• ベストアンサー

”殺意”が有った・無しはどうやって決定されているのか?

毎度、ニュースをみて憤っているのですが、 わが国の司法において、加害者の”殺意”の有る・無しはどのように 決定されているのでしょうか? ”殺すつもりがなかった、ごめんなさい”と言えば済むみたいな 風潮を加害者側くず弁護士があおっているように感じるのは 私だけでしょうか? 殺すつもりがなければ、人の顔が変形する(元には戻らない)ほどの暴力 を加えた人間が、残りの数十年を楽しく生きていけるらしいこの国の 刑法の正義とは何なのでしょうか? 刑法においては、なんで結果で判断をくださないのでしょうか? ------ 小生、刑法だけはハンムラビ法典にすべきというのが信念なのですが。 やったら、やられるということが当たり前だとおもうのです。 爆弾つくって、人の手足をとばしたら、やった奴の手足もとる、 殺してしまったら、てめえも殺される(死刑)、それのどこが非理性的なのでしょう? こんな小生も納得できるような理性的、合理的な説明を期待します。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#2543
noname#2543
回答No.9

1.kimballさんの質問の結論部分にのみ注目すると、「刑法は無過失責任主義を採るべきだ」と読めます。しかし、さすがに全面的にそれを採用することは無理でしょうし、kimballさんの意図するところではないでしょう。 2.今までの、回答に対するお礼・補足から忖度するところ、kimballさんの意図は、  A 故意を科学的に立証するシステムは確立しているか。  B 殺人・傷害致死の法定刑・処断刑は軽過ぎないか。  C 刑事弁護は、白を黒と言いくるめることが多く、正義に反しないか。 というところかと思われます。 3.Aの点については、確かに裁判官の印象(心証)に全面的に依存している面があるでしょう。嘘発見器が必要でしょうか。   但し、統計的に調べたわけではありませんが、一般的に、検察官の主張が、むしろ過度に、認められているように思えます。また実際には、shoyosiさんの回答にもありますが、故意で争うより、反省の色を示し情状を期待した法が、法廷戦略としては有効でしょう。 4.Bの点のうち、法廷刑について、殺人罪は議論はあると思いますが、殺人の類型(衝動殺人、計画殺人)を区別しない以上、現行の規定で十分ではないでしょうか。ただ(重)過失致死は、重過失による交通事故などの問題もあり、もう少し重い刑を科してもよいかと思います。   処断刑については、死刑が出にくいことに憤慨する向きも多いようですし、それにも一理あると思います。ただ、死刑廃止論も根強いなか、運用上、死刑を出さない量刑相場が定着してしまっているのが現状なのでしょう。私としては、もう少し死刑にしてもいいかなとも思いますが、あまりインフレ化させるのも刑事政策上良くないのではと思っています。計画的に百人殺しても、思わず一人殺しても、死刑という同じ評価になるのもまずいでしょう。 5.Cは仕方が無いとしか言いようがないでしょう。確かに、私も明らかな犯罪を無罪と主張する弁護には抵抗を感じますが、そのようなデメリットがあってもなお、冤罪防止・人権保護のシステムは残さなければならないと思います。それに、依頼人の意向であっても、有罪を無罪と主張することを拒否する(弁護を降りる)弁護士も結構いますし。   なお、kawakawaさんは、誤判の場合、裁判官・弁護士に刑罰を課せ、と主張されてますが、明治初期の新律綱領(旧刑法の前)の時代、出入人罪罪律により誤判の判事は処罰されました。でも、私は反対です。 6.なお、y45uさんの回答に対する補足について、強姦犯人が相手を殺してしまった場合は殺意の有無に関係無く強姦致死、有形力による暴行の意思で殺してしまった場合は殺意の有無を問わず傷害致死になります。殺人よりは軽いですけどね。

kimball
質問者

お礼

回答、ありがとうございました。 それも、このように完璧にまとめて頂きまして大変うれしいです。

その他の回答 (8)

noname#160975
noname#160975
回答No.8

殺意の認定は難しい場合もありますが、犯行にいたる過程や動機、そのときの情況から判断されますね。 例えば人を殺した場合でも最初から自分で刃物を持って行って殺したのと、もみ合っているうちにとっさに近くにあった花瓶で頭を殴ったというのでは違いますよね。 このようにはっきりとした場合はいいんですが、そうでない場合は情況によるでしょうね。 例えばすごく憎い奴がいて、日記とかに「殺してやる」って書いたとして(ストレス発散で)、いつかの機会に本当にケンカでもみあいになり、相手が死んでしまったら殺意有りと認定されるかもしれません。偶然なんですけど。 そういう場合は稀でしょうけど。 刑罰については自分あるいは自分の家族が加害者になった場合と、被害者になった場合で考え方は違ってくると思います。(自分勝手ですけど) 自分の家族が、例の未成年の暴行目的で妻と幼い子供を殺した事件の被害者になったら、僕は間違いなく相手を殺すでしょう。どこまでも追いかけて・・・。だからあなたのいわれる復讐法に賛成です。 でももし自分の家族が犯罪の加害者になったら、やはり少しでも早く刑期を終えて帰って来て欲しいとやはり願うかもしれません。

kimball
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 そうですね、反対に自分または自分の家族、親類が加害者になったら という視点もとても大切ですね。 自分の身内に刑法犯罪者がいない(はず :ー)から、躊躇なく 主張できていることは否めません。 ポイント、さしあげらず、すみません。 > mo- さん、他の方々

