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本能寺の変、明智光秀の真相

  • 質問No.309524
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大河ドラマで本能寺の変をやっていましたね。昔TVで見たのですが、本能寺の変は、実は徳川家康と羽柴秀吉の共謀による暗殺であったと。そして実行犯の明智光秀は徳川家に入り、優遇されたと。
(その証拠に、光秀の首を秀吉は確認もしなかった、2代3代将軍の名前には光秀の字がつけられている、日光には明智平という地名まである、、、)

この説というのは、日本史学的にどういう位置づけ(立場)なのですか?やはり異端説??それとも実は史実に近いと思われているのでしょうか・・・

※こういう話題好きなので、その他にもあったら教えて下さい。。(長篠の3段程度の火縄銃隊では、実は騎馬隊が来る前に充填できなかったとか・・・)

回答 (全65件)

  • 回答No.15

ベストアンサー率 15% (594/3954)

私の大胆仮説。
じつは本能寺で信長は討たれていない。

横暴なことで知られている信長は、たえず、身内を疑っていた。
そこで、わざと信長の周りを明智軍だけにして、謀反を起こすかどうか確かめさせた。本能寺に宿泊して討たれたのはニセモノ。
本物は、先に隠れておき、明智が謀反を起こし、それに同調するやつを確認した上で抹殺するつもりだった。光秀は、京都にながかったし、足利幕府とも仲が良かったことがあるから、追随するやつも考えられる。
たぶん、入れ智恵をしたのは秀吉。
信長の誤算は、隠れている間に秀吉に暗殺されたこと。

本能寺に信長の死体が残っていないのも、秀吉が「中国大返し」で光秀を討つことができたのも、いちおう説明できます。誰か、TVドラマ作ってくれないかな。

なお、義経については、そもそも「義経」自体がニセモノ、という説があります。
奥州藤原氏が、ポスト平氏戦略で能力ある者を送り込んだ。頼朝も、幼子の時別れた弟が区別できない。ただ、ニセモノであることは判ったけど、清盛を討つのに必要な間は全面的に信頼したふりをして戦わせた。用がすんだら、ポイ。

まあ、これも、たとえ義経がニセモノであっても、歴史的には、平氏のあと源氏が実権を握って、封建制度を確立、ということですが。
なお、鎌倉幕府も、源氏は三代で消え、北条氏が実権を握りますが、これも陰謀臭いな。
  • 回答No.14

ベストアンサー率 15% (594/3954)

今川義元のように、戦場でうたれた場合は、即座に判明しますが、
明智光秀は、小栗栖の片田舎で、討ったのも光秀を狙ったわけでない野盗のたぐいです。所持品を奪って逃げたあと、光秀の情報を知って、もしやとおもって、報告する、というのがありがちな話です。
バラバラ殺人事件でもそうですが、人間の首を切り落とすのは難しい技で、素人はのこぎりを使います。日本刀でスパッと首を落とすのは技術がいり、それもナマクラでない日本刀か、あるいは青龍刀みたいな重みでたたきつける刀を持っていなくちゃならない。
したがって、褒美目当てに都に報告して、はねられた首が実際に都に届くまで結構時間がかかります。
いまなら直通電車で20分ぐらいですが、
旧暦の6月16日では夏の一番暑い時期。冷蔵庫もない時代に、顔が判別できるような首を晒すことは不可能だと思います。

なお、歴史というのは、当人が実際に死んでいようといまいと関係ありません。歴史の舞台から消えたら、死んだのと同じですから、義経がジンギスカンかどうか、というのは歴史的に問題でない。
たとえ光秀がニセモノであっても、織田信長が全国制覇しつつあるときに倒れ、明智が3日天下の後、秀吉が実権を握った、というのは、歴史的にまちがいありません。
  • 回答No.13

ベストアンサー率 20% (34/170)

>> 京の都まで届けられて検分の際に「ホンモノ」であったかどうか、
>> という保障はありませんね。

>ということであれば、今川義元も武田信玄も上杉謙信も豊臣秀吉も死んだという保証はありませんね。こうなってくると歴史は成立しなくなってしまいます。いったい何を信じれば良いのでしょうか。現代人の書いた小説でしょうか

極論でしょうね。
公家に、死体の首実験だけで光秀だと判るはずがありません。
彼らは素人です。
毎日見ていた家族なら可能性はありますが他人が、それも
何度か遠くから見た、というだけの顔が死んだ後で判別できるものでしょうか。

