?殺人には死刑を持って償わせるべきです。終身刑等税金の無駄使いだ!

  • gootaroh
  • ベストアンサー率47% (396/826)
回答No.12

以前、このサイトで類似の回答したことがあります。 終身刑の囚人は、遺族も含めた国民の税金で生かしてもらっている、というのはまあ感情論ということになりますが、 私も死刑反対論に疑問を持っています。反対派の論点は、 (1)冤罪の場合の取り返しがつかない (2)憲法第36条の「残虐な刑罰に当たる」 (3)死刑を恐れた容疑者が逃亡や自殺をする恐れがある (4)死刑に犯罪抑止効果がない (5)国家であっても人を殺すことは許されない ということでしょうが、 (1)について、冤罪のリスクは死刑に限った話ではありません。 確かに、執行すれば取り返しがつかないのは死刑固有の問題ではありますが、少なくとも事実関係に争いがない場合は問題ないでしょう。 また、死刑の代案である終身刑であっても、獄死後、冤罪が明らかになったら、取り返しがつかないのは同じだと思います。 (2)について、「残虐」の定義次第なのでしょうが、一方、第31条で「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」とあり、死刑は法律で定めているので憲法上の問題はありません。 (3)(4)について、これも死刑固有の問題ではありません。 (5)について、これは私は逆の見解を持っています。国家だからこそ人を殺すことが許される、言い換えると、 国家しか人を殺すことが許されない、と思っています。法治国家でないと、弱肉強食というか、結局腕力勝負になってしまいます。 「暴力をなくそう」というスローガンがありますが、この世から暴力がなくなるわけはなく、 正確には個々人が持っている暴力を国家に預けようということです。その暴力を行使する代表選手が軍隊と警察です。 国家の外に対し暴力でもって国家を守るのが軍隊、国家の内部の構成員(国民など)に対し暴力でもって 国家(法治国家というシステム)を守るのが警察(及び司法や行政)、そういうイメージです。なので、私からいわせると(5)は論外です。 ですので、反対論の多くは説得力がありません。 というようなことを以前回答したことがあります。それに対して様々な反論もありました。 様々な反論をいただいた結果思ったことは、 山口県光市の母子殺人事件の弁護団は完全な「確信犯」だし、一部のマスコミや左翼などは国家権力を極端に毛嫌いしているからこその反対にすぎないため、どうしようもありませんが、 私のような「死刑賛成派」と「真面目な死刑反対派」との違いは、結局のところ、ミクロとマクロの視点の違いだということです。 私の場合は、ミクロです。つまり個別具体的な事件について、「遺族の気持ちはどうなる」とか「愛する家族を殺されたら、そんなこと(死刑反対)は言っていられないはず」と考えます。 しかし、(確信犯的反対を除いた)真面目な反対派は、もっとマクロに考えています。すなわち、 1.死刑賛成派の主張は、刑法的な問題について、当事者はあくまで被害者や遺族なのであって、我々個々の国民は基本的には無関係、という考えがあるように感じる。 2.根本的には、我が国のような民主国家は、国家=市民である。だからこそ「主権在民」というわけで、都合のいいときだけ「国家」と「国民(市民)」を別のものとして捕らえるのはおかしい。 3.警察権などは国家として運用されているが、その国家を支え導いているのは我々主権者たる国民である。 4.したがって、刑法に限らず、国民(市民)もそれなりの責任を負わなければならない。 5.どんな責任なのかというと、具体的には、「罪を償った者を差別してはならない」、「罪を犯す者を作り出した社会を放置していてはならない」ということである。 だから、なかなか論点がかみ合わないんですよね。 よく聞くでしょう?「罪を犯す者を作り出した社会が悪い!」って。 まあマクロに考えたらそうなんでしょうが、私などは、判決というのは個別具体的な(ミクロな)話であって、 それに対してマクロな考えを持ち出されても、はっきりいって引いちゃいます(笑)。 話をそらしているのではないの?とさえ思ってしまいます。 社会が悪いのではなく、悪いのはあくまで、断じて、被告人です。 社会を構成する圧倒的多数の国民は、例え悪いことを考えていても「理性」で抑えています。 悩んでいる人の悩みを聞いてあげることは大切かもしれませんが、悪いことをした後の人は、もう一線を越えてしまったわけですから、今更遅いわけで、逆に悪人の方こそ「なぜ多くの国民のように、自分の行動を抑えられなかったのだろう」と反省してほしいものです。 この点は類似の意見を持つ人の記事がありました。ご参考まで。 http://www.sankei.co.jp/culture/bunka/070616/bnk070616001.htm

