• 締切済み

傷害致死罪における注意義務とは具体的にどういうことですか

 はるかな昔勉強していたころ、とうとうわからずじまいだった問題です。  傷害致死罪(刑204条)は基本犯である傷害罪と結果犯である過失致死罪とが結合する結果的加重犯だと言われています。傷害罪も故意犯と過失犯を含むと言われていますが、ここでは故意犯としての傷害罪を前提とします。  結果的加重犯については、責任主義の立場から予期しない結果について過失を要するものとされ、その意味で結果的加重犯は故意犯と過失犯の複合体といわれています。そして過失犯の中核的要素は注意義務であり、その内容は結果予見義務と結果回避義務に区別され、結果予見義務とは、「違法な結果の発生を認識・予見すべき」義務、結果回避義務とは、「予見しえた結果を回避するために必要な作為・不作為をなすべき」義務を言うといわれています(有斐閣「法律学小辞典」)(昔の通説。現在でも通説かな?)。  以上の立場に立ち、具体的な例をあげてこの定義を当てはめてみます。  AがBとの喧嘩闘争中、殺意なくただBを負傷させる意図を持ってナイフでBの太ももを刺したところ、運悪く太い動脈を傷つけてしまい、同人を失血死させるに至ったというケース。  このケースで、Aの負う結果予見義務と結果回避義務とは具体的にどういうものなのでしょうか。  私は恥ずかしながら次のように考えました。 Aが認識・予見義務とは次の事実を認識・予見することだ。 ・Bの太ももには太い動脈があること ・ナイフでBの太ももを刺せばその動脈を傷つける可能性があること ・その結果、Bを失血死させる可能性があること そしてAの結果回避義務とは、Bの太ももをねらったとしても絶対に動脈を傷つけることのないようにナイフを突き刺すことだ。 しかし、ごく普通の人間にとってこれらの義務を果たすことはとうてい不可能だ。 つまり、人体の構造を知らない者が、動脈の正確な位置を知ることは不可能であり、また例えこれを知っていたとしてもその動脈を傷つけないようにナイフを自由に操ることは至難の技ではないか。これらの注意義務を尽くすには、人たるもの、長い一生のうちにはナイフを振りまわすような喧嘩をする可能性が全くないとはいえないのだから、普段からおさおさ怠りなく、人体の構造に関する正確な知識を得、かつ不幸にもナイフで人の太ももを刺すような事態に立ち至ったとしても、動脈という急所を外して刺すことができるようにナイフの操作に習熟しておかなければならないことになる。 そうすると昔の通説は、ごく普通の人間にとうてい履行不可能な注意義務を要求して人を哀れな犯罪人に仕立て上げようとしているのではないのか? これは元々拠って立つ責任主義に反するのではないか。  このように考えると、詳細は忘れましたが、過失犯の本質論、ひいては犯罪の本質論に関する通説の立場(ちなみに私が読んでいた団藤・大塚両先生の教科書の立場)が現実的な考え方ではないことになってしまいます。  これは断じてオカシイ、きっと先にあげた具体的な注意義務の内容の立て方がマズイに違いない、とは思いましたが、これに代わるうまい考えは出てきませんでした。  どなたか、ご教示ください。よろしくお願いします。

