• ベストアンサー

カイン

聖書を読んでいて思ったのですが、 弟(アベル)を殺したカインは、神に追放されましたよね。 それなのに、 「私がさすらい人になれば、出会った誰にでも殺される」 と云ったカインに、神が、 「カインを殺す者は7倍の復讐を受けるだろう」 と云って、カインに、殺されないようにしるしをつけたのは何故なんですか? 殺されてもいい…とゆうか、仕方ないと思うんですが… 出来れば、宗教学見地からのご意見を伺えないでしょうか。 いえ、個人的なご意見でも良いのですが、 「なるほど!」と納得出来るようなお答えを、ぜひ宜しくお願いいたします。

noname#5550
noname#5550

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • cse_ri2
  • ベストアンサー率25% (830/3287)
回答No.4

いろいろな見方があるかと思います。 出エジプトの時代に、ヤハウェの神は 『だれでも、人を撃ち殺した者は、必ず殺されなければならない』 という律法をイスラエル人に与えますが、それまでは殺人 についての明確な戒めはありませんでした。 ですので律法以前の時代においては、刑法の規定(現代的 に述べると)がないので、裁量的な判決を下していたので はないでしょうか。 カインはアベルを殺してしまいますが、それに対して 『あなたは地上の放浪者となるでしょう』 と神は判決を下します。 その後で 『わたしを見付ける人は、だれでもわたしを殺すでしょう』 とカインが神に訴えると、 『だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう』 と答えます。 これは「あなたは死刑判決を受けたのではないから命を取 られることはないですよ」という確証を与えたのだと捉え ています。 この神の「情状酌量」については、もっと後に出てくる 「ヨナ書」とかを読むとわかりやすいかもしれません。 ヨナ書では、ニネベの町に対して神が審判を下そうとし、 預言者ヨナを通して町の滅亡をニネベの町の人に宣告しま すが、ニネベの町の人が罪を改めた時、神は思いとどまっ てニネベの町を滅ぼすのを止めました。

noname#5550
質問者

お礼

カインが、自分は自分を見付けた誰かに殺される、と思っているということは、 そのくらいの罪の意識はあると思うんですが、 そのような戒めがなかった(適応されなかった?)、つまり、情状酌量が認められたということは、 神は、自分がカインにしたことを、少しは悪いと思ってる、ってことなんでしょうか。 自業自得を背負う人って多い気がするのですが(ヤコブとかヨセフのお兄さん達とかも…)、 何だか皆、本当の悪人ではなく何らかの理由があるので、 少しでも救われるとホッとするのと同時に、そうなる前に防ぐことも出来たんじゃないか、 なんて考えてしまったりもします(笑゛) 未だレビ記の途中までしか読み進んでないので、続きも余計に楽しみになりました。 素敵な回答を、有り難うございました。

その他の回答 (5)

  • cse_ri2
  • ベストアンサー率25% (830/3287)
回答No.6

>カインが、自分は自分を見付けた誰かに殺される、と思 >っているということは、 >そのくらいの罪の意識はあると思うんですが、 >そのような戒めがなかった(適応されなかった?)、つ >まり、情状酌量が認められたということは、 >神は、自分がカインにしたことを、少しは悪いと思って >る、ってことなんでしょうか。 そうですね。私もそう思います。 >自業自得を背負う人って多い気がするのですが(ヤコブ >とかヨセフのお兄さん達とかも…)、 多いです。(笑) 旧約聖書には因果応報といいますか、善なる行いをすれば よい報いがあるし、罪を犯せば罰が下るという内容の話が 多く出てきます。 因果律が成立しない時もあるんですけどね。 (そういう時は、すべては神のみ心のままにと言うことにでしょう) >何だか皆、本当の悪人ではなく何らかの理由があるの >で、 少しでも救われるとホッとするのと同時に、そうな >る前に防ぐことも出来たんじゃないか、 >なんて考えてしまったりもします(笑゛) ヤハウェの神は人間に警告をしたり、ああしなさい・こう しなさいと命令を下すことはありますが、人間の行いに直 接関与することは、ほとんどありません。 そして、人間の行為の結果をみて、審判を下しています。 人間の行動をむやみに束縛しないところは、人間の自由を 尊重してくれているのかな、なんて思ったりもします。

noname#5550
質問者

お礼

私はキリスト教じゃないのですが、神様というものは、絶対的に正しいものだと思っていたので、 聖書を読んで驚くことも多々あります。 ノアを救ってくれたのは神ですが、カインのように、自分の不備で過ちを犯させてしまったり… なので、今回のことで、その見解は改めなければならない…とまではいきませんが、 そういう一面もあるんだな、ということは解りました。 人間は、知恵の実を食べたときから、神に認められた存在だってことなんでしょうか。<束縛云々