  • shoyosi
  • ベストアンサー率46% (1678/3631)
回答No.7

 刑事訴訟では「事実の認定は証拠による(刑訴317)」となっていて、この証拠には、物的証拠はもちろん、本人の自供、第三者及び共犯者の証言を含みます。これらの証拠は、裁判官の自由な判断により、証拠能力が認められ、判決の基礎になります。ですから、自供も基本にはなりますが、凶器、態様などで、裁判官の心証を殺意があったと認めさせれば、認定されます。具体的事案については、過失致死、とか業務上過失致死の場合は、刑に格差がありますが、傷害致死と殺人などは、死刑相当でもない限り、変に争いますと、反省がないと認定され、罪名は軽いが、刑は重たいものとなる恐れがあります。  私は、殺人は原則死刑で、情状に酌むぺき事実があるときは減刑しうるとする応報の考え方が正当と思います。

参考URL:
http://www.osu.ac.jp/~kuramoch/Hogaku/Hanzai.html
kimball
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 また、参考Web Page情報ありがとうございました。 ブックマークさせて頂きました。 shoyosiさん、はじめ回答頂いた方々全員にポイントを さしあげられないのがとても残念です。 アメリカのサイトの (多分、このサイトの本家かとおもうのですが)ASK.COMじゃ 制限なしで、回答へのポイント付加ができるのになあ。 ここに書いてもしようがないですが、一応回答頂いて納得できる ものだったら、average 点として1点のポイントを加えてもいいかと 思います。

  • kawakawa
  • ベストアンサー率41% (1452/3497)
回答No.6

殺意の有無については、状況から見て申し開きができない場合もあります。 ガソリンをかけて火をつけたとか、青酸カリを飲ませたとか、両手両足を縛って海に放り込んだとか‥誰がなんと言おうと殺意があったとしか考えられない場合がありますネ。 一方、殴ったときに相手が倒れて頭を打って死亡した、近くにあったナイフを咄嗟に使ったら死んでしまった‥過失であるかもしれないし、或いは、過剰防衛なのかもしれないけれども、実際には元々殺意があったのかもしれない。こういう例もありますネ。 とりあえずは、自供内容が優先されるでしょう。特に目撃者がいない場合は。状況証拠が灰色の場合、最終的な決定は被疑者の自白ですネ。 ところが、状況証拠が真っ黒であった場合でも、心神喪失状態にあったために判断能力が無かったなどという理由での減刑や無罪を主張し、認められる場合もありますネ。個人的には多重人格であろうが、アルコールや麻薬のせいで判断能力が低下していようが、犯行を起こした人間には変わりないのですから、減刑などには断固反対です。 弁護士法には次のような規定がされています; 第一条 弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。 2 弁護士は、前項の使命に基き、誠実にその職務を行い、社会秩序の維持及び法律制度の改善に努力しなければならない おそらく、被害者の基本的人権は念頭に無く、また、社会正義や社会秩序とは何かを理解されていない方が多いのでしょう。 過去に冤罪事件などがあったことから、疑わしきは罰せずというのが基本となっていること、そして、終身刑制度がないために無期刑の上は死刑しかなく、その判決や実施には慎重にならざるを得ないのは分かるのですが、被害者やその家族の人権はどこにいってしまったのか疑問ですネ。 先の回答の中でハムラビ法典についての批判がされていますが、基本的には、罪を犯したものは相当の報いを受けなければならないということには賛成です。 ただし、主の物を盗んだ場合は手を切り落とす・主に怪我を負わせた者は死刑にする‥といった階級思想の部分は反対ですが‥ 現在、製造物にはPL法が適応され、企業責任が非常に大きくなっていますネ。弁護士や裁判官、或いは、精神鑑定を行った医師などにも、それに準じた法的責任を追及できればいいのではないかと常々思っています。 無罪にした者が同様の事例で再犯となった場合には、その弁護士や判決を下した裁判官も有罪になるといった‥ 無理でしょうかネ。 以上kawakawaでした

kimball
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 いやあ、こんなにきちんと理路整然と書いて頂いて感銘をうけました。 はい、まさに、小生が言いたかったことが小生の感情的な文章とは くらべものにならないぐらい正確に書かれていると思います。 PL法同様、誤った判決をした専門家連中の責任を追及する というご意見には、大賛成です!!   質問の回答としては、”自供”が結局優先される、ということでしょうか。 恐れていたとおりです。がっくりきますね、まったく。 ポイントは、本日中(他回答あるかなあ?)待って検討しますので、お待ちを。