みんなの回答

  • utama
  • ベストアンサー率59% (977/1638)
回答No.5

実行行為のくだりは確かに不適切かもしれませんね。申し訳ありません。 > 注意義務のうち結果回避義務の内容について、あなたは「ナイフを突き刺さない」ことだとされ、nep0707さんもあなたと同様に「『刺す』という行為をしな」いことだ、とされましたが、ナイフを突き刺すという行為を開始した段階でこのような回避のための不作為“行動”はもはや不可能でしょう(「覆水盆に返らず」)。 ナイフを突き刺すという基本犯の犯罪行為を開始して始めて注意義務が生じるわけではありません。死という加重結果を生じさせてはならないという注意義務は、基本犯の犯罪行為を開始する前から存在しています。ご質問者が引用された「基本犯を行なうに際し重い結果が発生しないようにする客観的注意義務がある」というのはまさにそういうことで、基本犯の犯罪行為を開始してからはじめて注意義務が生じるという意味ではないでしょう。 本件に即して言えば、基本犯の犯罪行為に着手しようとしている時点で、「太ももを刺せば死ぬ可能性があること」を認識すべきという予見義務と、太ももを刺ささなければ結果を回避できたのですから「太ももを刺さない」という結果回避義務からなる注意義務が存在します。 その注意義務に反して、基本犯の犯罪行為として太ももを刺したことが、加重結果に対する過失です。 また、結果回避の方法は一つではなく、例えば、仮に太ももを刺すにしても、輸血用の血液や緊急医療チームを用意しておいて死という結果が生じないように準備しておくという手段も考えられます。基本犯の犯罪行為を行う前に準備しておけば、加重結果を防止し、また、100%防止できないにしてもその可能性を十分小さくすることは可能です。 このように、加重結果が生じないような手段を選択するとか、事前に加重結果を回避するための準備をするとか、そういった配慮なしに漫然と基本犯の行為を行ったことも過失といえます。加重結果に対する結果回避義務違反の行為を、基本犯の犯罪行為に着手したあとの行為のみに限定して考える必要はありません。

gunfighter
質問者

お礼

たびたびのご回答ありがとうございます。 ANo.5に対する補足質問にはご回答いただけないようですね。 この質問を投稿してから4週間経過しましたが、あなたとの議論も膠着状態に陥っているうえ、あなた以外の方のご回答も今後期待できないと思います。 そこでこの辺で回答を締め切らせていただきたいと思います。 熱心なお付き合いありがとうございました。