  • aster
  • ベストアンサー率70% (374/533)
回答No.5

  これはたいへん興味深い問題で、個人的に考えてみたく思います。 まず、この話の経過の背景には、「農耕民」と「遊牧民・牧畜民」のあいだの社会的・歴史的な「対立」あるいは「緊張関係」が背後にあるのだということが、まず言えます。ただ、それでもって説明が付くかというのが難しいのです。 カインに神が述べた「七倍の復讐」の「七」という数字は、「神秘数」で、「聖書」の他の箇所を見ても一杯出てきます。七が神秘数で吉兆数だというのは、東西に関係しません。七福神とかいうのも中国にあります。 昔、これを読んで気になったこと、疑問を抱いたことは、カインの子孫である、レメクという人物の言葉です。彼は、二人の妻を持ちますが、二人に向かい、奇妙なことを云います: >わたしは受ける傷のために、人を殺し >受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す >カインのための復讐が七倍ならば >レメクのための復讐は七十七倍。   (「創世記:4:23-24」口語訳聖書・日本聖書協会) カインのための七倍の復讐よりも、レメクのための七十七倍の復讐の方が、わたしには不思議であったのです。七倍の復讐は神が云ったもので、神の意志から発したものでしょうが、レメクの七十七倍は、レメク自身が二人の妻に、自分で宣言したことです。 カインに対する神の「弾劾」は、よく読んでみると、「地が血を受けて叫びを発している」と神は述べています。また、「地はあなたのために、もはや実ることがない」とも甥っています。神がそう罰を決めたというより、「地」に呪われた者としてカインの罰が定まったとも解釈されます。 アダムとヘーウァを弾劾した時の神は、カインの場合とは別に、みずから、二人に罰を与え、追放処分を宣言します。 この違いは何かということが問題になります。 また最初に、「農耕民」と「遊牧民」の対立あるいは文化的緊張関係の反映と云いました。神はアダムにエデンの土地を、「耕作」させています。動物を使って遊牧・牧畜をさせている訳ではありません。そして、アダムに対する罰の言葉は、「地はあなたに対し、いばらとあざみを生じ、あなたは野の草を食べる」というものです。 つまり、アダムの罪によって、地は容易に耕作に対し豊饒を齎さない、むしろ不作があるだろうと、神は宣言しています。アダムとヘーウァは「農耕民」になります。 他方、カインとアベルになると変化が起こります。カインは「土を耕す者」で、アベルは「羊を飼う者」です。アベルは牧畜民・遊牧民だとも言えます。原象徴的人物なのです。 牧畜民にとって、家畜は殺して肉を取るものだとも言えますから、「血を流す」ことは、それほど禁忌だとは言えません。しかし、農耕民にとって、「血を流す」ことは、禁忌だとも言えます。 「血」とか「精液」は、両義的な意味を持っています。それが「血に注がれる」時には、まさにそうなります。大地の豊饒を目的として、聖なる意味で、血や精液を大地に流す儀式があり、他方、儀式に則らないで、そういう行為をすると、地は「穢れます」。 アダムとヘーウァの場合は、蛇が誘惑したのだと云っても、神はこの場合、「中立」であるとも言えます。しかし、カインとアベルの場合、カインの捧げものを神が受け取らなかったのが、二人の争いの原因ですから、神は、殺害について「中立ではない」と言えます。 何故、神はアベルの捧げものを受け取り、カインのそれは拒否したのか。これは、想定になりますが、ユダヤ人は、最初の基本的な生活形式は、遊牧・牧畜でした。その前には農耕だったのでしょうが、独立した民族意識を持った時、牧畜の民でした。 遊牧民は、物資に困ると農耕民を襲撃し、略奪を行い、また殺人も行います。それは「罪ではなく」、遊牧民の生活の方法だったのです。家畜を殺すことで生活が成り立つように、農耕民を襲って略奪殺人を行って生活が成り立つという原理がありました。 遊牧民にとっては、必要なら、略奪・殺人は悪ではなく、許容された行為だったのです。 イスラエル(ユダヤ)の神は、遊牧民・牧畜民族の神だと言えます。そこから、想定ですが、アベルの捧げものを神がよみしたのは、アベルが、神の民だったからだとも言えます。カインは、神の民とは距離があったのだと言えます。 では、アダムはどうなのかと云えば、これは、ユダヤ人が創生神話を拝借した、別の神話に、そういう記述があったのだと思えます。アベルとカインの話になって、遊牧民の神ヤハウェの偏愛が表現されて来たのだとも言えます。 考え方では、農耕民カインには、アベルを殺害する、相応の理由があったのだとも言えます。カインの罪は、大地を血で汚したということです。カインは、神の意志によってではなく、血の呪いによって、大地を流浪する者となる罰を受けたのだとも言えます。 「聖書」には明確にそう記されていませんが、カインには「正当性」があり、神もそれは認めざるを得なかったのでしょう。神はそこで、罪に怯え、自分も他人に害されるのではないかというカインに向かい、「あなたを害する者は赦されない」というバランスを述べたのでしょう。 あるいは遊牧民同士の争いなら、血に対し血の復讐なのかも知れませんが、農耕民カインが、正当な事由で人を、弟を害したことについて、「地の呪い」は避けられない、しかし、それでもって、カインを殺してよいということにはならない。カインを害する者は、正当な事由がないので、その罪・復讐は大きなものとなるだろう、と述べたのだと想像できます。 それでは、カインの子孫レメクの七十七倍の復讐とは何かです。レメクは三人の男子の父親です。彼らは: 妻アダの子ヤバルは、「家畜を飼う者」の祖先 アダの子、弟ユバルは、「笛や琴を執る者」の祖先 妻チラの子トバルカインは、「刃物を鍛える者」 とこうなります。