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あそびをマジメに哲学すると(エビローグ)

前回は、現実問題に目を向けすぎた為、哲学的考察が不発に終わってしまいました。 今回は、現実に目を背けず、哲学的に、あそびをマジメに考察したいと考えています。 1)あそびとは何でしょうか。私は、「楽しみ・あそびの場・あそびのルール」この三つの要素で成立すると考えています。人間とあそびの関係と共に、皆さんのあそびとは何かを聞かせてください。 2)ホイジンガは、あそびと対立するものとして真面目を挙げていますが、あそびのルールの中には真面目な要素があり、大真面目で行うあそびも有ります、「あそびが真面目になるとあそびで無くなる」この点に関して疑問が残ります、あそびと対立するものは何でしょうか? 3)「すべては、あそびである」と言うホイジンガの結語にロマンを感じますが、そうであるなら、仕事もあそびでなくてはならないと考えます、仕事はあそびでしょうか? さてさて、あそびの哲学は、不発のまま終わるのでしょうか。

noname#15238
noname#15238

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mcqgogo
  • ベストアンサー率25% (19/75)
回答No.6

エピローグを拝見すると,プロローグでの自分は質問の趣旨から外れてトンチンカンな回答をしていたと思いました。今回は軌道を修正して、自由意志により何とかあそびの哲学が不発に終わらぬよう努めます。 さてあそびですが、 1)あそびとは何でしょうか。私は、「楽しみ・あそびの場・あそびのルール」この三つの要素で成立 すると考えています。人間と遊びの関係と共に、皆さんのあそびとは何かを聞かせてください。 あそびとは、子供に於いて端的に見られるように、自由意志に基づく自己の精神的欲求を満たすための行為であり、その方向性は基本的には精神の充足・開放へと向かう。 よってあそびとは、戯れるものであって、戯れられたり、戯れざるを得ない場合には、自己にとってその本来性からは離れてゆくと思います。 あそびがあそびとして成立するには、生活や精神のもつゆとりが必須であることを忘れてはならないでしょう。必要最小限のものが充足されていなければ、真のあそびはきっと成り立たないはずです。あそびの概念に広がりと奥行きを与えているのは、個々の立場や精神的欲求の多様性もさることながら、無意識下で行われるゆとりの線引き加減による相違だと考えます。 また、あそびという言葉は、言葉それ自体に、限定されない曖昧さや余裕といったものを含みもっています。 2)ホイジンガは、あそびと対立するものとして真面目を挙げていますが、あそびのルールの中に は真面目な要素があり、大真面目で行うあそびも有ります、「あそびが真面目になるとあそびで 無くなる」この点に関して疑問が残ります、あそびと対立するものは何でしょうか? あそびに対立するものは、精神活動を含めた行動を他から限定・強要・束縛されることがらであり、今適当な言葉が見当たりませんが、表現を変えると、自由に対しての不自由に当ると思います。 ホモ・ルーデンスのホイジンガはそれを真面目と言ったとされますが、訳語の不備であるのか、真意であって意味する含みが汲めないだけなのか、著書を読んでいない自分には文脈すら不明ながらも、その言葉のもつニュアンスは少し違うように感じています。 なぜなら、真面目に遊ぶというのはむしろ普通のことであり、例えば好きこのんでヒマラヤへ出かけるなどというあそびは、主体的な真面目さがなければ始めから出来ない相談なのです。真面目に対立する不真面目という言葉は、わが国ではあそびというよりもふざけにあたるでしょう。 行動を規制するルールとあそびの関係は、意識のレベルといったようなことで説明できると思います。 つまり、あそびにおいてのルールは、あえてそれを能動的に受け入れるのであり、この姿勢は、あそびに参加する自由意志の中に前提として含まれているからです。あそびながらルールを学ぶ、というのも普通のことです。 ですから、こうしてあそびを真面目に考えている今も、その行為はあそび心のなせる業と自分では捉えています。 3)「すべては、あそびである」と言うホイジンガの結語にロマンを感じますが、そうであるなら、仕事もあそびでなくてはならないと考えます、仕事はあそびでしょうか? 人の世の不合理な側面を見つめて、世の中はとても合理的に説明しきれるものではない、と考えた時に、あそびについてうえのような語句が発せられることは、あり得るでしょう。 またホイジンガはあそびを積極的に評価して、生活に意味を与えるもの、と考えたようです。 このような考えに従うと、必ずしも仕事とあそびは対立する必要もなく、仕事にあそびを持ち込むことは有益な場合が多々ありそうです。 プラトンという人がその昔、「最高の真面目さを持って事を行うべく価値があるのは、ただ神に関する事柄だけである。人間は唯、神のあそびの具となるように創られたのであり、これこそが人間の最良の部分である」などと、人間世界の出来事を見切るようなことを述べています。 ホイジンガの思想には、この言に照らし合わせると良く見えてくる部分がありそうです。 タモリという人が、「僕らの商売はふざけて何ぼのものだ」と言っていました。 個人的には、仕事が即あそびと言い切ることは出来ませんが、あそびの意義の捉えようによっては、そのように考える人がいても、またそんな職業があっても不思議には思いません。むしろ、それで成り立つ生活は羨ましくも思います。

noname#15238
質問者

お礼

mcqgogoさん、ご回答有難うございます。 mcqgogoさんのご回答を読んでひらめいたのですが、 あそびの本質は、ひょっとすると、私たちの精神・意識の奥にある、「他人と同じでいたい・他人と違っていたい」と言う自己矛盾の止揚の場ではないでしょうか。 同じフィールドで他人と同化しつつ、個々は競い合ったり役割分担をしたりしてあそぶわけです。しかし、一人であそぶことも出来ますから本質とはいえないかもしれませんね。 動物の子供が戯れるのは、自然の中で生きる為の訓練だと聞いたことがあります、人間の子供もあそびで戯れるのではなく、生きる訓練をしているのかもしれません。しかし、そう言ったものを含めてあそびと言うのかもしれません。人間の多様な意志の基、全ての行為の中から、あそびとあそびでないものの明確な区別を求めたことが間違いだったのかもしれません。 あそびと真面目の関係は個人的には異議は無いのですが、不自由をあそびとするc○○さんの意見も無視できませんね、ここでもあそびと言う言葉の広がりが問題なのでしょうか。 赤と紫の間に無限の色があるにも拘らず、私たちは、赤と紫の間を赤紫と名付けています、本当の赤も、本当の紫も知らない者(私)が、赤紫とは何かと悩んでいるのかもしれません。 「すべてはあそびである」この言葉が人の世の不合理ゆえ発せられたと考えることには私は反対です、mcqgogoさんの考える以上にあそびを積極的、肯定的に評価する必要が有ると思っています。「あそびは自分の為の行為、仕事は(無関係な)他人の為の行為」この現状での未来への不安感が最初の質問の動機だったのかもしれません。 私はあそびの事を問いかけながら、心の奥には仕事とは何かを問いかけていたのかもしれません、自分自身気付かなかった事を気付かせて頂いた回答でした。

noname#15238
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。時間の制約で御礼が遅れることをお許しください。 あそびに関する質問はこれで終わる予定ですから、せっかくのご回答を不発に終わらせないように時間を下さい。