  • nonkun
  • ベストアンサー率27% (98/357)
回答No.5

現状の刑についてはすでに意見がたくさん出ているので他のことを。 私も死刑等の極刑より、生きて罪を償わした方が良いと考えます。 手足を飛ばしたら、やった奴の手を取ってしまったら、そいつの世話で税金が使われるのは嫌です。人を殺した奴を簡単に殺してあげてはいけないと思うし。 #愉快犯等、殺すことが目的の犯人は除く。 ハンムラビ法典の第一条 『もしある人を死刑に値すると告訴して、これを立証し得ないときは、告訴した者を死刑に処す』 犯罪を犯した者以外にも全てに波及しますよ?まるでアメリカの訴訟社会を更に極端にしたみたいで私はイヤだ。

kimball
質問者

補足

回答、ありがとうございます。 ハンムラビ法典のことは、ちと余計でした。 回答としては、殺意の決定だけに限って、法的原理?、技術的原理と いうことでお願いします。 つまり、小生が一番心配というか疑心暗鬼なのは、殺意なんてものを うまくいいくるめることができるシステムになっているんじゃないの ということなんです。わが国の、加害者弁護団が決まって無罪を主張する をみていると!! ちがいますかあ? >専門化の方

noname#864
noname#864
回答No.4

教えていただきたいのですが,「殺すつもりがなかった、ごめんなさい」と言っただけで殺意が否定された事件ってなんですか? 日本の刑事裁判はそんなに甘いものではありません。 殺意とは殺人罪における故意のことで,故意はその対象となる犯罪の構成要件に該当する行為をすることを認識認容していると認められる場合に認められます。したがって,人を殺すことがありうる行為をしていることを本人がわかっていれば殺意があるとされます。 具体例を一つあげれば,柳刃包丁で人の腹部を突き刺していることがわかっていれば,いくら殺すつもりがなかったといっても殺意は認定されますよ。 「殺すつもりがなければ、人の顔が変形する(元には戻らない)ほどの暴力を加えた人間が、残りの数十年を楽しく生きていけるらしいこの国の 刑法の正義とは何なのでしょうか? 」とおっしゃいますが,殺していないのだから,あなたの理屈(ハンムラビ法典)でも死刑にはならないですよね? 国家は報復刑を行わないという刑罰思想が気に入らないのであれば,日本のみならず欧米諸国では暮らして行けないです。

kimball
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 はい、殺人を犯していなければ、死刑にはなりません。 えてして、被害者側は殺したいほどの憎悪をいだきながら、 (そもそも、加害者がやらなきゃ、なんでもなかったのに) せめて、同じ報復ですませよ、で制限を加えるという意味で、とっても理性的な 刑法だなあと思っています。(ハンムラビ法典の、その刑法的な 意味だけに限って。 ハンムラビ法典まで(よく知らんのに)出したのはお詫びします。 ただ、小生がこんな質問をあえてしたのは、マスコミをとおして 感じる(だから事実誤認かもしれませんが)、  暴力(一方的)加害者弁護団(なぜか群がる)-> 無罪または信じられない  ほど軽い減刑を要求する -> それが通る!! 不条理はなんだろうということです。 (はい、それが、アンタわかっていない、ということかもしれませんね :-) 小生の質問を再度言い換えさせて頂きますと、wakkyさんの書かかれました、 ”人を殺すことがありうる行為をしていることを本人がわかっていれば殺意が  あるとされます。” ということが、法的というか法律技術的?にきちんと できるシステム、方法論が本当にあって、かつ実践されているでしょうか?  くびをしめる、という行為でも殺意は成立するのでしょうか? ということです。 暴行目的でアパートの一室に侵入し、奥さんとそのあかちゃんを殺した 未成年の事件で、あれもちゃんと殺意ある殺人罪になったのですか? ------------- ちょっとまた余計なことですが。------- たとえ正確に殺意が認められても、 その上でくだされる判決の軽さはおかしい、じゃないかという, わが国の司法システムと専門家(特に加害者弁護団の、黒を白と言い張るよう にしか見えない)への不信が拭い去れません。   

