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邪馬台国はどこにあったか?

actaeonの回答

  • actaeon
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回答No.5

資料が古いと言うことですが、どの程度研究をなさったのでしょうか? あなたの考察などを聞かせていただけるとどう答えるのがよいのか、読んでいる人も当てが着くと思います。 今のままでは、百花繚乱をまとめることすら難しいと思われるので…。 資料と言うことで興味深い論を読んだので紹介しますね。 魏志倭人伝は有名ですが、隋書たい国伝(「たい」が書けない)という中国の資料があります。この中に、魏志以降の日本についての記事があり、それが邪馬台国の場所探しの参考になると言うものです。 確かに、魏志は重要ですが、それ以外に日本との交流を書いた資料を細かく見てゆくことによって場所などを考えてゆくというのは大事ではないかと思います。 ある意味、魏志倭人伝の里程記述のみから場所を算定するなどということは、何か偏重していると言われても仕方がないかもしれません。 私はこの論を読むまで、邪馬台国につながりそうなそのころの日本についての文献が、魏志倭人伝にしかないものと思っていたくらいで、目から鱗でした。 残念ながら今手元にその本はないのですが、同時代の隣国の資料を当たることは重要だと思っています。 たとえば古田武彦の九州王朝の論理 と言うようなタイトルの本にも隋書たい国伝についての考察があったと記憶しています。ちなみにたしか去年の6月頃にでた本だったと思います。 参考まで。既知でしたら御免。

takonaguri
質問者

お礼

アドバイス、ありがとうございます。 確かに邪馬台国に関する資料というと魏志倭人伝しか思いつかないことが多いですよね。 参考になりました。 ・補足というかなんというか。 説明文が少なく、ご迷惑を。 ちなみに私は大学生でして、考古を学ぶ上での延長線上で調べていたので、研究とまではいかないところがちょっと悲しいです(苦笑) なので、大学図書館の参考文献・資料で調べた程度です。そこで貸し出し中だったもの以外で残っていたものが数年以上前に出されたものだけだったもので。そういう意味です。 一つ。質問に私の考察を書いてしまうと、それに対する意見を求めるような感じになってしまうので、そうならないためにあえて書きませんでした。 書いたことで回答者の方々の参考になるかもしれませんが、もしかしたらそのことでみなさんの考察が曲がってしまうかもしれないと思い、私は書かない方を選択しました。 それぞれの方の先入観(というかなんというか)のないご意見を求めていたもので。

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