音韻法則に例外あり?

このQ&Aのポイント
  • 音韻法則には例外が存在するのか疑問に感じています。
  • 接頭辞+語幹+接尾辞の関係で、一部の接頭辞が変化する現象に気づきましたが、最近になってその法則が例外となることに気が付きました。
  • 特に接頭辞UNについては法則が適用されないことがあり、その理由や現象について知りたいです。
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音韻法則に例外(あり)?

受験時代に 接頭辞+語幹+接尾辞 の関係のなかで  接頭辞 CON、IN、などの後に P、B、M が来ると各々COM、IM、などに変化する事に気が付き、我流に”PBM法則”となずけて、一人悦に入っていました。しかるに、その後”この法則性”は、あまりにも著名な事項と知り、がっかりしました。 しかるに、しかるに、ごくごく最近になって”PBM法則”が、 接頭辞 UN については成立しない事に気が付き、驚き^2の状態です。 COMfortableが例外(逆例外)STRESSのみが原因とは思えません。 音韻法則に例外なし・例外のない規則なし を前提に、 UNが法則適用不可なる(歴史的背景)(なんらかの)理由、 UNだけに起こる現象なのか。 教えて下さるようおねがいします。 当方の知識は INpatientとIMpatientの並存、INputの理由は既知です。音韻変化がPBM+Rなどに起こる事も既知です。歴史言語学・印欧祖語・大母音推移・グリムの法則・GREEK(H)対応LATIN(S)法則・ケントム系サテム系/日産系トヨタ系・ANTEPAEULIMAの法則  イェスペルセン・ソシュール・チョムスキーなどは齧っています。 ただ、全て遠い過去の記憶であり、今KEYを叩きながら必死にTERMを呼び戻しているだけで、内容までは思い出せません。

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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • trgovec
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回答No.2

com- は com- が本来の形のようです(< cum)。 comfort は後期ラテン語 confortare フランス語 conforter の形をしておりこの方が発音の理に叶っています。何ゆえ英語で m に変わったのか分かりませんが、この単語は発音が /k∧m/ でアクセントありと特殊ですね。 「中に」の意味の in は変わりませんが、ラテン語~フランス語を経由してきた en は em に変化します。また動詞を作る en も em になります。 英語系の接頭辞には子音の交替が必要となるものはないようです。

kkkk2222
質問者

お礼

感謝^2です。 訊きたい事、沢山ありすぎて、きりがないので質問はSTOPにします。 あとは、独り言と読み流してください。 貴殿の文面から、白水社の中期フランス語? のような物を買った記憶が蘇ってきました。多分、ラテン語が英語にフランス経由で(ノルマンディなんとか)輸入された故に当時は読みたかったんでしょう。そういえば、ラテン語の中に NOT ONLYーBUT ALSOの形があって驚いた記憶も。 小林”ひでお”、って3人いますが。ソシュールの関係上、解説書をかいた”ひでお”が・・・。ソシュール、ベル、ゲーデルが20世紀の・・・ この3にんが・・・。今後も別スレッドで、いろいろ教えて下さい。

その他の回答 (1)

  • trgovec
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回答No.1

con-, in-, ad-, + p, m, r → compact, immortal, arrive このような変化は英語に借入される以前のラテン語で起きたものです。un- は純然たる英語の接頭辞で子音の変化は起こしません。un- はラテン語など外来系の語にも付きいわゆる hybrid を形成することがありますが子音変化は起こしません。 unpleasant, unpardonable etc un- は生産的であり第二アクセントをもつなど、いまだに「生きた」ものでその意味を生き生きと感じられるため、原形を保ちやすいと考えられます。 変わった例では afford があります。 geforthian → yforth → aforth / aford → afford この ge → a の接頭辞はもはや英語では意味をなさないように感じられたためラテン語系の ad+ford と誤解され afford と綴られるようになったようです。

kkkk2222
質問者

お礼

素早いRES感謝です。 SCANした、だけですが、かなりの情報がありそうです。 熟読させて頂きます。 hybrid 検索しました。 接頭辞ではUNだけでせうか? COMfortableは何故?

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