今川義元の首実験はバリバリのプロが死後まもなく実施しています。
実験としても精度がかなり異なるように思えますが。。
  • 回答No.12

ベストアンサー率 29% (33/113)

nozomi500さん
> 「光秀の首」ですが、書いた公家さんは真実を書いたつもりでも、
> 小栗栖の田舎はずれで「名もなき者」に討たれた「光秀の首」が、
> 京の都まで届けられて検分の際に「ホンモノ」であったかどうか、
> という保障はありませんね。

ということであれば、今川義元も武田信玄も上杉謙信も豊臣秀吉も死んだという保証はありませんね。こうなってくると歴史は成立しなくなってしまいます。いったい何を信じれば良いのでしょうか。現代人の書いた小説でしょうか。

光秀の首は曝されていて、多くの人がこれを見ています。死人の顔は生きている時分と相当違うのでしょうけれど、可能性だけでいってしまえば何でもありです。
  • 回答No.11

ベストアンサー率 20% (34/170)

>うーん、、結局のところどうお考えなのか、、いまひとつ伝わらないのですが・・・・

作文能力がなくて申し訳ない。
ちょうど、井沢元彦が信長のところを書いている時なので変に意識してしまいました。

要はですね、
信長の政策には無駄がないのですよ。
無茶やっているように見えても実は大変な効果を発揮している。
待っていれば相手が自然に躓いてくれた他の大名とは違うわけです。
事実、実力で京に上がってきた。

足利義満の例があったように、このままではヤバイとなるのが人情です。
天皇家はなんとか信長を止めたかったでしょう。

権威が通用するタイプとそうでないタイプはあります。
もちろん信長に権威など通用しません。
その通用するタイプの一人が光秀だったのでしょう。
いろんな戦国武将へ督促が届く中で具体的な行動を起こしたのが
光秀であり、信長を除去する目的を達成したのだとしたら、、、

家康も秀吉も毛利もそのことを知ってはいた、としたら。

起こるべき次のステップへのイメージはそれぞれの頭にあったでしょう。
それをまた具体的に実現したのが秀吉だった。
家康は行動が遅くて出遅れてしまった。
しかし、起こるべき未来に関して知ってはいた。

そのために共犯者の心境に近かった、としたら。

あとは秀吉と家康はなあなあ、ですよね。
事実、なあなあです。

関ヶ原での活躍も天皇家が背後について全面バックアップが
あったとすれば全て出来レースですよね。

その蔭に、死んだはずの光秀が生きて暗躍していたら。

公家は全面的に協力するでしょう。
死んだことにもするでしょうね。

秀吉も何もなかったのなら、家康に250万石を許さない。
何か、遠慮があったのでしょう。
次はお前がやればよい、くらい言ってたのではないですか。
そこに秀頼が産まれてしまった。

誰かのシナリオを強く感じます。

そして、全て私の空想の産物です。
いや、楽しいですな。。。
  • 回答No.10

ベストアンサー率 15% (594/3954)

「光秀の首」ですが、書いた公家さんは真実を書いたつもりでも、小栗栖の田舎はずれで「名もなき者」に討たれた「光秀の首」が、京の都まで届けられて検分の際に「ホンモノ」であったかどうか、という保障はありませんね。
  • 回答No.9

ベストアンサー率 29% (33/113)

No.5の者です。

> 公家の日記ってどれくらい信憑性があるのでしょうかね?

公家や僧などの日記というのは「古記録」と称せられ、「文書(もんじょ:公私の手紙や制札など)」と共に最も信憑性の高い史料とされています。信憑性の高いとされている『信長公記』ですら史料のくくりでいえば「軍記」という分類になり、『信長公記』も多くの誤記が指摘されています。「軍記」より「古記録」・「文書」の方が一般的に(というか圧倒的に)信憑性が高いです。
要はある事柄が起きたときに、これと同じ時期に書かれたか、時代が下ってから書かれたか、ということが信憑性に直結してきます。これに加え、傍証があるか(複数の史料に記述されているか)ということも非常に重要になってきます。

> こういう記録というものは、後世に事実を曲げて伝えるために
> 嘘を書くのも当たり前と聞きますが・・・

確かに著者が意図して事実を曲げた事例はありますが、これを証明できる事例は非常に希ですし、基本的に日記は公の目に曝されることが希ですので、事実を曲げる必要性が非常に薄いです。『兼見卿記』はこの希な事例ですが、これは「別本」というものも存在しているため、また著者の身に危険が迫ったために事実を曲げています。ただし、引用した天正十年六月十六日条には「別本」が存在しませんので、信用に足りると考えます。