  • y45u
  • ベストアンサー率27% (140/516)
回答No.3

殺意ってそうそう簡単におきるもんじゃないと思いますよ。顔の形が変わるように殴ったって死にはしないでしょう。死ぬこともあるでしょうけどね。ついカッとなって殴り続けた、相手はぐったりしてたけど前から恨んでいたのに殴り続けた。死ぬとは思わなかった。こういう感じだったら殺意はないでしょうねえ。 目には目を歯には歯をってやつですが、相手の目をツブしたら、自分の目をつぶされて当然、歯を折られたら歯を折られて当然というような意味にとっていると思うのですが、そもそもそういう意味でしたっけ? 相手の目をつぶすなら、歯を折るなら、自分もそういう目に合うことを覚悟してやれよって理解しているのですが・・・やったらやられるじゃなくて、やるからには覚悟が必要なんだって話のような・・・覚悟してるんならやれーってね。 基本的に犯罪を犯した人は更正するという事を前提にいろいろ決まってますよね。私はそれでいいと思いますよ。間違って人を殺したりする事もあるんじゃないですかね。交通事故なんて誰でもおこしますからねえ。夜の夜中に自殺目的で車に飛び込んできたり、たまたま偶然に目の前でコケたりしてひき殺してしまって、死刑になったらイヤですよぉ~殺意が無かった事を証明しろって言われてもどうしたらいいんだか・・・

kimball
質問者

補足

早速の回答ありがとうございます。 質問文が不充分で、やはり誤解されているようですが、 小生が主張したかったのは、事故、けんかではなく、最初から 包丁なり、ナイフなりをもってやった場合の暴力、暴行(レイプ) しようとして、抵抗されたから殺したなどなど、暴力意思があった (でも、それでもないといいはって無罪にしようとするクズ弁護士  がいるんじゃないでしょうか)場合のことです。 いわゆる一方的暴力犯罪人は、その犯罪実施時点で人権はなくなるべきでは ということです。

  • tjn
  • ベストアンサー率31% (5/16)
回答No.2

結局は自白が決め手になるようです。従って、警察の仕事の大きな役割にその自白をとれるかどうかがあり、それがとれる警部なりなんなりは腕がいいと言うことになるようです。太陽に吠えろのやまさんのように。だから自白のない裁判は非常に時間がかかります。勿論アメリカでは違います。「警部さん、スンマヘンでした。あれは私がやったのです。あの女が悪いんです....」「てこずらせやがって、さー全部言ってみな」日本的情緒です。

kimball
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 そうそう、裁判になんであんな時間をかけるのでしょうね!? わが国の場合。なんでオームのAは死刑にならんのでしょうね。 :-) まあ、無罪になっても驚かんですけどね。 この国の司法の場合。 ぼかあ、運良く犯罪にまきこまれたことがないですが 暴力犯罪に巻き込まれるときのことを想うと、到底他人ごとじゃないよ という気持ちでいっぱいなのです。 だからあえてこんな質問をしました。 (一方的暴力で)人を殺したら、終身刑ってあたりまえにしてほしいですね。 あっ、なにをもって一方的というかの判断は、殺意立証と同様むずかしいかな?! だって、正当防衛のない(実質上そうでしょう? 法律家のみなさん)国じゃ、 通り魔に立ち向かって返りうち(殺)しては、殺意ある犯罪になっちゃうしなあ。 (ちがうんすか? 専門家の方?) 銃をもっているやつを、銃をすてろ、の声に従わなければ当然撃っていいという 欧米じゃ当たり前のことが通用しない国だもんだあ。 拳銃ぶらさげていても、頼りにならんのですよねえ、日本の警察官の方。 (いや、皮肉じゃなくて、心から警察官のみなさまに同情申し上げます。  だって、自分の身すら守れませんものねえ、この国の司法とマスごみのせいで)

  • selenity
  • ベストアンサー率41% (324/772)
回答No.1

私も、日本という国は「罪(犯罪)に対する罰」が 軽すぎると思います。 ただ、「やったら、やられる」はどうかと思います。 大量虐殺を行った犯人は、どうなるのでしょう? 私は、生きて罪を償ってほしいです。 (社会のさらし者になってほしいとも言いますが、、、) ただ、少年法に関しては12才未満の適用で十分だと思います。 未成年でも酒やたばこは吸うし、無免許運転はするので 大人(成人)と同じ扱いで十分なように思えます。 どうせ、更正する気なんて毛頭ないんだろうし、、、

kimball
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 さらし者になんかなっていないじゃないか、というのが 小生の信ずるところ、おかしいなあというところです。はい。 :-)

