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(/_;) 半世紀以上前の、満州でのできごと-----マサカ?!と思いました……

 本にちょっと書いてあるのを読んだんですが、昭和20年の夏、満州にソ連軍が攻めこんできたとき、日本の軍人は、自分たちの家族ともども急いで汽車に乗りこんで、日本に逃げ帰ったそうですね。主人を戦地に送り出したあとの、多くの日本の無力な女・子供を、置き去りにして……  置き去りにされたかたがたの運命は、想像するだけでもおそろしくて、ふるえが、涙が、とまらない思いです。子供たちの一部は、そのご、残留孤児になったのでしょう……  これを読んで、私はさいしょ、「マサカ!」と思いました。軍人が、敵軍が攻めてきたからといってスタコラ逃げるなんてことが、しかも同胞の女・子供を見捨てて逃げるなんてことが、古今東西の人間の歴史のなかで、他にあったでしょうか?  短い文章だったので、よくわからないのですが、逃げた軍人は上層部だけだったんでしょうか?  それとも、上層部から兵卒にいたるまで、大群をなし、そろって逃げ帰ったんでしょうか?  ソ連軍と戦って、日本の女・子供を守ろうとした勇敢な軍人さんも、少しはおられたんでしょうか?  もしおられたとすれば、そういう軍人さんの功績は、ちゃんと顕彰されているんでしょうか?  いずれにしても、満州で見せたこんな究極の無責任・卑怯・利己主義こそ、私たちの国の一つの伝統で、それを現在の多くの国会議員や官僚が忠実に受けついでいると見るのは、考えすぎというものでしょうか?  以上、おわかりの範囲でけっこうですから、よろしくお願いします。

  • yumi18
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  • popesyu
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回答No.4

>>敵軍が攻めてきたからといってスタコラ逃げる なんてことではないです。 当時の自称最強の関東軍はすでにそれまでの戦いで抜け殻状態(一応温存ということにはなってましたが、南方戦線にちょこっとづつ送られていき、練度・装備とも貧弱なものになってました)になっていましたが、それでも本土決戦に備え、本土への戦略的な転換がなされてました。 では、なんで敵を前に空っぽにしたのかと疑問かもしれませんが、忘れているかもしれませんが、当時はまだソ連と条約を結んでいたんですよ。 これは教科書にも載ってることで、ソ連が一方的に条約を破棄、攻めて来るとは思ってなかったと。 ひょっとしたらそれも予想してたかもしれませんが、そうなってもどうしようもないことは明白でしたし、賭けだったのでしょう。 それにしても攻撃されたらどうするみたいな対応策は作っておくべきで、でも今の日本を見ると、対応策を練ること自体否定する人いますよねぇ。 で、戦力なければロクな防衛策も練っていない日本軍はこてんぱんにやられ、追いやられたと。まともな戦いにもならず一方的にやられた訳で、そこだけ見たら逃げ出していると見られても仕方ないところもあるかと思います。 ただそういった一連の流れを無責任・卑怯・利己主義と評するのは間違ってるかと思います。 無能で特に情報戦において無策(これは現在でも通じる伝統ですが)で楽観主義(と言うよりは性善説主義者)ってところではないでしょうか。

yumi18
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回答No.5

私の祖父が関東軍にいました。今はもう亡くなっているので記憶を頼りに判るところだけ・・ ソ連軍侵攻により、満州から関東軍がそれこそ上から下まで撤退し、残されたのは民間人だけだったようです。 残った方もいたようですが、脱走兵として扱われたようです。 軍人としてソ連軍につかまれば、捕虜として身柄を拘束されます。日本の軍部にとって敵国の捕虜になるのはこの上ない屈辱でした。ですから残された民間人を守りたい兵士は脱走もしくは銃殺ということにしておかなくては、軍部の面目が立たなかったわけでしょう。 関東軍が撤退した後の民間人の引き揚げは、想像を絶する苦労がありました。 どこにも頼るところが無く自力で帰国しなくてはならないですから。 乳飲み子を抱えた女性は、子供ともども行き倒れになっては、との思いで中国人に養子に出したり、売ったり、捨て子にしたりとしたようです。 これが今も問題となっている中国残留孤児です。 半世紀前の遠い昔のことながら、決して昔ではなく、今現在に直結してるんですよね。 半死半生の思いで引き上げてきた人たち、日本人でありながら母国も母国語も知らず血縁者を探す人たち、捕虜としてつかまりシベリアの収容所へ送られた人たち・・皆戦争で犠牲になったのです。 関東軍として日本に帰ってきた軍人たちも、東京裁判(極東軍事裁判)で戦犯となり、処刑または服役になった人が多いようです。 その戦犯も含めた日本軍人が靖国神社に祭られているので、総理大臣の靖国参拝が国内はもとよりアジア各国から物議をかもしてるわけですね。 有事立法が成立してしまいましたが、二度と戦争を起こしてはいけないと思います。

yumi18
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  • camearian
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回答No.3