その他の回答 (13)

  • mcqgogo
  • ベストアンサー率25% (19/75)
回答No.14

>人は、あそぶ為に生まれたのではなければ、仕事をする為に生まれたのでしょうか、私はあそびを高く評価する方 法を模索しているのかもしれません。 人、生きるために生まれ オマケとしてあそびがあった あそび心は、形而上の宝物ですよ 金魚さん

noname#15238
質問者

お礼

mcqgogoさん、いつも最高のタイミングでのご回答を頂き感謝いたします。mcqgogoさんへのお礼で、皆様へのお礼をさせていただくことをお許しください。 あそびの哲学もそろそろ終わりを迎えました、「ホモ ルーデンス」と「ホモ ファーベル」の間で迷っていた私は「ホモ サピエンス」と言う使い古された言葉を忘れていたようです、知性や理性を失った「仕事」を斜めから見て「あそび心の欠如」と捉えることは当然の事だったようです。 あそびの哲学が不発に終わったかどうかは、他者の価値光線の光の中に委ねるしかないでしょう。 >あそび心は、形而上の宝物ですよ 美しい結語を頂き感謝に耐えません、皆さん有難うございました。

  • nyozegamon
  • ベストアンサー率45% (895/1969)
回答No.13

1)あそびとは何でしょうか。 人生を料理に例えれば、あそびとは調味料であると思惟します。あそびのない人生は味気ないものです。 では、あそびにおける「さしすせそ」とは? (もちろん別の解釈もあります) さ・・・三度の飯より好き し・・・勝負は時の運 す・・・過ぎたるは猶及ばざるが如し せ・・・急いては事を仕損じる そ・・・損して得とれ 2)あそびと対立するものは何でしょうか? あそびが調味料であるなら、真面目は素材の味と言えます。調味料が素材を殺す場合もありますが、旨く素材を引き立てるならば、対立関係ではなくなり、相補関係となります。 3 仕事はあそびでしょうか? 「すべては、あそびである」とは、調味料が素材に染み込み、絶妙のハーモニーを醸し出した状態ですね。仕事の中に存在するあそび心、それは仕事の醍醐味であります。

noname#15238
質問者

お礼

nyozegamonさん、ご回答有難うございます。 あそび心を知った大人の回答です。あそびとは正にこの回答ではないでしょうか。 森の中に入って森が見えなくなった私への「調味料・香辛料・気付け薬」のようなあそび心に満ちた回答です。

  • chihoko
  • ベストアンサー率13% (14/106)
回答No.12

●言葉とは その使われ方により含まれるイメージが自在に変化する性質と  認識する人により そのイメージが異なっている性質があります。  まして「あそび」となるといわずもがな です。わたしの式がそのような  言葉の性質を乗り越えようとした産物であることは ご理解ください。    さて男と女のアソビの考察ですが アソビがいつのまにか本気になっていた  と形容される状況を考察してみると あそんでいたらいつのまにか恋におちた  もしくははじめから恋の範疇であそんでいたなど 状況があきらかに質として  違うことがあることに気付きます。アソビであっても腰を使う男性の作業は本気でしょうし  ここでも本気という言葉のあいまいさが露呈します。本気という言葉は恋にも  真剣にも 真面目にも 苦痛にも あかちゃんにも さまざまにあてはめることができます。  閉経後の女性のSEXがアソビか?と問われて簡単に分析できない自分を  観察しております。わたしの「事象=本体+あそび」の式を登場させるのも  控えねばならないほどの「命の叫び」がそこには確かにあります。    あそびもアソビも 実はわたしたちが論ずる感覚よりずっとずっとはるか  宇宙の摂理に近い部分に その領域が存在しているのかもしれません。

noname#15238
質問者

お礼

chihokoさん、ご回答、有り難き事でございます。 ひまネタの筈が、私自身あそび心を忘れてあそびの範囲からはみ出したような気がします、程々にして置くつもりが宇宙の果てまで来てしまったようです。 chihokoさんに誘われて、腰の使い方に考察を向けたいところですが、如何せん腰の無い「金魚」には儚い夢と諦めざるをえません。 それでも何とか、せっせとお礼を書き込むうちに、皆さんのおかげでご回答をいただけたような気がしています。 このひらめきも、ソクラテスのダイモーンの如く次の瞬間に否定されるかもしれませんし、何時までも関わっていられない自我(DNA)の欺瞞かもしれません。

noname#2441
noname#2441
回答No.11

はじめましてfishbowl66さん なかなか難しいですね。 1)あそびとは何でしょうか。  私は学習(ものまね)と考えます。 2)あそびと対立するものは何でしょうか?  私は学習に対して休息と考えます。 3)仕事もあそびでなくてはならないと考えます、仕事はあそびでしょうか?  私は仕事もあそびで仕事の延長と考えます。   時間とともに変わりますが現在思い浮かぶ私の答えです。 下町の凡人代表より。よろしくお願いします。

noname#15238
質問者

お礼

dangomushiさん、ご回答有難うございます。 簡潔、シンプルなご回答、私も、常々こう在りたいと心がけています。 表情や、声色といった伝達手段が使えない中、誤解を受けやすいですが、これも一つのあそびのルールという事でしょうか。 人生を自己実現とすれば、その為の学習がすべてということでしょうか、あそびと対立するものを休息とするところなど、私以上にあそびを評価されているような気がします。 私は我儘な凡人の代表かもしれません。いやきっとそうです。