ここで、「牧畜」「音楽・芸術」「戦い・戦闘・鍛冶技術」という文化的要素が展開したことが明らかになります。レメクの言葉は、「自分たちを害する者」に対する復讐は、七十七倍だというものです。 カインによるアベルの殺害は偶然のもので、しかもカインには正当な事由があったと考えられると先に述べました。レメクの時代になると、社会が複雑になっており、略奪や殺人が横行していたのだとも考えられます。 正当な事由なく、自分たち一族に害を成そうとする者は、意図的な者たちであり、それらの者への対抗は、カインの偶然の事件の比ではなく、その11倍、つまり、七十七倍だという宣言は、「報復法」の原型を主張しているのだとも言えます。 また、レメクの息子たちは、牧畜者、音楽家、鍛冶・武器製造者で、単なる農耕民ではなく、遊牧・商業・戦闘にも関わる実力を持った一族で、襲って来るなら、七十七倍の報復をするぞ、と述べているのだとも解釈できます。 以上で、レメクの七十七倍の復讐まで含めて、考えて見たのですが、もう少し追加します。 それは、アダムの子は、「聖書」に記されている所では、三人で、カイン、アベル、セツです。アベルに子孫はなく、カインには子孫があります。しかし、「生き延びた人類」は、セツの子孫のノアの子孫たちです。カインの子孫は、大洪水で滅びたとも言えます。 ただ、系図を辿ると、奇妙な記述というか、一致があります。 アダム-カイン-エノク-イラデ-メホヤエル-メトサエル-レメク-三人の息子(文化の祖先)+娘 アダム-セツ-エノス-カイナン-マハラレル-ヤレド-エノク-メトセラ-レメク-ノア-三人の息子(ハム・セム・ヤフェテ)…… 念のため、ヘブライ語子音文字表記で、これらの名を記すと(間違っているかも知れません。ヘブライ語は読めませんので。なお「#」はアレプです)。 #DM-QYN-ChNWK-YWLD-MChWY#L-MTWSh#L-LMK- #DM-ShT-#NWSh-QYNN-MHLL#L-YRD-ChNWQ-MTWShLH-LMK-NH- これを較べると、カインの系図と、セツの系図で、似た名前のものを、その順序を残して取り出すと: カイン→ #DM-QYN-YWLD-MTWSh#L-LMK-(三人の息子) セツ→  #DM-QYNN-YRD-MTWShLH-LMK-NH-(三人の息子) カインの系図は、セツの系図のなかに収まっている可能性があります。元々大洪水を生き延びた家系は一つで、カインの家系は、実は、ノアの先祖の家系つまり、セツの家系と同じであって、何かの理由で、二つの家系に分けられたのではないかという可能性があります。 カインの子孫レメクには、三人の息子がおり、それぞれ、「牧畜の祖先」「芸術の祖先」「武器製造の祖先・鍛冶の祖先」となっているのであり、これらの「祖先」が大洪水で滅びると、そもそも「祖先」の意味がないということになります。 セツの子孫レメクの息子ノアにも、三人の息子がおり、この三人が、大洪水を生き延びて、新しい人類の先祖となるのです。 どうも、カインの家系とセツの家系は、どこかで重なっているか、元々同じ家系だったのか、密接な関係があると考えられます。 セツの子孫のレメクは、男子をもうけ、「この子こそ、主が地をのろわれたため、骨折り働くわれわれを慰める者」と言って、ノアと名付けます。 ノアは大洪水を生き延びた後、神に捧げものをします。燔祭といって、これは家畜を焼いて捧げるものです。この香りを神は楽しみ、心に言います:「わたしはもはや人のゆえに地をのろわない。……」 神が、「地を呪った」のは何時のことかと言えば、それはアダムの追放の時だとも言えます。しかし、カインの時にも、「地が血を受けた」と言い、「地の呪い」だと言っていますが、それは神が言っていることです。 ノアの捧げたものは、動物の犠牲です。これは牧畜者アベルの捧げたものを想起させます。アベルも動物・家畜を捧げたはずだからです。 セツの子孫レメクと、カインの子孫レメクは同じ人間ではないのかという可能性が高いです。カインの捧げものを受け取らなかった神は、その結果、「地の血による呪い」というものをカインに告げ、カインの絶望に対し、「七倍の復讐」と告げます。 セツの子孫レメクは、「主の地への呪い」を思い起こし、その「慰め」となるであろうとして、息子にノアと名付け、ノアは、捧げものを神に捧げ、神は、その捧げものを受け入れ、「もはや人について、地を呪うのはやめよう」と心に語ります。 カインの捧げものを、受け取らず、殺人というものを生み出した神は、カインの子孫(セツの子孫となっているが)レメクの息子ノアの捧げものを受け入れ、「地の呪い」はやめようと心に思うのです。 息子に「ノア」という意味深長な名を付けたレメクと、七十七倍の復讐だと言ったレメクは、「神の理不尽さ」を、直接にではなく、間接的に主張しているのだとも言えます。これは、「ヨブ記」の主題に通じますし、そもそも、「ヨブ記」と「創世記」で、編集された時期で、それほど極端には違わないのです。 ここには、農耕民と遊牧民の倫理や文化の違いの緊張が背景にあり、イスラエルの神は、遊牧民の神か農耕民の神かという問題があり、ユダヤ民族の文化の基礎には何があるのかが、問題になっているとも言えます。 「創世記」や「出エジプト記」などは、別の文化の神話を借用したり、また元になる資料文書が複数あって矛盾したり、あまた意味不明の場所が多数あるので、編集作業の時、かなり、無理をしたとも言え、その痕跡が、色々な箇所に残っているのです。 例えば、カインの子孫レメクと、セツの子孫レメクは、実は同じ人物だったのではないかというのは、すでに研究されていると思うのですが、偶然にしては、系図の一致度が大きすぎます。  