gunfighter
質問者

補足

 熱心なご回答にもかかわらず返答が非常に遅くなったことをお詫び申し上げます。残念ながら議論がかみ合っていません。 1 「死という加重結果を生じさせてはならないという注意義務は、基本犯の犯罪行為を開始する前から存在し…」、「…基本犯の犯罪行為を開始してからはじめて注意義務が生じるという意味ではない…」とされる件について あなたが引用された部分は、注意義務の存在時期や発生時期が問題になるとしたものではなく、次のことを述べたつもりです。  刺突行為と同時に致死の結果を回避すべき義務の履行が求められているのに、これを怠って行った刺突行為が傷害致死罪の実行行為であるが、刺突行為に及んだ以上、「ナイフを突き刺さない」という不作為を内容とする回避義務は履行不能だから、あなたの措定は妥当でない。  失礼ながら、規範の意味と結果的加重犯の構造についてのあなたの理解にあいまいさがあると推測しています。 (1) 「死という加重結果を生じさせてはならないという注意義務は、基本犯の犯罪行為を開始する前から存在してい」るとは、法規範と社会規範とを区別なさったうえでおっしゃるのでしょうか?   あなたの言われる注意義務は、社会倫理規範に属するものであって、法規範ではあり得ません。犯罪行為開始前の段階では法規範は機能しません(大塚仁著「犯罪論の基本問題」(有斐閣)p.22~「犯罪と社会倫理」)。 (ちなみに語義上、「存在」と「発生」とはまったく異なります) (2) あなたの回避義務の措定の仕方は、時系列を因果的に遡り、致死という結果を生じさせるに至った原因行為をしないこととされるもののようです。それにならうと、例えば、喧嘩をしない、途中でやめる、ナイフを使わない、持たないなどとあらゆる段階を捉えて注意義務の内容とすることが可能になります。しかも因果的時系列は無限に遡ることができます。これは不合理ではありませんか?  (3) 橋本先生の記述「基本犯を行なうに際し」の意味を「基本犯の犯罪行為を開始する前」と解釈される根拠は何ですか。  前回での引用文において「同時に」とも記述されています。すなわち「に際し」=「同時に」と読むべきではありませんか? (4) 結果的加重犯が「特殊の複合」と言われるとき、「単なる故意犯」、「単なる過失犯」や両者の「競合」あるいは「結合犯」とどのような違いがあるとお考えですか。 (5) 結果的加重犯の複合構造を説く大塚先生が、結果的加重犯の共同正犯に関する論文の中で次のように述べていらっしゃいます。 「…人を傷害する者が…怪我をさせるだけで、殺しては困るのだと考えて行動するときには、むろん、被害者を負傷させるだけにとどめるように相当な配慮をしなければなりません…」(大塚同書p.313)。結果的加重犯における実行行為とは、「注意義務に違反しつつ行う故意行為」あるいは「故意を持ちつつ行う過失行為」と表現できるのではないでしょうか。敢えて注意義務の「存在」時期を言えば、実行行為と同時でなければならないということになります。  2 「…結果回避の方法は一つではなく…」の件について  過失犯や結果的加重犯の規定において注意義務の内容は示されておらず、その内容は一義的には定まっていません。その具体的内容は、裁判官が適用に当たって明らかにすることになります(開かれた、あるいは補充を必要とする構成要件)(大塚同書p.67~)。従って、注意義務の具体的内容は、個々の事件ごとに異なり、その意味で、「結果回避の方法は、一つでは」ありません。しかし、個々の事件について注意義務の内容が裁判官によって補充されたときは、それが唯一の判断基準になり、その意味で一義的に定められます。「輸血用の血液や…云々」という手段をとることが結果回避義務の内容として一般的に妥当するものではありません。 (1) あなたが、このような例をあげられたのは、履行可能な回避義務が犯罪行為の前に存在することを示されたかったからでしょう。  しかし、回避義務が犯罪行為の前に存在すると言うことが無意味であることは上述のとおりです。  また、本件のような喧嘩においてA にそのような周到な準備をすることが期待できるでしょうか。とくに大抵そうであるように喧嘩が偶発的なものであったり、また初めのうちはナイフを使うことなど考えていなかったりした場合、そのような準備を求めることは酷しょう。すなわち、本件の回避義務として救命措置の準備を求めることは妥当ではありません。 (2) 回避義務として輸血や医療チームの用意という他人の手を借りる「配慮」が可能であるならば、犯人自身に傷害行為を行いつつも致死の結果を生じさせないよう「配慮」させることも可能でしょう。すなわち、最初の質問で述べたように、刺すにしても手加減を求めるべきではないでしょうか。

  • utama
  • ベストアンサー率59% (977/1638)
回答No.4

>故意犯の面で認識・認容すべき事実と過失犯の面で認識・認容すべきであった事実とは具体的に何々かということを知りたいのです。 故意犯の面 「太ももを刺せば、怪我をするという事実」を認識認容していた。 過失犯の面 「太ももを刺せば、死ぬ可能性があるという事実」を認識すべきであった。 「太ももを刺す」という実行行為から軽い結果(傷害)が発生することは行為者は認識し認容していたのですから当然故意犯となります。 しかし、同じ「太ももを刺す」という実行行為から重い結果が発生することは認識していなかったか、弱く認識していても認容していなかったのだから故意は成立せず、過失犯としての責任を問われるべきということになります。 橋本先生の論文にもあるとおり、「基本犯の行為が同時に重い結果との関係で過失犯の行為としての評価を受けるという表裏一体的な関係で存在している」のですから、実行行為は、故意犯の面から見ても過失犯の面から見ても「太ももを刺す」という同一の行為として捕らえるべきです。 すなわち「太ももを刺す」行為の結果として犯人が認識・認容していたことが故意犯を基礎付け、犯人は認識していなかったが認識すべきであったことが過失犯を基礎付けるということです。