  • mcqgogo
  • ベストアンサー率25% (19/75)
回答No.10

#6の者です 熱のこもったお礼をありがとうございます 貴方の遊びへの真剣な思いがよく伝わってきました。 僕自身とても興味ある事柄なので、お礼の内容を元にもう少しお付き合いさせて下さい。 >あそびの本質は、… 「他人と同じでいたい・他人と違っていたい」という自己矛盾の止揚の場ではないでしょうか? fishbowl66さんはあそびを社会捉えようとし、ぼくは個的に捉える傾向があるようです。 この問いは、カッコの中身を「異なる感情の対立」と置き換え、自己矛盾を一般化することにより、一人遊びにも適用される部分が広がると思います。はらはらしながらドラマを見てハッピーエンドでほっとし、さてトイレでも行くか、などという形や、ジェットコースターに乗ってあそぶのは、これに近いかと思います。 一人遊びとは言いませんが、人から驚かされてもそれが冗談とわかることによって、ユーモアに転じてゆくこともあります。これはあそばれていることになりますが、操られる感情の動きはあそびに近いものがあるでしょう。 しかし本質とはいえないでしょう、その理由は次のことに関連しています。 >あそびとそうでないものの区別 これは確かにいろいろな要素が絡み難しいと思います。 そこで、貴方も触れていますが、あそびの原点や本質を子供の戯れに求めてみてはどうでしょう。彼らは興味惹かれる事柄について無心にあそび、やがて飽きます。 ただその結果得られるものを、目的論的に捉えるか、結果としての所産とするかは見解が分かれると思います。そういえば少し大きくなった子供の頃、あそびに対立していた事柄は勉強であったような気がしてきました。 原型を把握すると後は変形ということで、少し整理しやすくなると思います。社会との関わりの中で、あそびに何が加わり、そして何が忘れられてゆくのか? 塀のペンキ塗りを言いつけられたトム・ソーヤが策を練り、面白そうにその仕事をすることによって友達を羨ましがらせ、彼らから代償を貰いながらそれをやらせてしまった。これはトムが仕事をあそびに代えてしまった古典的な良い例ですが、あそびの本質が行為よりも動機の中にあることを伺わせています。 先に僕が「仕事即あそび」と言うことをためらったときに、トムのことは念頭にあったのですが、仕事としての医療に代表される責任の重いものも考えに容れなくてはならなかったため、言い切ることが出来なかったのです。 仕事を(人の場合は程よく経済を含めた)生活に必要なもの、あそびを生活に意味喜びを与えるものと考えるのはどうでしょう?この見方は、他の生物の仕事やあそびにも応用が利きそうです。 >不自由をあそびとするchihokoさんの意見も無視できませんね、 ここでもあそびという言葉の広がり が問題なのでしょうか? 愛の反対は無視である、とカルカッタのマザー・テレサは言っていました。 無視などできるわけがありません。(^^; ここで彼女と違っているように見えるのは、あそびという語の捉えかたではなく、場の捉えかたの違いです。それが遊びを成り立たせる前提と言った、ゆとりに対する考え方なのです。 彼女が言っているのは、不自由でもその場に慣れてしまえば、あそぶことはいくらでも可能だということで、また実践してもいると思います。その足跡がここらに見られるスレッド群です。私などは、あそばされていると言っても過言ではありません。 彼女とは切り口が違うだけで、実は同じことを言っているのです。(^^; >「すべてはあそびである」この言葉が人の世の不合理ゆえ発せられたと考えることに私は反対です。 この意見には自分なりの裏づけもありますが、それを説明して得られるものよりも、あそびを考えようとする貴方への希望の方が重いので、止揚の場での具にして正反合の形で生かせて貰えれば幸いです。 ・前言の訂正および宿題について 「あそびに対立するものは、精神活動を含めた行動を他から限定・強要・束縛されることがらであり、今適当な言葉が見当たりませんが、表現を変えると、自由に対しての不自由に当ると思います。」 ここまで考えてみて、前回答のこの部分を次のように変更したく思います 「あそびに対立するものは、本来的に言えば生活に対しての要請でしょう。」 以上参考にして下さい

noname#15238
質問者

お礼

mcqgogoさん、ご回答有難うございます。 熱がこもったと言うより、ハイテンションになって、思い付きを無反省に書き込んでしまい、同時に余計な気配りをしてしまったような気がします。 命に関わる仕事がある以上、すべての仕事をあそびと言い切れないmcqgogoさんの指摘は重要なことだと思います。 結局、最初の質問で、あそびの欠如を社会問題の根本と定義し、それを証明する為には、あそびを有益なもの、人間の行動の本質的なものと捉える必要があったのかもしれません。 細かな違いを無視されるmcqgogoさんの態度に敬意を表します。 人は、あそぶ為に生まれたのではなければ、仕事をする為に生まれたのでしょうか、私はあそびを高く評価する方法を模索しているのかもしれません。

  • jume
  • ベストアンサー率46% (71/152)
回答No.9

No.6でmcqgogoさんが「『すべては、あそびである』と言うホイジンガの結語にロマンを感じますが、そうであるなら、仕事もあそびでなくてはならないと考えます、仕事はあそびでしょうか? 」という問題を提起され、仕事ということとあそびということが必ずしも対立しないのではないか、ということを述べておられました。mcqgogoさんのご回答は、はっきり言ってとても刺激的でした。で、僕なんですが、仕事とあそびが対立しないということをもう少し積極的に捉えて、仕事とあそびはかつて地続きであったと考えてみたいと思います。 というのも、昨日、テレビを観ていたら、どこだったか南の方の島(マダガスカルだったかな?)で、大人はカヌーを作り、魚を獲って生活をしているわけですが、子供は、大人のカヌー作りを模倣して遊んでいるんです。大人がカヌーを作って、あまった木っ端で小さなカヌーを作ります。できたら他の子供たちと一緒に海に浮かべてみる。帆が風を上手にはらめば、すーっと浅瀬を走り出す。そうやって帆の作り方や風の捉え方まであそびの中で学んでいく。ここでは、仕事とあそびの差異、真面目とあそびの差異は、限り無く希薄です。 いまあそびと仕事、あそびと真面目は一般的にはどうも相性がよくないみたいです。あそびと仕事の解離した状況が、あそびからリアリティを奪っているような気がしないでもありません。たぶんそれは仕事と生活の間にお金という緩衝材が挟まった産業/社会構造からの要請なんでしょうけど…。つまり仕事が自分たちの生活を直接作るのではなくて、仕事によって手に入れたお金が間接的に生活を作るという資本主義とか社会主義とか関係なしに、多くの国/地域でとられている産業/社会の構造です。仕事と余暇を明確に分断することが、人間にとって果たしてよいことなのかどうか…。 それでも子供たちは「真面目に」あそぶだろうし、大人だって子供はあそぶことが「仕事」だなんていうでしょう。それが希望か、絶望か判断は数世紀を待たなくてはならないでしょう。かつてあそびと仕事は地続きだった、という歴史学的、人類学的な視角からの指摘がいまの僕には精一杯です。

noname#15238
質問者

お礼

jumeさん、ご回答有難うございます。 私の考えを、代弁していただいたような回答です、お金に絡む部分は質問に反映させていませんので驚くと共に、同じ様な疑問を持たれる方がいて心強く思っています。 ただ、mcqgogoさんのご回答に反応して、私の質問だけでは投稿に至らなかった原因を自分自身、反省すると共に質問の作り方を研究する必要がありそうです。 意見の違いはただ一点、数世紀後の事ではなく、現在の問題の根本と私が考えている点です。