沖縄戦ではもっと酷いことがありましたよ。軍隊は国民を守るのものではなく、権力者たちの利益を守るシステムに過ぎないと思います。支配層の利益を守るためなら、国民を見殺しにするどころか積極的に殺すこともあります。それが起こったのが沖縄戦です。 戦争というのは実は国と国との戦いではなくて、利害が敵対する権力者同士が自分たちの利益を守る(得る)ために、お互いが支配するシモジモの者たちを使って殺し合いをさせるものなんじゃないかと思います。戦争をしたがる人々は、常に自分は絶対に戦場に行きません。ブッシュしかり、シャロンしかり、「新しい歴史教科書をつくる会」しかり。戦場に行かされるのは、たいてい貧しくて力のない若者ばかりです。 最近の有事法制関連の動きにも、同じ仕組みを感じます。私は絶対反対です。「エライ」人のために、なんで自分が死ななきゃならないんですか。「国を守るため」というウソにだまされるのはごめんです。「国」ってなんですか? 我々一人一人が「国」だと私は思いますが。

yumi18
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noname#118466
noname#118466
回答No.2

旧日本軍が民間人をないがしろにする事は多多あったので、満州のことも、このように伝えられている(断片的に)のだと思います。一部の幹部が逃げたかどうかの詮索は別として、私は次のとおり理解しています。 まず日本とソ連は不可侵条約を結んでいたので日本軍は終戦間際に突然ソ連軍が攻め込んでくるとは思っていなかった。従って民間人を予測される戦闘地域から退去させる措置をとっていなかった。ソ連軍が攻め込んできた時、日本の防衛軍は手薄で武器も不十分(古い)だった。闘わずして降参、捕虜としてシベリヤの地で過酷な労働に従事させられ多くの兵士が亡くなった。民間人は混乱の中、守ってくれる軍隊もなく南東へと逃避行を始めた。ここで親子が生き別れとなったり、保護者の死亡で孤児となり中国人に預けられたりという悲劇が生まれた。 以上は大体の流れを記述したに過ぎませんので誤りがあるかも知れません。満州という実質は日本の植民地に入植していた人々が、敗戦、終戦という異常な環境の中に置かれて日本への逃避行を独力で行ったのは、兵隊がシベリアへ抑留されてしまったからです。日本国内でも終戦後は混乱が起こりましたが、兵隊はいなくても警察や消防隊が機能していました。

参考URL:
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/index.html9.htm
yumi18
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  • ToshiJP
  • ベストアンサー率38% (482/1255)
回答No.1

いくつか説がありますが・・・ 1つは腰抜けで命のおしい上層部が飛行機などでさっさと逃げ出した話です。このあたりのドタバタは映画「ラストエンペラー」のラストのほうで見れますね。 もう1つの説は、当時日本軍はすでに戦力をつかい果たしており、連合軍にかなり追い詰められていました。特に南方の沖縄、硫黄島、サイパン、さらには本土などでもかなり厳しい戦況でした。そこで送り込める兵力はすべてそちらに集中させようということになり、満州の守りについていた精鋭の関東軍も送り込まれたと聞きます。 そうなると満州の守りは非常にもろくなり、攻め込んできたソ連軍には手も足もでずにやられたということです。逃げ出したというはこの「大量の兵の配置移動」を指したとも考えられます。 このとき一般の人からしたら、兵は民を見捨てて逃げるように見えたとも考えられます。あくまでも作戦上の移動だったのでしょうが、一般人からしたらただ逃げてるように見えたのでしょう。 もちろん最後まで残って戦った兵士のかたもたくさんいたはずです。かなりの捕虜がでて、戦後拘留されていたかたも多かったです。 私個人の考えでは、一部の腰抜け上層部が逃げ出したのは事実でしょう。その上で私が書いたように、兵の作戦上の移動で満州の兵力が激減し、ソ連軍にいいようにやられたというのではないでしょうか? 当時の一般帝国軍人が同朋をみすてて逃げるような腰抜けではないと信じます。 まあ昔から「お偉いさん」が保身をはかるのは変わりませんね。

yumi18
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