noname#5550
質問者

お礼

凄い見解ですね! 読ませて頂いて、面白かったです。 全てに圧倒されてしまって、ろくなお返事もさせて頂けそうにありませんが、少し。 アダムの件で、土地は不作になることも有り得るようになったわけですが、 カインがアベルを殺したのは、嫉妬心のように思うのですが、 それも「必要」だと言えるのでしょうか。 それは、神が自らを省みて、カインの「正当性」と認めた、ということなのでしょうか。 また、「大地の豊饒を目的として、聖なる意味で、血や精液を大地に流す儀式」なら、 その「血」がアベルだった、という考えはどうでしょうか。 カインは司祭でもなんでもありませんから、勝手にそんなことをしてはいけないのでしょうが、 もし土地が枯れていたら、人身供養にアベルを用いたとしたら、という。 (でも、創世記22章において、神は人身供養は否定しているんですかね…) レメクのことは、初めて気付きました。 この時代、絶対的な存在ではない(というか、今よりも身近な存在)である神に、 影ながら抗議していたと考えると、より、血や罪の深さを感じます。 お話をきかせて頂いて、とても面白かったので、僭越ながら私の考えなども書いてみましたが、 全く理解しておらず、チグハグなことを申していましたら申し訳ありません。 素敵な回答を、有り難うございました。

  • mujinkun
  • ベストアンサー率16% (336/1986)
回答No.3

私も高校時代の英語の授業で、聖書を勉強しましたが、矛盾にこだわると、そこでつまづいてそもそもの英語の勉強にならずに困りました。 カインが罪を犯す時に「やめなさい」って神は何故現れなかったのか、な~んて考えて。 人をわざわざ苦境に置いて面白がってるとしか思えないし。 カインに対しての憎しみを抱かせ、その上カインを守るようなことを言って、関係者各位を混乱させてほくそえむ。 あー、クリスチャンの人にはごめんなさいだけど、聖書はアナーキーな童話です。 そう思って読むと、太宰の「人間失格」のように面白いです・・・

noname#5550
質問者

お礼

そうですよね、矛盾…みたいなものは沢山目について、面白いです♪ (物語として見ても、普通に面白いんですがv) そう云われてみれば、全能のような神がカインの犯罪を止められなかったのは面白いです。 でも、「宗教学」として、講義にもありますし研究されている方もいらっしゃると思うので、 そういう方の意見をきかせて頂ければな、と質問させて頂きました。 講義を受けていたときに、きちんと先生に質問してみれば良かったのですが… ご回答、有り難うございました。