関連するQ&A

  • 死刑の意義

    近代の司法制度は、古くは「目には目を」のハムラビ法典、もしくは復讐とか仇討ちを否定する形できていると思います。 ハムラビ法典というのは 失明させたら、罰として加害者の視力を剝脱するということですね。 死刑賛成派の人でも この考えに肯定的な人は少ないはずです。しかし、そうすると 人の視力を奪うことが野蛮なら 「人の命を奪うことはもっと野蛮なのではないか」 という矛盾が生まれます。(ヨーロッパの殆どの国で死刑が廃止された理由の一つにそういう不条理もあるのですが) そして、死刑賛成者に この矛盾を指摘すると 「自分の子供が無残に殺されても 死刑に反対できるのか。」と反論する人が必ず現れます。 熊本の3歳女児殺害事件では 被告は無期懲役になりましたが、私が心ちゃんの父親だったら 私もやはり死刑を望んでいたと思います。 しかし、法律というのは被害者や被害者の遺族の視点だけでなく、もっと広い視点で感情論ではなく 冷静かつ客観的に考える必要があると思います。 私も死刑には必ずしも反対ではありませんが、死刑賛成派の人は この矛盾をどのように解釈しますか? 一つの考えとして、懲役刑も制裁や償いというより “罪を犯した人が矯正し、社会に復帰するために必要な時間” というのもあるかもしれません。 (未成年の犯罪の場合は まさにこれが当てはまると思います。) そして、死刑というのは 矯正がもはや不可能だと見切った 人間を処分するということになるでしょう。 ただ、これは頷ける部分があるものの 全面的に私が賛同する意見でもありませんが。

  • ハンムラビ法典について

    ハンムラビ法典について こんにちは。 少しまとまりの無い文章になってしまいますがお付き合い頂ければ幸いです。 私は小学生の頃にマンガか何かで「ハンムラビ法典」の考え方というものを知り、それに共感しそれを貫いてきました。共感といっても大それたものではないですし、本来の意味とは若干ズレる点もありますが 「自分が何かされたら、それを"そのまま"やり返す」 そして、それから学んだ自己ルールとしての 「自分のされたくない事は、相手にもしない」という二か条を自分のルールとして持っています。 私は、「目には目を、歯には歯を」という考え方がとてもしっくり来るのです。 くだらない事ですが、喧嘩などになった際に手が出てしまう場合がありますが。私から手を出す場合は殴られるのを覚悟し殴っていますし、相手が殴ってきたら殴られる覚悟があるのだと解釈して同じ分だけ殴り返すなどしていました。 現在では分別も付きますのでめったなことでは手を出しませんが、小~中学生ごろまでは相手が誰だろうと手を出されば出し返していました。 正直、こういった対応が正しい対応だとは思いません。理想ならばぐっとこらえて大人な対応をするべきだったのでしょうが、当時の自分にとってはそれこそが最善だと考えていたのです。 このように、私の価値観に少なからず影響を与えているこのハンムラビ法典なのですが 皆様はハンムラビ法典についてどうお考えになられますか? 話が少し飛躍するのですが実際に日本国へこの考え方を適応するということを考えるとまず無理です。 なぜなら、日本国で守らなければならない大前提である「憲法」で拷問行為などが禁じられているので、日本にハンムラビ法典をそのまま転用するのは無理ということです。 しかし、正直な所、私個人としては、人を刺し殺した人は同様に刺し殺される形で裁かれるべきだと思っていますし、バラバラ殺人などの痛ましい事件を見ていると犯人もバラバラにされつつ死刑となれば良いのにと考える時があります。 また裁判員制度などが始まりニュースなどを見たりして調べる機会があったのですが 正直、自分が裁判員になった際に刑を決めることができるかと聞かれたら「No」としか答えられません。 だからこそ、単純明快に目には目を、歯には歯をの考え方で被害者が受けたものをそのまま加害者に返せばいいだけではないのかなと思う時があるのです。 ※ この意見はあくまでも私個人の勝手なものであり、何らかの危険思想や拷問の推奨および現在の日本の法などについて批判しているわけではありません。 ちょっと変で硬い?文章になってしまいましたが、お気軽に意見頂ければ幸いです。

  • 死刑は「正義の実現」のためです。

    本来、死刑に「効果」を求めるのは間違っているのです。 人間の命は平等です。被害者の命を奪った罪に対して死刑以外の 刑罰では「加害者の命>被害者の命」となり公平を欠くのです。 それは正義ではありません。 罪無き人の命を奪った罪は、自らの命で償わせる。 これが原則であり、正義の実現です。 正義が軽視された社会に、理想も調和も秩序も発展もありません。 死刑反対派は、死刑は権力の乱用、人権侵害だと言いますが、 加害者に人権があることは、犯した罪に対する罰を逃れる権利が あるというわけではありません。 日本で死刑になりたくなければ、人を殺さなければいいだけです。 それでもルールを破って人を殺す者の人権は、社会に制約されて 当然です。 死刑賛成派は「正義の実現」の為に、加害者の命を奪う死刑の重責 を、社会全員で背負ってゆく覚悟がありますが、死刑廃止はこの 重責から逃げているのです。 死刑を廃止すれば、もうどんなケースであろうと死刑が出ないの だから、死刑か否かと悩む必要もなく、気楽なことでしょう。 でもそれは、何が正義かという厳しい判断を放棄し、正義を実現 する責任からも逃避することです。 そして死刑反対派は、逃げながら折衷案のつもりで、死刑よりも はるかに人間の尊厳を損なう終身刑などというものを持ち出します。 人間というものに関する無知なるがゆえ、そして臆病で卑怯で 無責任なるがゆえ、より大きな過ちを犯そうとするのです。 今のところ、日本人の85%はそのような妄想的非常識人ではない ので、当分死刑が廃止される気遣いがないのが幸いです この考えで間違っている部分はありますか?