回答No.8

考えていたら、すごく大雑把な結論になってしまいました。 本人があそびと思ってやっていたら、それはなんであれ、あそび。 私はたぶん、今の生活は80パーセント、あそび。 あとは、やらなきゃ死んじゃうとか、やらなきゃ不便とか、そういうことです。

noname#15238
質問者

お礼

mimosa2001さん、ご回答有難うございます。 あそびに客観性は必要ないということでしょうか、確かに一般的にはその通りですが、時々自分であそびか仕事か勉強か判らなくなる時が在るような気もするのですが。 この質問を見て、考えていただけたことに感謝します。

  • chihoko
  • ベストアンサー率13% (14/106)
回答No.7

●fishbowl66さんの苦悩のお礼から わたしなりに何かを嗅ぎ取ると  たぶんfishbowl66さんは 現代社会にあそび感をもっと浸透させたい   ということと 全てをあそびとして捉える境地を獲得したい という二つの願いを  持ってらっしゃるように 感じました。    まずあそびの感覚は 極めて個人的なもので 共通の概念として具体的に  客観的に指し示すことは 不可能です。だから わたしの式は 何の役にも  たたないですよともうしあげているわけです。なぜなら あそびは当の本人が  一番良くあそびだと知っているわけで それを式にしたところで 新しい  発見もありません。  さて現代社会の閉塞感とあそびを考察してみましょう。  ツボを振る賭博のあった時代 ねずみ講が機能した時代  遊郭文化が華やいだ時代 おんなが一度の浮気にこころからときめいた時代  平和が続くということはリセットが出来ないという一面を持っています。  つまり あらゆることが積算されていくのです。社会自体が知恵を積算して  字面で賢くなっていきます。だからその積算されたものがわたしたちの  生きることの本体となってしまって 本体以外のあそびを探すことが  かなり難しくなってきているわけです。異性と出会うのはテレクラ・チャット  積算が出会いのドラマのあそびの部分を困難なものにしています。  見方を変えれば 刺激に慣れてしまって あたらしい刺激を創れないし  見つけれないという感じでしょうか。  次にすべてをあそびとして感覚できる境地について考察。  これは わたしの式にあてはめれば 本体を実生活とは無縁のところに  置けばいいわけです。たとえば本体は「無」すべては無にかえるという発想です。  たとえば本体は「DNA」すべてはDNAの存続のためだから もう子供つくったし  あとは野となれ山となれ やりほうだーーい!って感じかな?  ただ すべてをあそびだとおもって生きてると お気楽に生きれるでしょうけど  重職は 回って来ないでしょうね。たぶん・・・。  ま 重職についたところで 幸せになれるわけでもないし・・・。  お礼はごゆっくりでいいですから。お仕事おきばりやすfishbowl66さん。

noname#15238
質問者

お礼

chihokoさん、ご回答有難うございます。 赤い奇跡のため、テンションが上がっていたようです。韓国が負けてほっとしたと言うと誤解を受けそうですが、例えば、初めてのデートで、見栄を張って不相応な高級レストランに行った時の落ち着きの無さと言うか、必要以上に偉そうに振舞ってしまう、安っぽい感覚に冒されていたようです。負けてほっとしている私の精神は「改革者・英雄」とは程遠い精神で、老いを感じる一瞬でした。 男と女のあそびを考察するのも面白そうですね。 あそびのつもりが、いつのまにか、本気になって… あそびと対立するのは「本気」かもしれませんね、今の若者が「真面(マジスカ)?」と言う言葉を頻繁に使用するのは、「マジ」を「本気」とすれば、若者があそびの世界にいるせいでしょうか。 現在の社会は、あそびが困難になったと言うお考えには大いに賛成しますが、すべてをあそびとすることが、お気楽と言えるかどうかは、意見の分かれるところです。 余談ですが、個人のDNAを再生する為、4人の子供(兄弟)が必要だと聞いたような気がしますが、大丈夫ですか。

  • chihoko
  • ベストアンサー率13% (14/106)
回答No.5

事象=本体+あそび この式の各項に他の項をそのまま代入することは               式そのものが変化してしまいます。 ●E=MC2 の場合 EにMを代入しては式の意味がなくなるのと  おなじことです。 式の中においてあそびはかならずあそびであり  同じ式のなかの事象や本体になることはありません。  事象や本体を「遊び」としてあそびを考察することはできます。  その例は前の回答に示しました。  どうしてこの式にいきついたのか ということを解説します。  まずあそびということばから連想する感覚を考察します。カッッコ内は個人的な例です。  それは楽しみ(ゴルフ)癒し(陶芸)苦痛(SM)快楽(SEX)拘束(仕事)など  ありとあらゆる感覚があてはまることに気が付きます。また そのすべてが  あそびでなくなる場合も存在していることにも気が付きます。  では なぜ仕事があそびという感覚になってしまうのかを考察すると。  事象として生活があり その本体が遊びや退屈で満たされてしまうと  本来拘束という自由を縛る性質のある仕事でも 逆にあそびという感覚を  覚えてしまうわけです。←この感覚がわかる方には わたしの提示した  「事象=本体+あそび」の式は 分りやすいものと思われます。  このように あそびという感覚はきわめて個人的な性質を持ち  しかも ちゃんと社会のなかで特定の概念として機能している必要性があります。  これから先 人々の生活が多様化するにつれて あそびの定義も多様化し  結局は わたしの明示した式に寄らざるおえなくなると思われます。  fishbowl66さんが考察されたように あそびに対比される概念を考え  全ての事象からあそびを 差し引いたものを考察して 本体という考え方を  得て さらにあそびと本体以外に事象を構成する要素がないか検証してみた結果  事象=本体+あそび という式に至っているわけです。  ただ この式の弱点は なんの役にも立たないというところでしょう・・・。(自笑)