  • nyozegamon
  • ベストアンサー率45% (895/1969)
回答No.2

>「神の愛」ですか…案外甘いんじゃ? とか思ってしまうのはなしでしょうか?(笑゛) 神の愛は無限で、全ての罪人を赦したもう(笑゛) >このサイトって、nyozegamonさんのじゃないんですよね? 残念ながら、私のサイトではありません。 >何だか、色々と論議してみたくなりました☆ 基本的に、聖書は論ずるものではなく、信ずるものです☆ nanami17さんに神の御加護があらんことを。 (でも、私は無宗教です)

noname#5550
質問者

補足

宗教学を専攻して、聖書の面白さに目覚めたので、疑問は論議により解決するものだと思っています。 キリスト教やユダヤ教のヒト達の中にも色んな解釈があって、喧嘩腰になったりもせずに、中々面白かったですよ。 何年か前に、前のブッシュ大統領が、 戦争に行く兵士に神のご加護を、と云ったことで、少し論争になっていたりもしたそうです☆ (戦いを望まない神のご加護が兵士に与えられるのか、という問題で) 因みに、私は仏教です。 回答、有り難うございましたv

  • nyozegamon
  • ベストアンサー率45% (895/1969)
回答No.1

「なるほど!」と納得出来るかどうかわかりませんが、下記URLに出ていますので、参考にしてください。 簡単に言えば、「神の愛」ということだと思われます。

参考URL:
http://isweb31.infoseek.co.jp/family/takamak1/history24.html
noname#5550
質問者

お礼

「神の愛」ですか…案外甘いんじゃ? とか思ってしまうのはなしでしょうか?(笑゛) とゆうか、このサイトって、nyozegamonさんのじゃないんですよね? 何だか、色々と論議してみたくなりました☆ 早速の回答を、有り難うございましたv

関連するQ&A

  • カインとアベル

     素朴な質問です。「宗教」の分野が見つからないのでここに質問します。 旧約聖書の中でアダムとイブの子どもであるカインとアベルがいますが、神の貢物をめぐって嫉妬が生まれ、カインは弟のアベルを殺してしまいます。その後神の怒りでカインは追放されてしまいますが、結婚します。その相手となったのは誰なのでしょうか?神はアダムとイブ以外に人間を作ったのでしょうか?  もし僕の理解が足りなかったらすいません。気になったもので。

  • カインは なぜ・どこが わるかったのか?

     明確には分かりません。いくつか解説を読みましたが たたき台とする案も見つかりません。  ▲(創世記 4:1-16) ~~~~~~~  1: さて、アダムは妻エバを知った。   彼女は身ごもってカインを産み、    「わたしは主によって男子を得た」   と言った。  2: 彼女はまたその弟アベルを産んだ。   アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。  3: 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。  4: アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。   主はアベルとその献げ物に目を留められたが、  5: カインとその献げ物には目を留められなかった。   カインは激しく怒って顔を伏せた。  6: 主はカインに言われた。      「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。  7:   もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。      正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。      お前はそれを支配せねばならない。」  8: カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、    カインは弟アベルを襲って殺した。  9: 主はカインに言われた。      「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」     カインは答えた。      「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」  10: 主は言われた。      「何ということをしたのか。      お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。  11:  今、お前は呪われる者となった。      お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりも      なお、呪われる。  12:  土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出す      ことはない。       お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」  13: カインは主に言った。       「わたしの罪は重すぎて負いきれません。  14:   今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたし       が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となって       しまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺す       でしょう。」  15: 主はカインに言われた。        「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の       復讐を受けるであろう。」     主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに    しるしを付けられた。  16: カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ のちに弟アベルをころすまでに到る心の深い闇のような悩みがあったのかと推し測られますが それを具体的にどう捉えればよいのでしょう?  ▲ (同上) ~~~~  6: 主はカインに言われた。      「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。  7:   もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。  ~~~~~~~~~~  ☆ こういう声を聞いてカインは 否まなかった。のなら 何か心の中にやましく心苦しい動きがあったのかと推察されますが それが何かは 読む者の解釈に任せられていましょうか?  農民と遊牧民との違いを指摘してそこに何かがあるといった議論も聞きますが むしろそれのほうがはっきりしないと考えられます。なんで職業の種類が 心のやましさにかかわるのか?  よろしくお願いいたします。

  • 聖書のカインや動物について。

    聖書でよくわからないので。 とはいえ、それほど詳しいわけでもないです。 ちょっとかじっているだけです。 アダムとエヴァが楽園追放されたのは知恵の実を食べたから。ならば、何故、この世に動物がいるのですか? 動物も知恵の実を食べたのですか? 息子のカインは何故、神に嫌われたのですか。 彼のことについて詳しく教えてください。 弟を殺した後、カインはどうしたのですか?