gunfighter
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。   >故意犯の面 「太ももを刺せば、怪我をするという事実」を認識認容していた。 過失犯の面 「太ももを刺せば、死ぬ可能性があるという事実」を認識すべきであった。 認識認容し、または認識すべきであった事実とは、構成要件の客観的要素たる事実ですね。 あなたがあげられた事実は構成要件要素たる事実ですか。 今一度、205条の客観的構成要件要素を分析し、本件ケースに当てはめる作業をなさったうえでご回答願えないでしょうか。 橋本先生の論文を引用してあなたが述べていらっしゃる部分は、私の質問の当然の前提としています。私の投稿をごらんになればお分かりになると思います。 あなたが、「実行行為」は「『太ももを刺す』という同一の行為」だとおっしゃる部分は、誤解を招きかねないのではないでしょうか。 「実行行為」とは構成要件的評価を経た「行為」のことを指しますから。 橋本先生が「同一の行為」とされるのは、「実行行為」ではなく、私の言う「外形上客観的に同一のものと認められる犯罪的事象」たる行為、すなわち構成要件的評価を加える前の、いわば社会的存在としての行為、さらに換言すれば、“生“の事実としての行為です。  私の質問との関連で、橋本先生の論文中、注目していただきたい部分は、上記のところではなく、「…重い結果が随伴することが高度の危険性をもって類型的に予測されるような基本犯を行なう者は、同時に、予想される重い結果が発生しないようにする客観的注意義務を課せられていると解されるべきである」もしくは「…結果的加重犯は、重い結果が発生する危険が内在している基本犯を行なうに際し重い結果が発生しないようにする客観的注意義務がある」とされるところです。  注意義務のうち結果回避義務の内容について、あなたは「ナイフを突き刺さない」ことだとされ、nep0707さんもあなたと同様に「『刺す』という行為をしな」いことだ、とされましたが、ナイフを突き刺すという行為を開始した段階でこのような回避のための不作為“行動”はもはや不可能でしょう(「覆水盆に返らず」)。 本件ケースにおいて「客観的注意義務」とは、具体的に何でしょうか。予見義務と回避義務に分けて当てはめていただいてその結果をご回答いただきたいのです。予見可能性と回避可能性の点もご検討いただいたうえでさらにこれらと区別して各義務の内容を特定していただければ私にも理解しやすいと思いますのでよろしくお願いいたします。 なお、私が考えたところは、当初の質問文の中に記したとおりです。

  • utama
  • ベストアンサー率59% (977/1638)
回答No.3

過失行為の時に実際に結果を予見していることは過失犯の成立要件ではありません。というより、むしろ、行為の時には予見していないのが典型的な過失犯であるから、予見可能性、つまり、行為のときに予見可能であったかが議論されるのです。 これと予見義務はまったく別の概念です。今回のケースでは忘れた方がいいでしょう。具体的には、公害などで、行為者の当時の知識では健康被害が発生するかどうかは予見不可能であったというような場合に、健康被害が発生しないか予見するために、あらかじめ研究調査するような義務のことです。 本件では、Aが、普通の人間であれば、経験知識によって、No.2さんが言うところの「人をナイフで刺せば、刺しどころが悪ければ失血死するかもしれない」ということは予見可能であったと考えられます。 もちろん、予見可能性というのは、行為者の行為当時の知識経験などによって個別具体的に判断されるのもですから、一般人が予見可能であったということから直ちにAの予見可能性が認められるわけではありません。しかし、本件では、予見可能でなかったという主張が認められるとは思えません。 その上で、太い動脈があってそれを傷つける可能性があるなど、そういった細かいレベルまで予見可能である必要はありません。過失における予見可能性とは、自分の行為が、結果を引き起こす可能性があるということをある程度理論的に予見できればいいのであって、科学的に厳密な因果を全て予見する必要はありません。(予見可能性の程度については、生駒トンネル火災事件・最決平12・12・20 などが参考になります) 動脈の存在などまで予見可能でなければならないとすると、過失犯の処罰範囲が不当に狭くなっていまいます。また、失血死というのも「血液が大量に流出すると、脳に酸素が運ばれなくなり、脳機能が停止する」ということですが、刺したという行為の先にある因果の流れを厳密に考えていくと、きりがありません。 「Aの規範意識には、不注意によって死という結果を回避せよという規範までは含まれてはいませんでした」 ここが良く分かりません。例えば「人を殺してはならない」とか、「不注意によって人を死なせてはならない」という規範意識は、一般人なら(私も、ご質問者も)持っているのではないでしょうか? 「よってその結果を回避すべき作為または不作為という結果回避行為に出ることなく、予期していた負傷以上の重い結果を生じさせたわけです。」 これが、まさしく、過失犯を基礎付けると思います。 予見可能であったにもかかわらず、予見をせず、その結果、結果回避をせずに、予期していた以上の思い結果が生じたのであるから、過失の責任を取るべきということになります。

