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生物の進化と自然淘汰説

arumagiroの回答

  • arumagiro
  • ベストアンサー率27% (408/1468)
回答No.2

私も進化論は好きなのですが、考え的にはその様なかんじではないでしょうか。 ただ、証明された説ではないので反論もあるかと思います。 反論の主なところは中間生物がいない事でしょうか。 良くある例では、キリンの首はなぜ長いというのがあります。 ダーウィンの理論だと、より首の長い種が自然淘汰で残っていく事になりますが、そうすると首の短い種と、長い種の間に中間の長さの種もいるはずです。 ですが、その中間種が見つからないという物です。 私は最近は、突然変異説というのも好きですが。 首の短いキリンから、ある日突然首の長いキリンが生まれるというものです。 こちらは、有害宇宙線や隕石の衝突が原因に考えられているようですが、どうでしょうか。 実際の生物の進化とはどの様なものなのでしょうね。

miyash
質問者

お礼

御回答頂いてから長い時間が経ってしまい、もうしわけありませんでした。 確かに中途半端な首の長さのキリンなどいませんね。極端に長い首ばかりです。そのあたりを説明しようという説が、中立論なのでしょうか。方向付けがなされると、その方向に一気に進化が加速される、という説だったと思います。ただ、中立説は遺伝子レベルの話でしたので、実際にキリンの首の長さが一気に伸びたという意味ではなかったですね。。。 突然変異によってある日首の長いキリンが生まれた、というストーリーには、私は同意しかねます。生物はそれほど不安定なものでは無いと思うからです。どの生物も、長い年月をかけて、現在の地球環境にそれぞれ適応した形態や生活史を持っており、それぞれが完成された生物だと思います。もちろん、環境変化や競争によってどんどん進化は進みますが、いまの瞬間においてはどの生物も安定しているのではないでしょうか。そうして今ある生物が、ある日宇宙から降り注いだ有害宇宙線や隕石などによってガラリと変わってしまうほど、不安定であるとはどうしても思えません。生物には自己修復機能が備わっており、DNAの損傷さえ修復できてしまいます。もちろん、種々の実験動物などを見てもわかるように突然変異によって表現形が変化することは明らかですが、種の進化を説明する場合には、ある日突然変異によってキリンの首が長くなった、とは言えないと思います。 生物の進化には偶然性も感じますし、必然性も感じます。また同時に作為も感じてしまいます。私自身、まだまだ知識が足りませんので考えの及ばぬところですが、これからも進化についての話題には興味を持ちつづけてゆくと思います。今回は御回答、どうも有難うございました。

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