  • 死刑廃止論者の人は自身の家族を殺した者の弁護したりできるのですか?

    最近特に死刑制度で多く取り上げられるのが光市母子殺害事件ですが、この裁判を見ていてある矛盾点を感じました。被告の弁護団は一様に死刑廃止論者のようですが、もし、では自分の家族や友人大切な人が殺されてその加害者の弁護を依頼されたら自らの信念やイデオロギーを貫くために弁護できるはずですよね。でも、人間である以上私は難しいと思います。少なくともあの弁護士の人たちには無理だと思います。(そこまでの信念など無いと思う)  死刑廃止論を否定するつもりはありませんが、もし死刑廃止論を主張するなら、その主張する人または周辺者が凶悪犯罪の被害者になってもそれでも犯人を死刑にしないでくれと言う信念がおありなのですね?と死刑廃止論者の方にお聞きします。日本では仮釈放の無い終身刑などはありません、20-30年すれば大体仮釈放になります。それを踏まえて質問させていただきます。

  • 死刑は執行するべき?それとも廃止するべき?

     最近の事件は凶悪化してきていて、刑法及び少年法の見直しや内容などが 注目されていますが、そんなときよく話題になるのは「死刑」について。  現在日本では死刑執行が認められていますが、それはよくないという 国もあります。特にヨーロッパの国々では、死刑制度を廃止しているところが多いようです。  やはり、殺人事件などで殺された被害者の遺族の方々にとっては、 大切な人を失った悲しみと怒りなどで、加害者を死刑にしてほしいという気持ちになるのは 分かります。ただ、私がよく考えるのは、無期懲役のほうが 加害者にとってはつらいんじゃないかということです。死刑で死ぬのはすぐだし、 最近では全く痛みも感じず、死刑執行されたりするらしいので、なんだか 私としてはもっと、被害者の苦しみを味わって、そこから逃れられない状況 を作ったほうが、自分のしたことについて考えたりできるんじゃないかと思うんですよね。  それに、無期懲役は行いがよければすぐ出られたりするらしいので、 加害者がすぐ監獄の中から出てきたりしたら絶対にいやだし、それだったら むしろ死刑で死んでくれたほうがいいのかと考えてみたり。。。  また、無期懲役とかだと、囚人の生活の基盤は税金なので、囚人のために 税金を大量に払ったりするのも、どこか釈然としないし。 長時間を監獄で過ごしたからといって、その人が必ずしも改善されるとは とうてい考えにくいことで、それだったら、手っ取り早くぱぱっと死刑に しちゃってくれたほうがいいのかな。。。なんて考えてもみるんですが、 結局どっちといわれると・・・ってなってしまうわけです。  と、いうことで、長くなってしまいましたが、私が納得できるような意見を 書き込んでもらえたらうれしいです。よろしくお願いします。

  • 私が死刑制度に賛成する理由は以下の通りです。

    1.刑法で殺人をすれば死刑もあり得ると書かれていて、 それを知っていながら殺人をしたわけだから、死刑に処せら れるのは当然。死刑になりたくなければ殺さなければ良い。 2:身勝手な欲望で被害者の命を奪った加害者に対し死刑 以外では「加害者の命>被害者の命」となり不公平。 誰の命も公平なはず。 人殺しが生かされてるのはきわめて不公平であり、正義が 実現されていない。 3.人を殺したら死刑になるということが、犯罪者に殺人を 躊躇させる(抑止効果と言う)。 一説によると、一人の殺人者を死刑にすることによって、 3~18人の命を助けることができたかもしれないという 調査結果が出ている。 4.人間は誰も、一つ間違えば殺人をするような残忍な性質 を内在している存在であるということを、忘れないための戒め として、実際に刑が宣告され、執行されることがあろうが なかろうが、未来永劫存続させることに意義があると考える。 5.死刑判決を受けると拘置所で毎日、俺の命も今日までか と生きた心地がしない日々を何年も過ごさせられる。 さすがの殺人犯も命の大切さを思い知らされ、被害者に対し て申し訳ないという反省に至る。 加害者の真摯な反省は、被害者遺族の慰めになるし、反省し て人間らしい心を取り戻させてからあの世へ送る方が加害者 の人間の尊厳が守られる(凶暴な動物のように、檻に閉じ込 めて飼い殺しにするより、少し短いとはいえ、人間らしい 人生を終わらせてやれる)。 「ただ生きるな、良く生きよ」(ソクラテス) 「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」(孔子) みなさんは どう思いますか?