gunfighter
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 私は、予見可能性そのものについてお尋ねしているのではありません。また予見義務の対象となるべき事実の中に具体的な因果の流れを含むか否かを中心としてお尋ねしているわけでもありません。 次のURLをご参照ください。 http://hda1.lib.hit-u.ac.jp/cgi-bin/retrieve/sr_bookview.cgi/AZ00008176/Front/link/ronso1010100190.pdf 橋本正博 一橋大学法学部教授の「結果的加重犯の共同正犯―『行為支配論』の観点から― 」という論文です。その冒頭に近い部分に結果的加重犯の構造について要領よくまとめられています。 Utamaさんが「ここが良く分かりません」といわれる私の記述「Aの規範意識には、不注意によって死という結果を回避せよという規範までは含まれてはいませんでした」の部分もお分かりいただけるでしょう。 私の質問の意図をもう一度申します。 結果的加重犯が故意犯と過失犯の複合体といわれるとき、行為者の主観面においては故意犯と過失犯両方の要素が同時に存在することが求められることになる。それを私のあげたケースに当てはめると具体的にはどう記述されるべきか。 故意犯の面で認識・認容すべき事実と過失犯の面で認識・認容すべきであった事実とは具体的に何々かということを知りたいのです。 重ねて申し上げますが、先にあげた橋本先生の記述の立場でのご回答をお願いいたします。

  • nep0707
  • ベストアンサー率39% (902/2308)
回答No.2

>AがBとの喧嘩闘争中、殺意なくただBを負傷させる意図を持ってナイフでBの太ももを刺したところ、 >運悪く太い動脈を傷つけてしまい、同人を失血死させるに至ったというケース。 >このケースで、Aの負う結果予見義務と結果回避義務とは具体的にどういうものなのでしょうか。 「人をナイフで刺せば、刺しどころが悪ければ失血死するかもしれない」というのは、 通常の判断力において十分予見可能じゃないでしょうか。 そして、結果を回避するには「刺す」という行為をしなければいいのでしょう。 (質問者さんのように細かく考える必要はないと思います) 「相手の胸倉をつかんだら、相手はそのようなショックに弱い体質で、ショック死してしまった」 なんてケースだと、より興味深いかも…。

gunfighter
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 まず、私の質問の補足についてANo.1回答「補足」欄をご覧くださいますようお願いいたします。 >「人をナイフで刺せば、刺しどころが悪ければ失血死するかもしれない」というのは、通常の判断力において十分予見可能じゃないでしょうか。  予見可能性があるからこそ、予見義務があるわけです。予見可能性と予見義務は区別すべきではないでしょうか。予見可能性を注意義務の独立の内容とすべきかどうかという争いもあったかと思います。  予見可能性の判断基準をあなたは平均的通常人に求められるわけですね。  そのようなあなたの立場で、このケースにおいてAの予見義務の具体的内容をどのように表現されますか。 >そして、結果を回避するには「刺す」という行為をしなければいいのでしょう。 この点についての私のコメントはANo.1回答「補足」欄をご参照ください。 >(質問者さんのように細かく考える必要はないと思います) 必要なしと思われるのは、たぶん、このケースにおいては傷害致死罪成立という結論が明白だから、分析的に考えることが思考経済上ムダだと感じられるからでしょう。 しかし、簡単に結論が出るまでの過程をできるだけ細かく分析することによって結果的加重犯ないし過失犯の本質が理解できるようになるのではないでしょうか。 私の意図を読み取っていただいてAの注意義務の具体的内容をご指摘いただけるようご再考願えませんか。 >「相手の胸倉をつかんだら、相手はそのようなショックに弱い体質で、ショック死してしまった」 なんてケースだと、より興味深いかも…。  確かに興味深いケースですね。  ただこのケースは私のあげたものより論点が多く、かつその中心もむしろ各論の範囲に属し、私の疑問を端的に考えるのにはふさわしくないのではないでしょうか。  「胸ぐらをつかむ」というおそらくは着衣に対する攻撃が果たして暴行罪ないし傷害罪の実行行為と評価できるか(定型的に見て着衣に対する攻撃が、負傷または死という結果には結びつきませんネ)、因果関係の有無の判断基準いかん、主観的要素の具体的認定いかん、死の結果をどう評価するか(過失致死、傷害致死、さらに場合わけによっては殺人罪成立の可能性までも?)といったところが論点になるのでしょうか。冒頭の問題提起から大いに苦労させられそうですね。

