• 締切済み

キリスト教で・・・

審判預言と救済預言というものがありますが、この2つにはどういう違いがあるのでしょうか??キリスト予言というものもよく分かりません。聖書でいえば何処に対応しているのでしょうか??ネットで色々と調べたのですが中々ハッキリした回答が出てこなくて;;

みんなの回答

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.3

No.1です。 訂正です。 ユピテル。 こいつ何者と思っていまいたが、Jupiter →ゼウスのことでした。 芥川龍之介の小説 【奉教人の死】で主人公が無実の罪を着せられても一切申し開きせず、人に寄らず神『でうす』にのみ救いを求めて、この世の地獄 非情の炎の中で焼け死にました。 (原作者は芥川龍之介じゃありませんが) で、さらに補足すると、カッバーラでは主柱(均衡)の両脇にも神がいて、慈悲と峻厳とされているようです。 エジプトの死者の書の天秤と同じ感じです。 最後の審判の概念もここからきており、こっちの場合、イエスが慈悲の柱の位置を取るとしているようです。 「神の右に立っているのが見えた」と言われているので。 で、ステファノは最後の審判を受けたとき、イエスが神の右に立っているのを目撃したとなっています。 審判は下され、ステファノは宗教的にもっとも重い罪を犯したので石打ちの刑に処された となっています。 その処刑に立ち会ったのがサウロ、後に今のキリスト教の基礎部分を作った人です。 (律法の撤廃をユダヤ教に持ちこもうとして、破門された人。) しかし、私はあくまでステファノもサウロも処刑されたのではなく、破門され追放されたのだと思います。 ユダヤ人は自動的に生まれながらにユダヤ教徒だと思うのですが、宗教心が無くなった人を、足がなえた人 とか 盲目の人 という比喩で言っていたと思います。 その人たちに信仰心を取り戻させる→復活。 復活できなかった人は、永久に破門・追放。 だったと思います。 ステファノの意思が固いことを確認したので、イエスは最後の審判の時、永久に帰ってこれない処分に同意したのだと思います。 慈悲といえば慈悲。  確かに信仰心が無い人は信仰心がある人から見れば死人かもしれません。 が、ステファノはユダヤ教の戒律を守らないということと引き換えに、自由を得たとも思えます。 迷った羊を探し出して群れに戻しても、また脱走するのなら、それはそれとして、自由まで奪うことはしなかったのではないかと思います。 永遠に連れ戻して律法という囲いの中に入れて保護するのが親切なのかもしれませんが。 エデンを偽の牧場だと見抜いた時点から人間は不幸になったのか。 エデンを楽園だと思い込んでいた時点で、既に不幸はあったわけで。 「また来る。」  しつこいですよね。。。 ということで、ある程度でもうお誘いしないという制限が最後の審判だったんじゃないかと。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

審判預言と救済預言は、キリスト教というよりかユダヤ教(旧約聖書の部分)に多くありますね。 ユダヤ教では、神は罰を与える一方、救済するという2面性を持った存在なんですね。だから、神の罰がくだるという預言者がでてくるのですね。一方、時系列的に救いがくるという預言者も出てきますね。その繰り返しです。さかのぼれば、イスラエルの民がエジプトに逃れるその後モーゼが現れてエジプトを脱出するというのは、審判預言と救済預言の組み合わせでできているのですね。イエスは救世主ですから、そのまえにエレミヤなどが審判預言や救済預言しています。イエスさま自身は、あまりそのようなことはいっていません。ただ弟子の一人がイエスに「この世の終わりはあるんですか」と聞いたとき、「未来にはここにある建物(エルサレムのこと)はひとつもたっていない」程度のことはいってますね。でもこれは審判預言にはあたらないと思います。キリスト教としての審判預言と救済預言は、ヨハネの黙示録(預言書)にあることがらを指していると思われますね。 審判は、最後の審判という意味で、ヨハネの黙示録では選ばれた一部を除いて大異変によりほとんどが死に絶える、そのときの審判ですね。その後1000年王国ができるのですが、そのあたりを救済予言といっているのではないかと思いますね。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.1

