- ベストアンサー
Bergsonのdurationとqualitativeとquantitativeについて教えてください
はじめまして、私は今は海外でメディアとコミュニケイションとカルチャーを勉強しているものです。今、メディアのジャンルを研究しています。まだ、始めたばかりなのでなんともいえませんが、im going to apply to Bergson's theory and Deleuze's theory (Rhizome). ここでBergsonのdurationが今もっとも引っかかっているところなんです.彼の言うdurationとqualitativeとquantitativeはどういう意味ですか?
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
お礼欄、拝見しました。 > つまり量は純粋持続の中ではhomogeneity(日本語で同質ってことかな?)であり、それが空間化(過去)になった時点で、 heterogeneity(異質かな?)になるってことなんでしょうか。同質が異質になった時、量は細分され、質として理解される・・・ってことでしょうか? いやいや、そういうことではないんです。 まず一点目。 現在、行為がなされているとき、あるいはなんらかの知覚を受けているときに時間が空間化されるのではなくて、あくまでも過去の行為や知覚、前の「ボン」を思い返すときに空間化されるということです。 逆に言うと、わたしたちが「時間は…」というかたちで認識する時間とは、過去の時間、ということです。 あるいは現在の行為にしても知覚にしても、言語化、すなわち空間化しようとすることは、過去化というプロセスを経ている。 そうして純粋持続というのは、空間化されない時間、過去化されない時間です。『時間を哲学する』にはベルクソンの『創造的進化』のこんな一節が引用されています。 ---(p.35からの引用:元は『創造的進化』岩波文庫)----- 一杯の砂糖水をこしらえようとする場合、とにもかくにも砂糖が溶けるのを待たねばならない。この小さな事実の教えることは大きい。なぜなら、私が待たねばならない時間は、……私の待ちどおしさに、すなわち私に固有な伸ばしも縮めもできない持続のある一こまに合致する。これはもはや考えられたものではない。生きられたものである。 ----- つまり、この砂糖水が溶けるのを待つように、未来に向かうことを含めた状態、完全には決定されない、わたしたちがその一部を左右することもできる状態なわけです。 「純粋持続のなかでの認識は~である」、という具合に取り出されるものではないことに注意してください。言葉によって取り出す、というのは、すなわちそこで空間化という加工がなされているんです(いや、ほんと、「純粋持続」というのは言葉になるまえの状態なので、説明するのがすごくむずかしいんですが、「砂糖水が溶けるのを待つあいだ」ぐらいのイメージでとりあえず受け容れて、先へ進んでください。最後まで行ってふりかえったら、なんとなくぼや~っとつかめてくる。つかめなかったら、もう一度。そんなもんです←それでいいのかどうかは知りませんが)。 二点目。 homogeneityとheterogeneityについて。 http://spartan.ac.brocku.ca/~lward/Bergson/Bergson_1910/Bergson_1910_02.html のまんなかあたり、97の最後に > What we must say is that we have to do with two different kinds of reality, the one heterogeneous, that of sensible qualities, the other homogeneous, namely space. This latter, clearly conceived by the human intellect, enables us to use clean-cut distinctions, to count, to abstract, and perhaps also to speak. という部分があります。 わたしたちにはふたつの異なる次元の現実がある。感性的質からなる〈異質的〉な現実、他方は「空間」という〈等質的〉な現実を知っているということである。 ここで、〈異質的〉〈等質的〉というのは、異なる次元にあるものであることを理解してください。どちらかがどう変化する、というものではないと思っておいたほうがいい。 そうしてこの等質的な空間として把握される現実が、人間をして数えたり、抽象化したり、話すことを可能にしている。 そうして98に入ります。 98では空間は〈等質的〉なものと定義される、そうして、人は時間を空間とは異なっているが、同じように〈等質的〉な無規定の環境だととらえている。けれどもそれは時間を持続から引き離すことにほかならない、とします。 そうして100で > Pure duration is the form which the succession of our conscious states assumes when our ego lets itself live, when it refrains from separating its present state from its former states. が出てくる。 純粋持続とは、意識状態の継起がとる形態である、というわけです。 このあと持続というのが区別のない継起である、という説明が続きます。 従来、時間は「継起」、なにものかのあとになにものかが起こる、と定義されてきたのですが、ここではそうではないのだ、と言われます。 そうして104、ここが重要です。 > In a word, pure duration might well be nothing but a succession of qualitative changes, which melt into and permeate one another, without precise outlines, without any tendency to externalize themselves in relation to one another, without any affiliation with number: it would be pure heterogeneity. 純粋持続は質的変化の継起にほかならない、この質的変化は互いに溶け合い、浸透しあっていて、はっきりした輪郭もなく、互いに外在化する傾向ももたず、数とのいかなる親和性ももたない。これこそ純粋の異質性であろう。 homogeneityとheterogeneityに関しては、ここらへんをていねいに読んでいけば、わかってくるかなと思います。 どうも説明がよくないんですが、たらたら書いてたら時間がなくなった。 クリスマス・ホリディも勉強とはエライですが、わたしもまだまだ仕事です(涙)。 お互い、がんばろうね。 わからないところがあったら、どうぞ。 わたしにわかるかどうかは定かではありませんが。
その他の回答 (4)
- ghostbuster
- ベストアンサー率81% (422/520)
duration は日本では〈持続〉と訳されます。ベルクソンの思想の鍵概念でもあります。 『意識に直接与えられているものについての試論』の序文で、ベルクソンは人間は言葉によって思考する、といいます。言葉は事象の連続性を分断し、非空間的なものを空間におきかえる。そのために、持続と延長、継起と同時性、質と量の混同が生じている、と指摘します。 > durationとqualitativeとquantitative はそういう関係にあるものとして、まず理解してください。 『試論』はウィリアム・ジェイムズによって英訳された際に、ベルクソン自身の許可を得て「時間と自由」とタイトルをつけなおされますが、これは『試論』の簡潔な要約となっています。 すなわち『試論』がめざすのは、人間が空間化してとらえている〈時間〉を、もういちど、具体的な生において生きている〈持続〉としてとらえることによって、〈自由〉を根拠づけようとすることです。 〈持続〉を理解する前に、人間の時間の空間化ということをベルクソンはどうとらえているか。 これに関しては中島義道の『時間を哲学する』(講談社現代新書)の説明が、一番わかりやすいように思います。 ----(p.21からの引用)--- ベルクソンはボン・ボン・ボン・ボン……という時計の音が経過しその数を「数える」ときに、われわれがボンとボンとのあいだに「スペース(space)」を形成することを空間(space)化の端緒とみなしています。つまり、空間化は「数える」という能動的な操作のさいに生ずるものであって、漠然と時計の音を聞いている場合は全体が渾然一体となっていて、ボンとボンとのあいだは開かれておらず、空間化の手前にある。 ここで、じつは「数える」ことは過去のボンを数えることであることに注目する必要があります。全部鳴り終えた後に、「今いくつ音がした?」と聞かれた場合、ボンの数が五~七程度でしたら大体答えられる。このとき、何をしているのか反省してみますと、まさに渾然一体となっているボンの集積をほぐしてあいだ(space)を開け、前のボンを保持しながら次のボンを付け加えてゆくという操作を続けている。つまり、われわれはボンを次々に物のように並べてゆくことによってはじめて「数える」ことができるのです。 この場合、空間(space)は――日常言語と同様に二重の意味を担っている。第一義的には、それはボンとボンとを分け隔てる「あいだ(space)」なのですが、これがやがてあいだのみならずそれぞれのボンの位置する「場所(space)」という意味も獲得することになる。ここに至って空間化は完了し、一つの線上にボンが並んでいる様子が、トラックにハードルが並んでいる光景のように思われてくるのです。 ----- 非常に簡潔にまとめられているのですが、これをさらに〈持続〉と関連づけてまとめてしまえば、「空間化された時間とは、回顧された流れ去った時間であって、〈持続〉として、流れつつある時間ではない」、ということになります。 では、〈持続〉とは何なのか。 中島の説明では「漠然と時計の音を聞いている場合は全体が渾然一体となっていて、ボンとボンとのあいだは開かれておらず、空間化の手前にある」という部分がそれにあたります。 さらにベルクソンは空間化、すなわち言葉による認識よりも手前に、もっといきいきとした生そのもののような状態があるはずだ、と考えます。 自我の表面は外部世界に接触しているから、感覚は互いに溶け合っているにもかかわらず、言葉でばらばらにほぐすことができる。ここでは持続を量的に展開しているのです。 けれども自我の奥底には明確な輪郭もなく、相互に外在化するような傾向もなく、数に置き換えられることもない、相互に融合し、浸透する質的変化の継起がある。とくにそれを〈純粋持続〉と呼びます。 おおざっぱに説明しましたが、『試論』に即して、この箇所の量的多様性/質的多様性、あるいは持続がわからない、というのであれば、具体的に指摘してください。わたしの理解できる範囲で答えます。なお、回答は質問の語句的意味の説明に限らせてください。それ以上の意見を求められてもわたしには答えられません。わたしの理解の不足から来る誤った点のご指摘はありがたくお受けしますが、それ以外のほかの回答者の方からの意見・ご質問に関してはご容赦ください。
お礼
ありがとうございました。純粋持続とは空間化できない時の流れであり、意識の中にある時間は空間化されている--- ”ボンの位置する「場所(space)」という意味も獲得することになる。ここに至って空間化は完了し、一つの線上にボンが並んでいる様子が、トラックにハードルが並んでいる光景のように思われてくるのです”。 ということは量的多様性は意識の中で過去になりそこから、質的多様性に変わるということなんでしょうか。つまり量は純粋持続の中ではhomogeneity(日本語で同質ってことかな?)であり、それが空間化(過去)になった時点で、 heterogeneity(異質かな?)になるってことなんでしょうか。同質が異質になった時、量は細分され、質として理解される・・・ってことでしょうか?ありがとうございました。