  • utama
  • ベストアンサー率59% (977/1638)
回答No.1

確かに、「Bの太ももをねらったとしても絶対に動脈を傷つけることのないようにナイフを突き刺す」という義務を果たすのは難しいでしょうね。 しかし、ナイフを突き刺すという行為をすると、そのときうまくコントロールできず動脈を傷つけ、結果として死ぬ可能性があることを認識しているのであれば、死という結果を回避するためには、はじめから刺さなければいいのではないでしょうか。 つまり、結果回避義務の内容は「ナイフを突き刺さない」ということで、これは不可能な義務ではありません。

gunfighter
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 私がこのケースをあげたのは、過失犯の構造が故意犯と対比する形で具体的に理解できるのではないかと考えらたからです。構成要件的には、Aの行為が傷害致死にあたることは明白です。しかしAの行為の主観面を抽象的に「殺意」または「傷害の故意」と表現するのではなく、具体的事実に即して表現すると、両者を明確に区別して過失犯と故意犯との違いを明らかにすることは非常に困難だと思いました。このケースで殺意をわざと除外したのは、傷害致死における注意義務違反の内容さえ具体的に表現できれば殺人の故意の具体的な表現も自ずとみえてくると考えたからです。 なお、次のような論理を前提としています。 故意犯と過失犯の実行行為を同一の構造をもつものとして考える。 外形上客観的に同一のものと認められる犯罪的事象が生じた場合に、それが故意犯または過失犯と別異に評価されるとしてもその基準たる評価規範は同一である。 故意犯・過失犯の評価を分かつ基準はその規範に反する程度の差異に求められる。 その差異がどこに求められるべきかといえば、客観的外形的な行為ないし結果が同一である以上、行為者の主観面しかあり得ない。 故意犯と過失犯における主観面の違いは同一の事実の認識・認容の有無である。 同一の具体的ケースにおいて同一の事実とは具体的には何か、そして認識・認容の有無は具体的にはどのように表現されるべきなのか(注意義務をめぐる学説によっても異なるはず)。 >…結果として死ぬ可能性があることを認識しているのであれば、…   このケースでは、この認識を欠いていたのです。だから、予見義務違反があるわけです。予見義務の具体的内容として私が設定したところは適切でしょうか。あなたはどのように設定されますか。 >…死という結果を回避するためには、はじめから刺さなければいい… >…結果回避義務の内容は…「ナイフを突き刺さない」ということ…  失血死という結果が発生する前に身体の損傷という過程があります。しかもこの点については認識・認容がありますから当然「ナイフを突き刺して人の身体を傷つけることなかれ」という規範については意識があります。しかし、Aの規範意識には、不注意によって死という結果を回避せよという規範までは含まれてはいませんでした。よってその結果を回避すべき作為または不作為という結果回避行為に出ることなく、予期していた負傷以上の重い結果を生じさせたわけです。身体を傷つけることなかれという規範を意識しながら敢えてこれに反しつつ、死という結果を回避せよという規範意識をもつには、どういった事実を認識すべきだったのでしょうか。分析的なご回答をお願いしたいのです。

関連するQ&A