えっとですね。 あくまで私なりの理解です。 どうして明確な答えを誰も出せないのか に対する回答になってしまいますが。。。。 預言と予言の違い わかりますよね。 神から授かった言葉が預言で、十戒は神が直に自分の指で書き、その石版をモーセがもらったことになっています。 予言とは、、、、これがややこしいのですが、私の記憶が正しければ、古代ヘブル語には時制が無かったらしいです。 神の概念と一緒で、過去・現在・未来が同じ言葉。 従って過去のことが語られているのか、神の計画により将来こうすると言葉を預言者が神から授かったのかわからないんです。 バビロン捕囚で聖職者や権力者はバビロンに留め置かれることとなり、現地で話されていた言葉を日常会話として使うようになり、聖なる書は古代ヘブライ語を使っていたらしいです。 古代ヘブライ語は母音がありませんので、そのままでは発音できません。 かなり聖書に精通しないと母音がつけられないらしい。 このようにヘブライ語とアラム語は住み分けられていた。 解放後、ヘブライ語を忘れてしまったのか、かなり苦労したらしく、これはこういう意味だ? いいや こういう意味だ など派閥ができたみたいです。 その中には古い文書を読んで、母音をつけて、「これは神の計画が書かれた箇所だ  これから起こる最後の審判のことだ」と解釈した人たちもいたようです。 中にはイザヤ書から創作してメシア つまりイエス物語を作ってしまった人もいたようです。 (ギリシャ語とヘブル語では概念が違うのですけど、作った人はそれを知らなかったのか?) ヨハネの黙示録。  最後の審判でアルマゲドンがやってくる未来の予言だと解釈する人もいます。 このヨハネの黙示録は異端として扱われてきて、随分後になって聖典に加えられ、今ではキリスト教が布教する上での一番の武器になっています。 「信じるものは救われる」とありますので、では、キリスト教を信じなければ最後の審判により地獄に落とされるのか? ヨハネの黙示録を神の未来の計画とせず、歴史が書かれていると解釈した人がいました。 つまりこれからアルマゲドンが起こるのではなくて、、、、秘密めいた言葉にキリスト教の初期段階が記録として隠されている と。 (このアルマゲドンってのも実はメキドの丘のことで、神の人間に対する最後の審判というものじゃあない) あら。。。。。。。 キリスト。 これは確かギリシャ語で救世主という意味があったと思います。 ヘブル語のメシアは油を注がれた者という意味で、油を注がれた人ってどんな人かというと一般人とは区別された つまり 聖別された人のこと。 ダビデなどのし上がって王になったので、神に祝福されたと解釈され、従ってメシアとされたと思うんです。 ダビデは前の王を倒して王なったようです。 初代王の名はサウル。この人も油を注がれた王 メシアです。 どうも地上のメシアは血なまぐさいです。 さて、ギリシャ語で救世主という意味を持つ語はキリストです。 救世主 キリスト ユピテル。 馴染み深い名前で言うと ジュピターのこと。 忍耐強いユダヤ人なのか、自分たちの宗教を踏みにじられないと民族の生死をかけた反乱を起こさないみたいです。 ローマのハドリアヌスがユダヤ人の神殿跡地にユピテル神殿を建てようとしたとき、今まで忍耐強かったユダヤ民族が蜂起した。 これが、バル・コクバの乱。 さて、ハドリアヌスが神として奉ろうとした救世主ユピテルって何者? 調査不足なのですが神格化され、神とされた男らしいです。 (もっともその当時は皇帝は神の代理人という概念があり、一番の権力者は神の子と捕らえられていたようなので、これが後のキリスト教の神の子の概念に加わったみたいです) ちなみの救世主 ユピテルの誕生日は12月25日 日曜が彼の日らしい。 恐らく事実は違うでしょうけど、神の子 太陽神とされた結果、12月25日 安息日 日曜 になったのではないかと。 ちなみにユダヤ教では安息日は確か金曜の夕方から土曜の夕方までだったと思います。 ん? 12月25日が誕生で 安息日が日曜ってどっかの宗教がそうでしたね。 キリスト教です。 12月25日が誕生日で安息日が日曜で太陽神とされたのがイエス。 ローマを守る神ユピテルと習合された結果なんですね。 おまけにデウスとも習合しているので三位一体。  3神が合体してつぎはぎされ一神とされた結果がイエス、、、、、なんです。 でもミトラも習合されているので、こうなってくると多神教。 ヨハネの黙示録に出てくるような恐ろしい裁きと救いの元ソースは、エジプトの神秘学 死者の書。 http://www.osoushiki-plaza.com/anoyo/takai/takai4.html なんでエジプトの神秘学がパレスチナに伝わったのかは、説を聞いたことがあります。 で、調べていくと最後の審判の時、死者もよみがえり最後の捌きを受けるっていう意味、どうやら私たちが感じ取る概念と違うようなんです。 死者とは、信者でありながら宗教心がなくなった人のこと。 足がなえた人、 盲目の人 なども信仰心をなくした人のたとえらしいです。 従ってキリスト教を熱心にやれば、不自由な手足やなおり目が見えるようになる とはならない。 もともとユダヤ教における概念らしいです。 でもなんでそういう風な言い回しになったのか。 古代ヘブル語を訳すとき、メシアをキリストと違う意味なのにやってしまったし、若い女を処女の意味を持つギリシャ語にしてしまって余計な物議をかもし出すことになったし、もっと他にも直訳により、原義とは違う意味に置き換えられてしまった言葉とかあります。 その直訳で本来の意味を伝えていない書物が、、、、なわけです。 だから審判とか救済とか言われてもよくわからないわけです。 翻訳ミスしまくっている。 翻訳ミスを理解したといっても、原義とは程遠い。 何を理解したんだか となってしまう。 ということで、はっきりした回答が見つからない本当の理由がわかったでしょうか。 翻訳ミスにより意味不明にならざるをえない不完全な文章なので、その不完全な意味を成さない文章を読んでも誰も理解できないので、回答もできないわけです。 ちなみに kill time  暇つぶしって意味です。 kill timeってなんだ? って必死に理解しようとしても無理ですよね。 日本語で暇つぶしって適切な語で書いてあれば、「ここのイエスの言葉の意味がわからない」とみたいなことにはならなかったでしょう。 イエスの言葉を知りたければギリシャ語を勉強しても無駄。 といってもイエスの言葉の元ネタは別にありますけどね。 イエスは複数の神の集合体ですから、その合成されたもので審判預言とか救済預言とかしたければ、また合成して人工物として「審判預言とか救済預言はこうします」と作っちゃえばいいわけです。 そして地中に埋めて誰かが見つけるようにして、世紀の大発見 イエスが言った審判預言 救済預言が書かれた書物発見 しかもギリシャ語で書かれている イエスはギリシャ語をしゃべっていた」ってしちゃえばいいわけです。 ただし その偽イエス直筆秘儀の書に書かれていることを実行したとしても何も生まれない。 絵に描いたもちを見ても腹がたまらないのと一緒。

関連するQ&A

専門家に質問してみよう