noname#15238
質問者

お礼

cihokoさん、ご回答ありがとうございます。 個人的な条件により全ての事象があそびと成りえる訳ですね、私も賛成です、しかし、chihokoさんも仰るように、社会的にあそびとして成立する為には、客観的に社会にあそびと承認される必要も有りそうで、この辺りが難しいですね。 例えば、デザインを考えてみましょう。 プロのデザイナーが、自分の創造意欲を掻き立てるスポンサーに出会い、アイデアが泉の如く沸きあがり、次々とポスターやカンプを仕上げます。本人は楽しい遊びと感じても周りはすばらしい仕事人と認識するのではないでしょうか。 同じデザイナーが、アイデアが枯渇し、必死に知恵を絞っていながら、見た目は、ただ部屋の中をうろうろしたり、ぼんやり天井を見つめていれば、周りの人々は、あそんでいると認識するかもしれません。 或いは、偶然、オープンコンペ等で、プロとアマが同じヘッドコピーを作った場合、同じ行為と結果が、プロは仕事であり、アマはあそびと成ります。(ちょっと違うかな) ともかく、事象と言う複雑な統一体を持ち出さなくても、個々の行為そのものがあそびの本質では無なく、あそびの本質は行為の奥の意識中にあるのかもしれませんし、外部の客観的価値判断の中にあるのかもしれない。(どうやって締め括ろう、混乱してしまった) 主観と客観が食い違った行為(又は事象)をひとつの言葉で定義することに問題があるのでしょうか。混乱する自分を楽しむのもあそびだと思いますが、今日は時間が無くなってしまいました。

  • chihoko
  • ベストアンサー率13% (14/106)
回答No.4

●補足いたします。  事象が遊びだった場合(トランプ)  トランプの本体はGAMEとすれば たとえばトランプしながらの「おしゃべり」は  トランプのあそびになります。  事象が遊び(トランプ)で あそびも本体だった場合  理論的には「あそび」は存在しないことになります。この状況が社会に対して  fishbowl66さんが閉塞感を抱かれてらっしゃることのヒントになるかも  しれません。ただこの場合でも「スーパーあそび」として 意識や概念の外に  あそびの存在を定義することはできるかもしれません。

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    哲学のある入門書に次のようなことが書いてありました。  自分が聴く自分の歌う歌は、他人が客観的に聴いているその歌 よりも、いつもうまく聴えているものだ。これが人間が自分自身 に対して持っているロマン的幻想のありようである。逆にいえば 各自のロマン的幻想は必ず他者の目(現実そのもの)によって 相対化され無化される。この事実はいつも私たちに不安をもたらす。 ここで言われている「現実」とは何だろうと考えてみました。 (1)名刺の肩書き・学歴・年収・偏差値・仕事の成績・知能指 数などのことだろうか。これらは人間を抽象的な剥製標本にする だけの虚構にすぎないのではないか。無意味とは言わないが一人 の人間の生きた現実を表してはいないと思う。 (2)世の中の(たぶん自分も参加している)権力闘争とか領土 (なわばり)争いのことだろうか。これらは人間の持つ動物性を 人間の本性そのものであると早合点することによる、現実の一面 の皮相な見え方にすぎないのではないか。 (3)「生物は遺伝子の乗り物にすぎない」などという要素還元 論的思想のことだろうか。これは、例えば「水は水素と酸素の化合 物である」という程度の小さな小さな事実のひとつであり、それに よって全体が規定されてしまうような現実などではないと思う。 私にとって現実とは、友からのメールであり、「教えてgoo」での 出会いであり、仕事仲間や家族との時間であり、出勤時に見える 朝の海の白銀色であり、春の沈丁花の匂いです。もちろんつらくて 悲しい現実もある。けれどしかし、それは決して夢や理想やロマン をかみ殺しなどしない。逆にそれを育ててくれる。 みなさんは「現実」をどう考えますか?

  • (長文です) 建築は哲学ですか?など

    趣味の芸術としての建築には興味があるですが、全くの素人です。 無秩序に多くの質問を並べた上に、抽象的過ぎて成り立っていない質問も削除せずそのままにしています。 乱文です。 質問として非礼ですがご回答を頂けると嬉しいです。 もちろん一部のみのご回答で結構です。 よろしくお願いいたしますm(__)m 建築のデザインには設計した方の哲学的なアプローチがあり、建設物はその産物なのでしょうか? そうであれば、その考察を文章にすることは可能なのか、可能であれば文章にするとどういった感じになるのか、建築家の例をあげて教えていただけると嬉しいです。 また、その哲学的考察は文学や詩や絵画のように、(建築の)批評家による批評が成り立ちますか? さまざまな制約から建築物に設計者の哲学を表現できなかったとしても、設計者はそれに不満を持ち、自分の頭の中では常に考え続けているのでしょうか? 一般的に、建築物の“装飾”や“外観(フォルム。狭義での“形”)”には『意味』や『根拠』が必要ですか? サッカーではプロよりも素人のほうが試合中に無駄にテクニックを披露したり、そういったブラジル人選手が批判されるように、「ただこの形が美しいと感じたから」といった突き詰めていないものはどのような分野でも批判があると思いますが、建築の場合も批判があるのでしょうか? 「奇をてらった」外観、またはそのような建築は存在しますか? 海外建築家による、アルミの筒を並べたような銀色の美術館がありますが、あの外観はどういった考えに裏打ちされた外観なのなのでしょうか? また、その建物を写真でしか見たことがないのですがとても美しいとは思えません。どこが評価されているのでしょうか?また、建築を写真だけで判断するのはナンセンスですか?その場合、なにがどうナンセンスでしょうか? 例えば、“偉大な建築家!”などと呼ばれる場合、彼らは芸術の分野と同じく、“新しいこと”をしているのでしょか? 建築における“発想(または、新しいコト)”とはどういった人によるどういったものがあるのか、例をあげていただけませんでしょうか。 ●●氏は、~を上から吊るすことで、~な効果を出し、その後の~の建築に影響を・・・等。。 (コルビジェ、バウハウス、の存在は知っています) また、その“新しさ”は絵画や文学やファッションや音楽などの他のあらゆる分野における新しさとは何が違い、例えるなら“他のどの業界の新しさ”に似ていますか? 芸術家によくあるように新しいアプローチがなければ「あの建築家はパクりだ」「新しいことを何もしていない」というような辛辣な批判があるのでしょうか? 全国の大学生の卒業制作のコンテストの本をパラパラと見たのですが私の理解できないようなことを考えている様子でした。また、たくさんの模型やイメージ図がありました。 しかしあんなにも多くの学生ですら持っている多種多様なデザインの建築が現実に存在しないのはなぜですか? 佐藤可士和さんのようなアートディレクターや佐藤卓さんのようなデザイナーによる空間デザインと建築家による空間デザインはどこがどう違うのでしょうか? 建築に、文学や絵画やファッションのように建築家の“世界観”を体現しようとするのは幻想ですか? 建築に“共感”は成立しますか? 成立する場合、どのような存在の仕方がありますか? 建築科(建築家の間違いではありません)が文系では成立しないのはなぜですか? (幅広い回答を得られるよう、美術のカテゴリでも質問しています)