> 曲げて伝えられた嘘を聞いたひとが、史料に記録したという可
> 能性はないのでしょうか・・・

可能性はあります。たまたま嘘が広がったか、意図されたプロパガンダか…。
ただし、天正十年六月に光秀が死んだかどうかということについては、引用しませんでしたが『言経卿記』『多門院日記』『蓮成院記録』をはじめ、多くの古記録・文書に記載されていますので、疑いようのない史実と考えて差し支えありません。
  • 回答No.8

ベストアンサー率 15% (594/3954)

まず、「本能寺の変」ってのも不思議な話ですよね。
中国地方で毛利軍と戦うために出撃した明智軍はれっきとした軍隊です。対して、本能寺に駐留する信長一派は「手勢」です。
本能寺は「寺」であって、籠城できるような「城」ではない。
「軍勢」が「手勢」と戦えば、あっという間に決着し、明智軍は信長が炎に包まれるまでに信長の首を取れるはず。(あの天下分け目の関が原の合戦でも、小早川が寝返ってから2時間ほどで決着している)
炎の中で切腹して遺体も不明、なんてことがあるはずがない。
(信長が謀反に気づいてすぐ放火したならともかく、弓の弦が切れるまで応戦したというんだから。)

家康と秀吉については立場が違い、秀吉が天下をとろうと思えば、年齢差のない信長はどうしても邪魔ですが、家康にとっては、歳の離れた信長はあえて排除する必要がない(実際、秀吉が死ぬまで待とうホトトギスだった)。

長篠の合戦の「3000丁の鉄砲」については、毛利や上杉その他に対する「はったり」じゃないかと思います。実際に織田軍の持っていた鉄砲は全軍で1000丁ほどだったとか。全部を使えたわけでもないだろうし、本当に3000丁で撃ちまくったら、あっというまにかたがついてもよさそうだけど、実際のたたかいは、関が原よりさらに長くて、夜明けから午後までかかっているということです。勝頼も逃げているし。
その後の戦いでも「3000丁の鉄砲」が登場していませんからね。「勝った方の情報」で、「織田軍はすごいぞ」とPRすればすむ。なんといっても、武田軍が負けたのは事実だから。
(「3000丁の鉄砲」のうち、1割の300丁を明智軍がつかえば、弓矢で応戦する信長を射殺することは簡単でしょう。下手な鉄砲も数うちゃあたる。騎馬隊より狙いをつけるのは簡単だ。)
  • 回答No.7

ベストアンサー率 0% (0/0)

長篠合戦について、少し・・・

合戦場となった設楽ヶ原というところは、湿地帯みたくなっていたという話
を聞いたことがあります。ですから、騎馬で突撃することは困難だったとい
うことらしいです。加えて、設楽ヶ原には、馬防柵だけではなく、簡単な砦
が築かれていたという説もあるそうです。

光秀の謀反については、様々な説が巷で話題になってますね。

 1、野望説
 2、恨み説
 3、ストレス、病気説
 4、将来への不安説
 5、旧体制維持説(朝廷暗躍説)
 6、秀吉との共謀説

まあ、朝廷との関連は無かったと思いますが、自発的に旧体制を守ろうと
したのではないでしょうか。そういえば、光秀が生き延びて、家康の智嚢、
天海僧正になったという説もありましたね
  • 回答No.6

ベストアンサー率 32% (44/136)

私もこういう話、好きです。で、いくつか耳にした話を。

長篠の戦いで、あの銃は敵に当たらなくてもよかったという話。なぜなら、銃の音で馬が驚いて暴れだし、役に立たなかったから。(あたらなくてもよかった)

南北朝の南朝方の末裔と自称する人がたくさん現れた事件。
熊沢「天皇」が有名ですね。

田沼意次善人説(再評価)。
当時の賄賂は、指導料みたいなもので悪くなかった、他の人も同じくらいもらっていた。あるいはもらってなかった説。大事なのが、彼が重商主義をとったこと。結局幕府は商業が発達していた長州や薩摩に滅ぼされましたよね。だから先見の明があったと評価する人も。

天草の乱がカトリックの国(から派遣された伝道師)から支援されてた説。
日本人なら知ってるザビエルさんは信仰篤い人らしいですが、南米の例を見ても、布教と侵略は紙一重なところがありますね。

孝明天皇暗殺説
明治天皇の一代前ですね。幕府に好意的(これは本当ですね)だったので。
お礼コメント
noname#2111
いろいろありますね~

私が聞いた話は、
・秀吉が信長の草履を暖めて気に入られたというのは嘘(体温で暖めても、足の裏ではその温もりは気づかない)
・毛利元就の三本の矢の遺言も、後のひとが作った作り話
・タイタニックは保険金目当てでわざと沈められた

まだあったんですけど出てこない・・
投稿日時:2002/07/10 00:37
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