  • カイン再考

     極端な仮説を提出して 再考をのぞみます。  まづやはり先に そのくだりをかかげます。  ▲(創世記 4:1-16) ~~~~~~~  1: さて、アダムは妻エバを知った。   彼女は身ごもってカインを産み、    「わたしは主によって男子を得た」   と言った。  2: 彼女はまたその弟アベルを産んだ。   アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。  3: 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。  4: アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。   主はアベルとその献げ物に目を留められたが、  5: カインとその献げ物には目を留められなかった。   カインは激しく怒って顔を伏せた。  6: 主はカインに言われた。      「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。  7:   もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。      正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。      お前はそれを支配せねばならない。」  8: カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、    カインは弟アベルを襲って殺した。  9: 主はカインに言われた。      「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」     カインは答えた。      「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」  10: 主は言われた。      「何ということをしたのか。      お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。  11:  今、お前は呪われる者となった。      お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりも      なお、呪われる。  12:  土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出す      ことはない。       お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」  13: カインは主に言った。       「わたしの罪は重すぎて負いきれません。  14:   今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたし       が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となって       しまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺す       でしょう。」  15: 主はカインに言われた。        「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の       復讐を受けるであろう。」     主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに    しるしを付けられた。  16: カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《4:6 どうして顔を伏せるのか》は 内面の暗い重い闇に落ち入った感じをつたえそうな表現であり じっさい原文は 《どうして顔が落ちているのか》という言葉で表わしているのだそうです。    →【Q:カインは なぜ・どこが わるかったのか?】No.36お礼欄    http://okwave.jp/qa/q7308621.html  ですが 今回は 形式的なこと・表現技法にかんすることがからんでいるのではないかという・ちょっと人を食ったようなとさえ見られる見方を提出します。  (あ) このカインの物語は カインがどうだアベルがこうだという問題では必ずしもなく そうではなく ひとえに《ひとごろし》という主題を アダムとエワの物語のあとに提示してみせたのだという解釈です。  (い) すなわち聖書記者は 天地創造が終えられたあとの初めに 《善と悪とを知る木から採って食べた》という・おそらく人間の自由意志の主題をあつかった。そのあと ただちに――エワとアダムとは その自由意志を おのれの心にさからったかたちにおいても 発揮することがあると物語ったからにはそのあと ただちに―― 人が人をころすという主題を取り上げた。  (う) だから アベルが遊牧民でカインは農耕民だという違いを要因として取り上げたり あるいは一にも二にも 信仰の問題であってそれは なかなかオモテには出て来ないのだと信仰論で済ませようとしたり さらにあるいは けっきょくカインは 神がアベルの供え物を喜んだが 自分のそれには目を留めなかったところから アベルに嫉妬したのだと説明したりする議論は 解釈に失敗するか もしくは タメにする議論に落ち入るのではないか。  (え) すなわちつまり エワとアダムの事件では 《自由意志には すなおな心とへそ曲がりの心とがある》と理論づけたのだし ここカインの事件では 《その自由意志が みづからのであれ・他人のであれ同じ自由意志を・つまりは自由意志の主体として人間という存在そのものを抹殺することがある》と論じすすもうとしている。  (お) エワとアダムとは へそ曲がりの報いとして エデンの園を追われた。カインは  ▲4:12 お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」  ▲4:15 ~~~~~~~~~~~~~~   主はカインに言われた。        「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の       復讐を受けるであろう。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ といったように捌かれた。この結果をもって ひとが人をころすことがないようにとされた。      *  ブレインストーミングのごとく 思いっきり自由なご見解をどうぞ。  言わなくてもよいと思われますが フルボッコのご批判をどうぞ。

  • カインとアベル

    カインとアベル ある日2人は各自の収穫物を神ヤハウェに捧げる。 カインは収穫物を、アベルは肥えた羊の初子を捧げ、神はアベルの供物に目を留めたものの カインの供物は無視した。嫉妬にかられたカインはその後、野原で弟アベルを殺す。 しかし、大地に流されたアベルの血は神に向かってこれを訴え、その後、ヤハウェに アベルの行方を問われたカインは「知りません。私は永遠に弟の監視者なのですか?」と 答え、これが人間の吐いた最初の嘘だという。カインはこの罪により、エデンの東に追放され、 この時ヤハウェは、もはやカインが耕作を行っても作物は収穫出来なくなる事を伝えた。 ウィキペディアからの大まかな引用です。 ヤハウェにアベルの行方を問われ、 カインが答えたことが人間の吐いた最初の嘘だと記されているらしいですけど、 ならばカインはアベルの監視者なのでしょうか。 ヤハウェはカインが耕作を行っても作物は収穫出来なくなる事を伝えたそう ですけど、この後カインはどのような食事をしたのでしょうか。 こういう記載で正典に書かれているのかはわかりませんけど、嫉妬で殺したというのなら、 なぜ耕作を妨げるようなことをわざわざするのでしょうかとおもうのですけど。 ご存知の方よろしければ教えてください。