  • 進路相談:~数学・哲学・学校事情に詳しい方へ問う~

    来年度の一般受験で進学したい大学受験生なのですが、数学科か哲学科か、下記のように進路に迷っています。 まず、「哲学的命題について、自分の手で論理的に(ときには数式や人工言語なんかを用いて)考察してみたい」という、あくまで漠然とした願望があります。 ここでWikipediaより、「おおむね大陸哲学は政治や社会、人生の意味のように比較的文系寄り、あるいは哲学を勉強していない一般の人が哲学に対してイメージしているような研究テーマを扱うことが多く、素人受けする。イギリスやアメリカの論理や言語の分析ようなアプローチ方法をとり、比較的理系寄りの問題を扱うことの多い分析哲学と大陸哲学は趣きを異にしている」 これを参考に、 ・哲学科▶大陸哲学 ・数学科▶英米哲学 がおもに相当するのかな、と考えています。 このようなイメージに基づいて、上記の願望をみたすための利点について考えてみました。 ・哲学科▶大学の講義を、多くの分野の思想興味をもつきっかけづくりの場とすることができる ・数学科▶より数学に習熟することができ、専門分野の本の読める範囲がいっきに広がる また、長い目で見て、 ・哲学で用いる論理は、拍子抜けするほど狭い分野であり、案外はやく理解し終えてしまう▶哲学科 ・哲学で数学などの高度な知識が活用できる分野がある▶数学科 がそれぞれ大学で楽しめるのかなと思っています。 最後に、個人的な事情として、哲学科に進むとなると地歴科目を1科目新たに履修しなければならず、難関校を選ぶならば国語・英語もさらに強化しなくてはならないので負担です。現在は東北大理・東大理2などを目標としています。 【質問1】《気になる言葉:分析哲学、数理哲学、数理論理学、形式論理学、言語哲学、現象学≫ これらの言葉は学んでいくうえで、それぞれどんな位置関係(遠いか近いか)にあるのでしょうか。 【質問2】哲学科と数学科、どちらを選択したほうが、窮屈な思いをしないですむでしょうか。 【質問3】私に適していると察せられる、現実的な進路(学科・おすすめの大学など)を教えてほしい。 個別にでもよいので、どうかご回答ください。またどんなものでも投稿していただけると嬉しいです。よろしくお願いします!

  • 哲学的なワイセツ物 陳列行為(ワイセツ者)

    わいせつ物公開するよ。 このテキスト1は無我論の実態とは、自我論を導き出すための命題であったという仏教研究から発展した自我論だ。 テキスト2は愛の命題は人と人をつなぐ人間成立に欠かせない善の要素を「アマテラスの善」と命名して、愛の主神キリストの神をアマテラスより下位の階級に固定する野心的な宣戦布告だ。 どちらも宗教関係にも影響があるが、AI高度化に成功すれば宗教関係者と争う必要がない。 制作原型が出来上がっているテキスト3と4とは、人類未踏領域なので慎重だが、様子を少しずつくみ上げている段階だ。 --------------------------------------- 心理学の有名な定説に男性の頭の中は女の裸でいっぱい。 というのがある。 これとアサタチを関連付けてもいい。 これらは気力高揚効果が目的なんだ。 西洋では社会性確立のターゲットで友情を押しのけたのはこの熱情だろう。 ただしそれは主に感情面に焦点を当てていて、裸、裸、裸と違う純化した感情面の作用について論説して、日本人の抱く「絆」と同義の意味があり、日本人が愛について考察すると、特に「絆」の要素が抜け落ちているのさ。 したがって「アマテラスのよし」と併記した拾い物で「愛は最も人間らしい感情の原型」というのも西洋人が気の毒だから、おまけのようにとってつけた。 基本的に哲学的な基礎学問だよ。 下の写真の六輪一中というのも、気の毒だから作成した。 -------------------------------- ムーンショット計画向けにうってつけじゃないか。 --------------------------------- 心理学の有名な定説に男性の頭の中は女の裸でいっぱい。 というのがある。 これとアサタチを関連付けてもいい。 これらは気力高揚効果が目的なんだ。 西洋では社会性確立のターゲットで友情を押しのけたのはこの熱情だろう。 ただしそれは主に感情面に焦点を当てていて、裸、裸、裸と違う純化した感情面の作用について論説して、日本人の抱く「絆」と同義の意味があり、日本人が愛について考察すると、特に「絆」の要素が抜け落ちているのさ。 したがって「アマテラスのよし」と併記した拾い物で「愛は最も人間らしい感情の原型」というのも西洋人が気の毒だから、おまけのようにとってつけた。 基本的に哲学的な基礎学問だよ。 下の写真の六輪一柱というのも、気の毒だから作成した。 ----------------------------------------- 地の聖霊と言えば西洋ではまあ、悪魔だね。 今も魔女狩りが必要な風土だ。 無我論をひっくり返して自我論にするように、悪魔論をひっくり返して有神論を形成するのが一番だよ。 ------------------------------------- この質問は、私の中二病の発作です。 意味不明だと思います。 誰か温かい慰めを願いします。

  • 哲学が デ・ファクト・スタンダードに追随してよいか

     何も デ・ユーレ・スタンダードをつくってそれに従えというためのものではない。  そうではなく この標準となるような規格についてさえ その根拠や全体としての成り立ちをも 哲学は 迂回してでも考察しておくこと これが つとめではないのか?  これを問います。     *  たとえば 言葉の問題として音声が はひふへほというように発音されるそのかたちを精確にしらべるのが 音声学とすれば その発音がどのように日本語なら日本語においてまとまったかたちを成しているかを考えるのが 音韻論であると言われます。  すなわち 事実上の発音としての音声と それらがひとつの言語においてどのように音韻組織をかたちづくっているか――しかもつまりは その音韻がそれぞれどのように語の意味と対応しているか――を問い求めるときの音声とは 別です。  ▲ (ヰキぺ:は行) ~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E8%A1%8C  § 清音  「は行」各音の頭子音の音素は /h/ である。  音声学上の発音は   「は」、「へ」、「ほ」の頭子音は 無声声門摩擦音 [h](IPA)、   「ひ」の頭子音は 無声硬口蓋摩擦音 [ç](IPA) 、   「ふ」の頭子音は 無声両唇摩擦音 [ɸ](IPA) である。  ~~~~~~~~~~~  ☆ つまりたとえば日本語で    はえ(蠅)  [ hae ]    ふえ(笛)  [ ɸue ]    ひえ(冷え) [ çie ]  のごとく音声は互いに違っているようです。笛は 上下の唇を軽く合わせて発音する。冷えは のどの奥のほうで息の音を遮るように調音する。蠅は ふつうに息の音を出すかたちである。  ところが これらは それぞれの違いにかかわらず ハ行の子音として同等の役目をになっている。と音韻論は見る。ゆえにそのように組織立てる。つまり 音韻ないし音素としてはみな / h / のひとつで表わす。  音声は [ ] というシルシで 音素は  / / というシルシでそれぞれ表わす。  つまりは たとえば    ほ〔火 cf. ほのほ(火の穂=炎)〕→ ひ(火)    ふ(経)⇒ へる(経る)  というように語の変遷があるのなら ヒもフもへもいづれも  / h / という一つの音素と見るのが 妥当である。  というふうに 事実をそれとして認識する学とその事実がいかに成り立っているかを考える学とは 別である。  哲学は 後者をつとめとする。  むろん 事実認識を基礎としてそこから始めるのであるが 哲学がそれだけにとどまっているということは ありうるのだろうか。  現実は 人間は互いに平等ではない。自由でもない。自由意志などをヒトが持っているわけがないではないか。といった事実認識は 果たして 哲学を成すであろうか。  それとも このように思弁的に考えるのは 現実にはきわめて不毛な《哲学的》なお遊びであるというのであろうか。