noname#38692
noname#38692
回答No.11

え?!!!死刑制度反対の方が多いというの、逆じゃないですか??今、日本では圧倒的に死刑賛成の方が多いでしょ。だから現に死刑がまかりとおってるんじゃない。私は日本人の国民性から言って死刑はなくならないと思っていますが。。。。 個人的には死刑反対です。家族が殺されても耐えられるのかという問い方は全然理論的ではないと思います。そんな私欲で考え出したら、すべての法律が成り立たなくなるのではないですか?社会的にその制度が必要なのかということが重要なのです。 ですから法律自体に我慢ならない場合は そこは法律に頼らず、自らの手で犯人を殺●するしかないと思うのですが。

  • Roman0
  • ベストアンサー率18% (118/628)
回答No.10

 No.1 の回答が、日本の大半のケースでは図星というところでしょうね。  所詮、情緒的な話です。  バランスを欠くなんてことを言っている人も居ますが、いったい何と何のバランスをどうやって定量的に比較したのかを言えない状態ですから、所詮は感情論を言い換えているに過ぎません。  定量的とはどういうことか。例を上げましょう。  冤罪があろうが、死刑によって犯罪者(=秩序紊乱者)を社会から葬って潜在的な被害者を救えるのなら、あとはどちらが多いかというだけの問題です。  まず前者の冤罪による死刑の件数が何件あるのか、反対論者は上げていませんね。変わりに私が上げると、現状の、法務大臣が執行をサボるという状況下では、限りなくゼロに近い数字であることは間違いありません。毎年、10件以下の一桁として良いでしょう。  他方、犯罪による被害者は、認知された殺人事件だけで、毎年1200~1300件です。一件一殺とは限りませんから、最低でも毎年1200~1300人が殺されているわけです。  最低でも、冤罪死と殺人者による殺人は、4桁違うわけですね。  再犯するかどうかは分かりませんが、一度人を殺した人間をあなたがどう見るか、考えてください。その事件と類似の問題に再度であったとき、その殺人者が殺人を躊躇うかどうか。  甘く見積もって、10人に9人が躊躇うとしても、3桁違うわけです。  ちなみにこの数字は、警察庁の統計です。下記文書の p.53 をご覧ください。 http://www.npa.go.jp/toukei/seianki4/20070521.pdf  これでお分かりのように、なんら定量的な検証を経ず、情緒的に反対している人が、日本の死刑制度反対者の大半です。  他方、外国ですと、イスラム教徒やキリスト教徒が人口の大半を占めます。ユダヤ教も、数は少ないのですが、政治的・経済的影響力は大きいですね。これらに共通するのは、造物主を神とし、ヒトは被造物であるというコンセプトです。  彼らにとっては、ヒトの命を奪うことは、神の権限を侵す行為であるという認識になるのです。  陶芸家は、自分の失敗作を叩き割ることができます。しかし、その陶芸家だって他人が自分の作品を、仮令失敗作だと思っていても、叩き割ったら不快でしょう。そういう感覚です。  「人権派」という人々がいます。光市の弁護団のような人たちですね。彼らが声高に叫ぶ人権というものが、なぜ存在するのか、ご存知でしょうか。  そもそもは、造物主が被造物に対して人権を認めたからです。  だから、ヒトがヒトの人権を侵すことは、神の権限を侵すがゆえに禁じることができるのです。ちなみに、神とヒトの間が隔絶しているゆえに、神と比べたらヒト同士は平等になります。平等に、基本的人権があるわけですね。  そのような前提に立てば、死刑は人権の根本である生存権を奪うことですから、とんでもない越権行為になるわけです。それが、日本を除く世界における、死刑廃止という思想の背景です。  で、あえて残しておきましたが、日本における死刑反対派の「大半」の残りは何かというと、共産主義者です。左翼やサヨクと呼んでもいいのですが。  共産主義の社会観も、造物主を頂く世界と実は良く似ています。  トップに神が居ないというだけで、ヒトはみな平等なのですから。  そんなコンセプトではヒトの社会は安定しないし、ヒトの心も安定しないということは、ソ連の崩壊や共産党中国の経済主義へのシフトを見れば明らかなのですが、それが理解できない or 理解したくない or 理解すると都合が悪いため、未だに共産主義思想を頭の根っこに抱えている人たちが、現代の共産主義者です。  ヒトは平等だから、ヒトの基本的人権を奪えない、というのが彼らのナイーブな主張です。禁固などの身体の自由は奪ってもいいのに、勝手な線引きをしているものですね。

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