  • ユダヤ教はなぜ農耕をもっとも卑しい職業と見るのか

              ユダヤ教はなぜ農耕をもっとも卑しい職業と見るのか  私は旧約聖書のカインが弟アヴェユを殺害する記述を信用することが出来ません。 ユダヤ教は農耕をもっとも卑しい職業と見る思想があることを知りおたずねする次第です。子どもの頃教会で母親イヴが弟を溺愛しこれに嫉妬した兄カインが弟を殺したと聴きましたが納得できませんでした。この疑問は今も残っております。イスラレルでは農耕だけでは食っていけないのだと考えましたが釈然としません。放牧によって人口増加を抑えてきたとも考えられますが、現在は次のような解釈をしています。  カインとアヴェユはアダムとイヴの息子である。カインは畑を耕しアヴェユは羊を飼育した。カインは麦をアヴェユは子羊を神に供えた。神はカインを振り向きもしなかった。これが弟殺しの動機となったことは想像に難くない。その両親を生み出し、万物を創造したとされる神に無視された被告人カインには同情の余地が十分ある。麦を供えた被告人に責められる点はない。被告人を弟殺しに追いやった神こそが責められるべきである。  そこで麦を供えたカインを振り向きもしなかった神の言動を究明しないと本件の真相は明らかにならない。旧約聖書の記述だけでは事件全容を到底信用できない。審理不十分である。よって本件を原審に差し戻す。  なお傍論ながら、人類はカインの末裔にして原罪を負っているとの主張はキリスト教独自の見解であって採用できない。したがってまた、本件をモチーフにした映画エデンの東も神に対する非難と解するのが相当である。    本件のポイントは神が麦を供えたカインを振り返りもしなかった点にある。これが争点にならなかったことが理解できない。ユダヤ教においては農耕はもっとも卑しい職業との思想があるが、また、イスラエルは農耕には不適な地との見解もあるがこれらを主張する検察官の証拠も弁論もない。キリスト教など旧約聖書を教義とする宗教は信仰に値しないと言えよう。

  • ヘブライ聖書における人間洞察

    ユダヤ教的解釈または議論では人間心理は対象とされるのでしょうか? されるとすれば、以下の解釈は適切でしょうか? また、人間洞察をテーマにしたヘブライ聖書の書籍などの情報を知りたいです。 よろしくお願いします。 ”カインは農作物、アベルは子羊を一匹殺して捧げたところ、神様はアベルの貢物の方が良いと言ってカインを馬鹿にしたのでカインは怒って弟のアベルを殺した。” 弟を殺した兄の心のうちはなんだったのかを自らに問うと ・兄特有の我慢と弟特有の自由さ ・農作物を得るための地道な労働を否定された ・尊敬する神の不当な評価(≒可愛さ余って憎さ百倍)に対する憤り

  • 聖書は 《ひとごろし》をどう見ているか

     たたき台をしるしますので お考えを述べてください。  【§1】 エワとアダムの自由意志から始まった(創世記3:1-24)  (1) 生まれつきそなわった自然の自由な心にその心に背く自由もあった。:食べるなと言われた木の実から採って食べた。  (2) アダムよ きみはどこにいるのか? という心の声を聞いて 自由のおそろしさを知った。  【§2】 その子カインは 自由は自由ではないかと心に思った(承前4:1-17)  (3) 弟のアベルは おのが心に背かないみたいだ その能天気はマチガイではないかと兄はうたがった。  (4) 背かないのはおかしいではないかとカインは或る日 野原でアベルに迫ると アベルはその従順をとおした。これをカインは ころした。  (5) あらためてカインも 自由のおそろしさを知った。知ってみるとそこで《顔が落ちた》。  (6) 自由という畏れには 仕返しという観念がなかった。そのこともカインは知った。  ▲ (創世記 4:15) ~~~~~~~~~~~~~    主はカインに言われた。       「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の       復讐を受けるであろう。」    主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに    しるしを付けられた。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (7) のちに:  ▲ (申命記19:21) あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。  ☆ というふうに復讐をすすめてもいるが:  ▲ (申命記32:35) わたし(=神)が報復し、報いをする  ☆ とも言っている。  (8) イエスの出たあとでは こう言う。:  ▲ (ローマ書12:17-21) ~~~~~~~~~~~  17: だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。  18: できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。  19: 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。    「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』    と主は言われる」(申命記32:35)  と書いてあります。  20: 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。    そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」  (箴言25:21-22)  21: 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【§3】 神のためならば《ころし》もありなのか? (創世記22:1-19)  (9) あなたの息子イサクをささげなさいと言われたアブラハムは 気のくるうばかりに悩み苦しみ考えた。  (10) ひとは おのれをもほかの人をも ひとをころすことはしない。という答えを得た。  【§4】 《なんぢ ころすなかれ》とモーセ (出エジプト記20:1ff.)  (11) これは 禁止命令である。アブラハムの主観内面における信仰とヒラメキを人びとのあいだに共同化したのである。  (12) モーセその人は個人としてアブラハムと同じくおのが心における内面の信仰にしたがっていたが 集団・社会としてはこの倫理規範を持った。律法と呼ばれる。法律である。  (13) 主観の内から言わば外へ出たのである。《カインにつけられたシルシ》に発するごとく。  【§5】 《文字はころし 霊は生かす》とパウロ (コリント後書3:6)  (14) 律法は 禁止命令としての倫理規範である。つまりは 禁止を犯したことの罪を自覚させるシルシとしての文字である。つまりは 《法律〔やオキテやナラハシ〕》を超えて 主観をおもんじるアブラハムの信仰に還る。と言う。    (15) ▲ (コリント後書3:2-8) ~~~~~~~~~~~  2: わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。  3: あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。  4: わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。  5: もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。  6: 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。   文字は殺しますが、霊は生かします。  7: ところで、石に刻まれた文字に基づいて〔* 罪の自覚をうながし その罪がけっきょくあたかも人をそこへみちびくところの〕死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、  8: 霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【§6】 イエスの後の現代  (16) 法律や思想が 有限のものであり相対化されたなら もう神は要らない。神という観念は要らない。主観内面におさまる。  (17) ひとの意志を踏みにじる《ころし》は ウソ・イツハリをもゆるすような自由度を持つ自由意志に発していると知ったし その自由についてのおそれをも知っている。その自由は 仕返しから 自由である。