  • 宗教とは個人の信仰心を抑圧する制度なのか

    さてと、信仰とは個人がおのおのに抱く内面の心をさす。 そうすると、宗教というのはその個人の心を抑圧する傾向がある。 しかし、社会を成立させるには宗教は必要か、または自然成立する。 ここに個人的見解として考えるところがありまして、今回の質問も哲学的な思考ゲームです。 「人間」という言葉を考えてみて、ごく自然に人と人がいる、その人同士がお互いを理解したら人間の成立となる。 西洋人は「人を信じる」という言い回しを「信じる」という言葉の誤用だと考える傾向があるが、人同士の相互理解に「信じる」という深く根差した言い回しを使用するのは本当に誤用だろうか。(質問その1) 神前で人同士がおたがいを認め合うという形で、宗教が社会成立に重大な作用をもたらしたのだとすると、社会の成立のおそらくは例外が乏しい原点である宗教によらず、人と人がお互いを信じあう無条件の肯定とは、心がけとして尊いのではないだろうか。(質問その2) 日本人の場合は、仏教の伝統で哲学的思考に人間研究が重きを置かれ、人間性の昇華に熱心だ。 そうすると、人と人が集まった場所で「相手が理解可能な人なのか」疑うことから始める習慣が乏しい。その心情を「人を信じる」と考えてみたけど補足はありますか。(質問その3) 「あいつらは人間ではない」そんなことを平気で言う奴もいますがどう思いますか。(質問その4) 現在は教育により、宗教のごとく全員人間だと刷り込みを受けています。 何もしなくても人間であるという権利が与えられます。 個人的に疑問なんですが、本当に人間らしい人なんてその中でどれくらいの割合何ですかね? 個人の信仰が大切でも、その中に人と人が理解し合う示し合わせとして祭礼の類があり、社会の成立の伝統に沿って中心に神を頂くのが日本ですが、極端な話として、社会という概念と宗教という概念の区分がなかった時代から日本はあまり変わっていないと思います。 そうですね「人を信じる」という言葉を、人間であり社会を生活環境として選んだ限りは、否応なく他者を理解しようとしなければならなくて、そのためのふるまいなのだということでいかがでしょうか。 したがって、個人の信教を大切にするあまり、人と人がバラバラになる人間解体もいけないわけです。その補足事項として一方的に宗教を押し付けるのも相手を人間だと認めていないことの明白な表れでしょう。 要するに特定の閉鎖的集団に帰属する連中からは「あいつらは人間でない」とみなされていて隷従させることが救済だという発想です。(邪教だと思います) さて考察中の要素を色々と書き出してみました。 なにか酒の肴になるような面白い意見をお聞かせください。 趣味の哲学遊びです。 今回は過去からの研究の中から、断片要素を書きだした質問で、今後の材料の発展に結び付けたいと考えています。

  • 効率志向が好きになれない

    情報系大学生です。 僕は効率主義に傾倒しすぎてもいけないし、かといって非効率な行動ばかりしていては現実的にやっていけないので、バランスが大事だと思っています。 ここで、非効率的な行動も効率的な行動も好きなら問題ないのですが、効率的な行動が(得意でも)あまり好きではありません。非効率的な「遊び」の要素が好きです。 だからパズルの最適なとき方を追求したり、ゲームの最短ルートを見つけることを楽しいと感じません。効率化によってできた時間に非効率的な遊びをしたときに楽しさを感じます。 こんな自分がこの先仕事を楽しんでいけるのか不安です。 みなさんが効率志向についてどう思っているのか、ご回答お願いします。