  • 人を殺した人間を死刑にする事は矛盾する??

     死刑制度の是非考える 下京、高村薫さん講演    裁判員制度の導入を前に、死刑制度について考える集会が1日、京都市下京区の大谷ホールで開かれた。  作家の高村薫さんは講演で「感情に流されず、公正な第三者として制度の是非を考えることが大切だ」と話した。      大学教員や宗教者たちでつくる実行委員会が主催し、約400人が参加した。      死刑囚が登場する最新作を発表した高村さんは「人を裁くには、常識や普段の感情とは異なる非日常的な  理性が求められる。被害者、加害者どちらの立場でもなく、公正な第三者であることは難しい」と話し、市民  が死刑判決にかかわる可能性もある裁判員制度への不安を語った。      宗教者としてシンポジウムに参加した浄土宗大林寺(宝塚市)の木下達雄住職は、人間が間違いを犯す  不完全な存在であることを強調し、「裁判員制度は、本来的に人ができないことを押し付けている」と訴えた。     山口県光市母子殺害事件で弁護人を務めた安田好弘弁護士は「人を殺した人間を死刑にすることは、  非難したことを自ら行うという矛盾に直面する」と話した。   作家の講演とのことですが、 裁判員制度は公正な第三者として実施される目的を最も公平に達成することが可能なので施行されるのではないのですか? 本来的に人ができないことを押し付けていると言ってもそれは過去からの裁判で人間である裁判官が行ってきたことでありそれを裁判員制度によって行うことと大差ないのでは? 人を殺した人間を死刑にすることは凶悪犯罪者にその重大な罪を死を持って貴重な税金を無駄にかけず償わせることであり、 犯罪者が金や強姦目的でむごたらしく殺害することと法による判決に従いしかも死苦痛の少ない方法で処刑されるのではまったく矛盾が生じないのではありませんか? 逆にハムラビ法典のように被害者と同様の方法で処刑すべきと言う考え方もありお釣りが来るのでは? いろいろ教えてください!

  • 死刑執行 ビビる人とビビらない人

    2004年に奈良市で起きた小1女児の誘拐殺人事件で、殺人などの罪に問われた小林薫死刑囚ら3人の死刑が執行されました。死刑の執行は去年9月以来で、自民党に政権交代後、初めてです。 谷垣 法相いわく 「いずれの事件も誠に身勝手な理由から尊い命を奪った極めて残忍な事案。それぞれの被害者、被害者の遺族の方々にとって無念この上ない事件じゃ!」 死刑が執行されたのは 2008年、茨城県土浦市で起きた連続殺傷事件の金川真大死刑囚(29)。 2002年に起きた名古屋市のスナック経営者殺害事件の加納恵喜(旧姓 武藤)死刑囚(62)。 2004年、奈良市で小学1年生の有山楓ちゃん(当時7)を誘拐し、殺害した罪などに問われた小林薫死刑囚(44)の3人です。 「被害者には本当に申し訳ない思いで一杯デス!」 これは、大阪拘置所で死刑執行を待つ身だった小林死刑囚の直筆の文章で、去年、 【福島瑞穂】参院議員が死刑囚全員に対して実施したアンケートに答えたものです。 「現在の死刑制度には反対です。なぜなら、日本の刑法はハムラビ法典の刑法(目には目を)の復讐法ではないのですから」 と、(アンタが言うかねぇ・・・)現行の死刑制度に反対の考えを示した上で、終身刑の導入には 「よい考え方であると思う」と記入していました。また、死刑執行は絞首刑ではなく「薬物投与」を希望するとしていま した。 アンケートでは、死刑執行に恐怖心をのぞかせた小林死刑囚ですが、一方で、こんな心境も明かしていました。 「被害児の命日に(死刑を)執行してほしい」・・・? 21日、死刑が執行された小林薫死刑囚。1審の死刑判決後、弁護側が行った控訴を、自ら取り下げたりもしており、ややこしいオツムの持ち主であったことをうかがわせます。 法務大臣にも 「楓ちゃんの命日までに死刑にして欲しい」と訴える手紙を出すなど、“死刑への強い願望”を示していた小林死刑囚ですが、しかし、その後は一転し、2008年には、 「女の子に睡眠薬を飲ませたら、風呂に入って溺れただけ」などと主張して再審を請求し、これを裁判所は当たり前ですが、簡単に退けました。 同じく、金川真大死刑囚も、早期の死刑執行を望んでいました。5年前、茨城県土浦市で2人を殺害、7人を負傷させたとして起訴された直後、マス記者に宛てて、こんな手紙を出していました。 「今回の事件を起こした理由は自殺するためデス!自分で自分を殺す勇気がないので、この国の法律を利用して自殺しようとしたのデス!え?罪悪感を感じて いるかって?ハッハッハッ感じてませんよ!」 マス記者が接見に訪れた際には、自分の犯行のわずか3か月後に起きた秋葉原の無差別殺傷事件について、こんなやりとりを交わしています。 記者 「手紙ではアキバは、うらやましいとありましたが、どんなところがうらやましいんですか?」 金川 「(殺害されたのが)7人というのがうらやましい」 そして、死刑についての質問には・・・ 金川 「自分で首をつってやっちゃえば良かった」 記者 「でも、できなかった?」 金川 「痛いのが嫌なんですよ 」 記者 「死刑も痛いと思いますよ。怖くないんですか」 金川 「でも、他人にやってもらった方が楽だし・・・」 小林死刑囚に命を奪われた有山楓ちゃんの父親は、次のようなコメントを発表しました。 「自ら犯した罪を真摯に受け止め、刑に向き合ってくれたと信じたいです。小林死刑囚の命も一つの命であり、今後私たちは楓の命、加害者の命の重さを背負っていかなければなりません」 これにて、3件の話題は完全終了、被害者遺族という人たちも、もはや相手がいない以上、遺族としては何の権限も有しません。終わり、です。 「今はまだ、死刑制度を見直す時期ではない」と谷垣法相は、新しい時代を思わせない、陰気くさい顔で語りました。 まぁ、自民党は、昔から何でも先送りにする奇妙なクセが付いていますので、あの男らしいといえば、らしくも思えます。 裁判所での泣き笑いを無くすための、妙案がありましたら、どなたか教えてください。