  • 旧約聖書について

    旧約聖書のノアまでの人類の原初始の部分で、カイン系とエノシュ系の二つの系譜について、それぞれの意義を教えてください。 カイン系は人類の文化・創造の発見・・・だと思うのですが、エノシュ系は人間が人間を生む→神による創造を受け継ぐ、ということでしょうか? いろいろな見解があると思うので、できるだけたくさんのご意見をお待ちしています。

  • あなたは 自由を持て余しているか

     1. どういう自由か? ―― 一連の歴史をつうじて明らかになった次のような自由である。  2. アダムとエワは 善と悪とを知る木から採って食べた。そうするのは 胸の動悸で告げられるヤマシサ(恥づかしさ)反応があったにもかかわらず。  3. これは 自由意志のおこないであり わが心にさからうことも その自由度の範囲内だ。この自由度は 人間の思いや考えや想像力の行き着くところまで行き着くらしい。  4. アーリア民族の高貴な血を守るためには 或る異民族の血をことごとく抹殺するというところにまでも。  5. あるいは アダムらの子のカインは 弟のアベルが気に喰わないというので 抹殺した。  6. かれらは楽園を追放されたし 人殺しのシルシを額につけられた。が 自由意志のハタラキについては神にとっては織り込み済みなのであって 人間には ゆるされている。  7. カインを殺す者は七倍の復讐をしてやろうと神自身が言ったという。  8. アブラハムはこの神を心に どういうわけか 受け容れた。  9. 百歳でやっとさづかった嫡男のイサクをも神にささげるというほどの《自由意志におけるその意志の神へのゆだね》をよしとした。  10. イサクを屠ろうとしたとき神が止めた。《わたしが望むのは愛であって いけにえではない》と。  11. モーセは 社会における人びとの間の秩序のためにこれを《なんぢ 殺すなかれ》という倫理規範かつ法律とした(石打ちの死刑など 罰則がある)。  12. イエスはこのいわゆる律法を・そして民族の神をも揚げて棄てた。  13. 律法はその倫理規範に背いたヤマシサ(罪)をおしえるだけのものであるゆえ このオシへ(宗教である)による自己経営を棄てた。  14. 石板に書かれた十戒ではなく 心の胸板に書かれているものであることを指し示した。  15. ヤハヱー神についてはそれを 民族の外に開くことによって棄て 民族神からじんるいにとっての普遍神へと〔イエスが〕揚げた。  16. 揚棄される前の神についても 《わたし(神)は憐れもうと思う者を憐れみ 慈しもうと思う者を慈しむ》とか《わたし(神)は双子の兄弟の兄エサウを――母の胎内にあるときから――憎み 弟のヤコブを愛した》と言う場合がある。  17. エコヒイキはある。《風は気ままに吹く》。  18. 義人ヨブもが艱難に遭う。神などはオサラバしてしまえと言われるほどにゴミ屑同様の状態に成り得る。因果応報説は 人間の知恵どまりだと言わざるを得ない場合がしばしばである。  19. 原罪は 人間がウソをつきイツハリをおこなうということだ。ウソとはヤマシサ反応に逆らうこと。その自由度が われわれの自由意志にはそなわっている。ということらしい。  20. 原罪説(オシヘ)が――あるいは 不殺生戒や不邪淫戒が―― 人びとの意志の自由を抑えて秩序が保たれるという社会と時代は去った。その自由を 人びとは どう受け取っているか? ――持て余しているのか。  21. 人びとは オシヘ(つまりシュウキョウ――それは 人間の言葉で書かれているからには 信じるものではなく 考えるためのものである――)を 心の主人としてその奴隷に成り下がっている時代が過ぎたというのに ただただなお慣性の法則に従ったままである。――のだろうか?  22. あたまとたましひが――シュウキョウとつるんだマツリゴトによって――鈍ってしまったのだろうか。  ☆ あなたは 自由を持て余しているか