  • コインキデンチア・オッポシトールム

     ・ coincidentia oppositorum  ・ coincidence( unity ) of opposites  ・ 対立物の一致(合一・統一)  これは 有るは無いであり 無いは有るだと言い 善は悪であり 悪は善であるというような内容を持つ命題だと思いますが それは 所謂る《神のもとにおいて成り立つ》かも知れないとしても 実際に経験現実と成りましょうか? これが 問いです。  この命題は 調べてみますと すでに古代ギリシャの哲学に現われており インドや道教などにも見られると言います。  中で 次のような情報をこの質問のたたき台を述べるためのたたき台とします。  ▲(ヰキぺ:ニコラウス・クザーヌス) ~~~  ( a ) クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。  ( b ) 無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。  ( c ) すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。  ( d ) 中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ( d )については すでに【Q:ひとは カミの似像である】で問い求めました。《フラクタル構造》を成すのではないかという回答を得て これを一つの結論としました。  ただし  ▲ 認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。  ☆ とは わたくしは 捉えていません。人と神とのあいだには へだたりがあると見ています。  ( c )の前半すなわち《すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも》については ( d )と同じようであり そのとおりだと見ます。ただし 後半の  ▲ それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。  ☆ については 疑問を持ちます。《相互に調和している》のは 神の目から見てであろうと考えますが いまさきほど述べたように《神と人とのあいだには へだたりがある》と見ますので その《調和している状態》を人が見ることはむつかしい。こう考えます。  ですから すでに 《対立物の一致》は 人間にとっては 見ることが出来ないであろうというここでの問いになっています。すなわち  ( b )も《極大と極小(神と被造物)が一致する》のは  ▲ 無限の中では  ☆ ということであり すなわち《神の目から見て》なのだと捉えます。すなわち( a )につながります。    *  たとえば  (α) 坂道は 上りと下りとが互いに対立するかのごとくあるが 道として一致している。  といった説明には従えません。気持ちや能力が上がるのと下がるのとを例に取れば その対立状態にあることをないがしろにすることは出来ません。  (β) 有ると無い あるいは生と死 あるいは善と悪とは 神のもとで互いに違いがない。  と言ってもその《神のもとで》という条件は 人間にはただその想像においてしか分からない。つまり 現実においては 対立しつづけている。     *  あるいは いわゆる弁証法過程として この命題を肯定する場合があります。すなわち  (γ) 対立物の統一なる命題を解く鍵は 時間過程にある。自然の事象をも含めて 人間の社会と歴史は その時間的な行為とその錯綜関係として成る。ゆえに時間が解決する。(縁起共生?)  これは 一般に  (γ‐1)  矛盾する対立物が互いに闘争することをつうじて 新たなより高い次元においてそれぞれが変わった状態となり互いに調和を見い出すということだ。  とすると そういう場合には その中間の過程やそこにおける闘争が 人間にとっての人生であり現実だということになります。果たしてそうか? それ以外に 《和》はないのか?  またもしその  (γ‐2) 《中間の闘争過程》は やがて社会における所謂る格差の問題が適宜に根本的に解決されたなら 対立物の統一がその限りで完全に成った状態が出現する。  といった《いまの闘争の勝利の暁には》というかたちの《統一》理論には 与し得ません。《神の目から見て / 無限のもとで》という条件よりもわるいと考えます。それは 《人間が――つまり ヒトが生物として――変わる》と言っているのであり そのことだけを言っていればまだしも それが必ずや未来には社会全体として実現するといった展望を立てるのは お呼びでありません。仮りにそのことがほんとうだとしても 実際にその芽が出て来て兆しが現われたときに言い始めても遅くはないと考えます。     *  この対立物の一致なる命題は 西田幾太郎にも影響をあたえたようで   (δ) 絶対矛盾的自己同一  という表現として打ち出されたそうです。  このとき ここでは 形而上学として分かるなどとすら言わないで 次のようにたたき台を立てて問います。  (ε) いやいや 有るは有る 無いは無いだ。善はそれとして善であるが 悪は飽くまで悪であり 主観としてだが心の思いや判断としての善なる要素が欠けている。それらの対立する二項は 互いに相容れないのが 現実である。  とです。この問いを自由に大胆におしすすめていただければ さいわいに存じます。よろしくどうぞ。  

  • コインキデンチア・オッポシトールム

     ・ coincidentia oppositorum  ・ coincidence( unity ) of opposites  ・ 対立物の一致(合一・統一)  これは 有るは無いであり 無いは有るだと言い 善は悪であり 悪は善であるというような内容を持つ命題だと思いますが それは 所謂る《神のもとにおいて成り立つ》かも知れないとしても 実際に経験現実と成りましょうか? これが 問いです。  この命題は 調べてみますと すでに古代ギリシャの哲学に現われており インドや道教などにも見られると言います。  中で 次のような情報をこの質問のたたき台を述べるためのたたき台とします。  ▲(ヰキぺ:ニコラウス・クザーヌス) ~~~  ( a ) クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。  ( b ) 無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。  ( c ) すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。  ( d ) 中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ( d )については すでに【Q:ひとは カミの似像である】で問い求めました。《フラクタル構造》を成すのではないかという回答を得て これを一つの結論としました。  ただし  ▲ 認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。  ☆ とは わたくしは 捉えていません。人と神とのあいだには へだたりがあると見ています。  ( c )の前半すなわち《すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも》については ( d )と同じようであり そのとおりだと見ます。ただし 後半の  ▲ それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。  ☆ については 疑問を持ちます。《相互に調和している》のは 神の目から見てであろうと考えますが いまさきほど述べたように《神と人とのあいだには へだたりがある》と見ますので その《調和している状態》を人が見ることはむつかしい。こう考えます。  ですから すでに 《対立物の一致》は 人間にとっては 見ることが出来ないであろうというここでの問いになっています。すなわち  ( b )も《極大と極小(神と被造物)が一致する》のは  ▲ 無限の中では  ☆ ということであり すなわち《神の目から見て》なのだと捉えます。すなわち( a )につながります。    *  たとえば  (α) 坂道は 上りと下りとが互いに対立するかのごとくあるが 道として一致している。  といった説明には従えません。気持ちや能力が上がるのと下がるのとを例に取れば その対立状態にあることをないがしろにすることは出来ません。  (β) 有ると無い あるいは生と死 あるいは善と悪とは 神のもとで互いに違いがない。  と言ってもその《神のもとで》という条件は 人間にはただその想像においてしか分からない。つまり 現実においては 対立しつづけている。     *  あるいは いわゆる弁証法過程として この命題を肯定する場合があります。すなわち  (γ) 対立物の統一なる命題を解く鍵は 時間過程にある。自然の事象をも含めて 人間の社会と歴史は その時間的な行為とその錯綜関係として成る。ゆえに時間が解決する。(縁起共生?)  これは 一般に  (γ‐1)  矛盾する対立物が互いに闘争することをつうじて 新たなより高い次元においてそれぞれが変わった状態となり互いに調和を見い出すということだ。  とすると そういう場合には その中間の過程やそこにおける闘争が 人間にとっての人生であり現実だということになります。果たしてそうか? それ以外に 《和》はないのか?  またもしその  (γ‐2) 《中間の闘争過程》は やがて社会における所謂る格差の問題が適宜に根本的に解決されたなら 対立物の統一がその限りで完全に成った状態が出現する。  といった《いまの闘争の勝利の暁には》というかたちの《統一》理論には 与し得ません。《神の目から見て / 無限のもとで》という条件よりもわるいと考えます。それは 《人間が――つまり ヒトが生物として――変わる》と言っているのであり そのことだけを言っていればまだしも それが必ずや未来には社会全体として実現するといった展望を立てるのは お呼びでありません。仮りにそのことがほんとうだとしても 実際にその芽が出て来て兆しが現われたときに言い始めても遅くはないと考えます。     *  この対立物の一致なる命題は 西田幾太郎にも影響をあたえたようで   (δ) 絶対矛盾的自己同一  という表現として打ち出されたそうです。  このとき ここでは 形而上学として分かるなどとすら言わないで 次のようにたたき台を立てて問います。  (ε) いやいや 有るは有る 無いは無いだ。善はそれとして善であるが 悪は飽くまで悪であり 主観としてだが心の思いや判断としての善なる要素が欠けている。それらの対立する二項は 互いに相容れないのが 現実である。  とです。この問いを自由に大胆におしすすめていただければ さいわいに存じます。よろしくどうぞ。