  • 日本の刑法ほど

    日本の刑法ほど加害者の人権が被害者のそれより重くなる国は他に無いのと違う? 日本の法律作成の根底に有るのは性善説、つまり人とは元々善なる者でその善なる人が罪を犯したのにはやむを得ない理由若しくは善を悪に変えてしまった生い立ちに問題がある……みたいな発想ですよ。 法律、特に刑法は「性悪説」を元にして作成するべきだと思うがね。 目には目を、歯には歯を……その点、江戸時代の刑法は理にかなってたと思う、「十両盗めば首が飛ぶ」つまり、人のお金を盗んではいけませんよ。って事が庶民にしっかり浸透してたし、親殺し子殺しは極刑と相場が決まってた。 不義密通ですら「人の道に反する悪行」ってな訳で問答無用で手討ちに出来た。 時代が進歩しても人の道、つまり人道に対しての考え方は後退したとしか言いようが無いと思うがね。 神奈川県厚木市の36歳の父親が逮捕されたが、 あの男親は裁判抜きで死刑が妥当とペットのコザクラインコの餌を心配して旅行にも行けないオイラは考えますね。 みなさんは、どう思いますか?

  • 日本人はどうして死刑が好き?

    こんばんは。 実は同じタイトルの質問を この前 社会問題のカテに出したんですが、“好き嫌いの問題ではないと思います。”、“誰も好きで死刑を認めているわけではないでしょう。”、“好き嫌いという解釈は些か強引に思えます。” という反論がありました。確かに、この場合の「好き」は英語で言う enjoyやloveはあまり相応しくないでしょう。(一部そう言う人もおりますが) しかし、死刑に関しては日本では法曹界は慎重なのに比べて 一般庶民は積極的に賛成している風潮は否めないでしょう。 先ず、死刑存置国として中国やイスラム諸国があります。そして ベラルーシを除くすべてのヨーロッパ諸国はすでに死刑を廃止しています。 私の考えでは 日本は 中国やイスラム諸国よりも ヨーロッパ諸国と仲良くなる方がいいと思います。 さて、イスラムの刑には“ an eye for an eye”という考え方があります。これは英語では Qisasと呼ばれています。 http://en.wikipedia.org/wiki/Qisas つまり、これはイスラムに限らず、刑の根源とも言えるかもしれません。ヨーローッパの殆どの国で死刑が廃止されたのも “ an eye for an eye”が野蛮なら “”a life for a life”はもっと野蛮だという矛盾があるかもしれません。日本でも死刑賛成派の人でさえ 「目には目を」の考えには否定的な人が多いかと思います。この場合は、それなりの賠償金で償うのが正しいと思う人が多いかと思います。ところが、日本人の場合、人間にとって視力より大事なはずである 他人の生命を奪った場合、状況は一転し、お金の大好きな日本人が賠償金を蹴ってまで 加害者の死刑を望むことと思いますが、これは なぜか、次の英文が成り立つと思います。 Why do the Japanese prefer the death penalty (to the financial compensation)? この文はどう訳したらいいと思いますか? 質問でも書いたように 日本語の「好き」はどうも この際 語弊があるようなので・・・・・・^^