- fishbowl66
- ベストアンサー率29% (36/121)
再度失礼します。しつこいですからこれで終わります。 確か、ジャン・ジャック=ナティエという人が、音楽と言語の関係を考察していました。 「音楽家プルースト」というタイトルで、文学と音楽の関係を書いていましたね。 私はこの辺は門外漢で、少し見ただけでよくわかりませんが、検索のきっかけにでもなればと書いて見ました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A8
お礼
度々ありがとうございます。ジャン・ジャック=ナティエは記号学者 semioticianです。この方の作品にMusic and Discourse: Toward a Semiology of Musicがあるみたいですけど。記号学とDeleuze,foucaultなどは今、私が勉強していることと切っても切り離せない分野の一つです。この方の作品を・・・おそらく大学の図書館にあると思います・・・読んでみたいと思います。ありがとうございました。
- fishbowl66
- ベストアンサー率29% (36/121)
>ありがとうございます。私が今、書いている論文はジャンルについてです。例えば、音楽だったり映画だったりそれぞれのジャンルをどうやって私達は認識するか? あぁ、これはファッションの問題ではないでしょうか。 質と量の問題ではなく、言葉の問題ですね。 すでに、意識の持続とは無縁の、言葉で空間化された概念、 これを、真似したり、同一化したり差異する過程では。 >ここでベルクソンの質と量についてもっと詳しく知りたい分けなんですが、これは私がやろうとしていることに関係がありますか? これは恐らく関係ないと思います。 ドゥールズの「根」はよくわかりませんが、 シモーヌの「根を持つこと」なんかは、ある種の先祖がえりで、根を持つことによって、自由を失いますね。本当かいな(笑。 ご質問者の問題点は、ある意味世間の同意を問題としているような気がします。 補足欄のような問題意識でしたら、ベルクソンに関する限りは「創造的進化」をお読みになっては如何でしょうか。 それと、記憶が脳の中に有るという事は、断定できませんよ。 特定の記憶が、脳の障害で失われる事はないみたいです。
- fishbowl66
- ベストアンサー率29% (36/121)
ご質問の意図がもう一つよく解りませんが、 ベルクソンの「持続」と「質と量」に関するお尋ねですか? ベルクソンの持続に関しては、よく引き合いに出される 「砂糖水が飲みたかったら、砂糖が水に溶けるまで、待たなければならない」 と言う事ですが、これは誤解しやすいですね。 砂糖が水に溶ける外在的な時間の事ではなく、意識の中で砂糖が溶けるまで待つ、意識の持続のことを言っています。 「質と量」に関しては、これも質問の意図が解りませんが 「時間と自由」という本の中で、感覚について調べる中で「精神物理学」の批判として、「痛さ」とか「明るさ」といった感覚を、刺激に対する一定の反応の量のように説明する事を批判しています。 つまり、「持続」はそれぞれ、継起する新しい質であって、量ではないという意味ですね。 この辺りで、質を量に変換する事が、時間を空間に捉える誤謬の原因と指摘しています。 ご質問が、ドゥールズのベルクソン解釈をお望みでしたら見当違いですし、 又ご質問が、ベルクソンの翻訳に関する難点でしたら、私には手におえません。 ちなみに、ベルクソン研究会のホームページを貼っておきます。 http://www2s.biglobe.ne.jp/~sug/index.html 以下は、純粋持続に関するレポートです、まだリンクしているか不明ですが。 http://www.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/kobayashi(04-1-31)
補足
ありがとうございます。私が今、書いている論文はジャンルについてです。例えば、音楽だったり映画だったりそれぞれのジャンルをどうやって私達は認識するか?とうことです。今、私達を取り囲んでいる映画、ドラマ、音楽などメディア媒体はそれ自体さらに範疇化されています。(映画ならアクション、SF、音楽ならロック、ラップなど)。また最近の映画、音楽、etc、などの作品は複数のジャンルから構成されているのがわかります。(例えば、映画『アンダーワールド』はアクション、ロマンス、ホラーの要素なが含まれている)。こうした複数の要素が一つに集まり一つの作品になっているとう点に私はドゥールズのRhizomeが当てはまると考えています。また、ジャンルの認識において、ベルクソンの持続、つまり、教えていただいたように外的な時間の影響でなく、意識のなかでの空間化、時間の意識というか、認識をこのジャンルに当てはめようと考えているんです。これはまだ始めたばかりなのでなんともいえませんが、人間は時間的尺度(時間24時間、365日、一年など)を意識の中に持つと考え、それをおもて、つまり意識の外に押し出している。意識の中では、未来、過去を同時に共有し、つまり空間化しているように思えます。この過去という意識の中の時間に人間の記憶、経験がアーカイブのように設置されていて、私達が映画や音楽を聴いたときに、それらの媒体が直接意識の過去空間にアクセスし、ジャンルを認識するのではないかと考えています。それと上記したように、もし人間が意識を表、つまりこの世界に押し出しているとしたら、またこの過去の意識、アーカイブ化された記憶、経験をミックスさせているから、ジャンルもまた混ざるのか・・・と、こんな感じで論文を書こうかと思っています。ここでベルクソンの質と量についてもっと詳しく知りたい分けなんですが、これは私がやろうとしていることに関係がありますか?
お礼
度々ありがとうございました。これは大変参考になると思います。まだいろいろとわからない事が多く違った認識をしてしまうのは、私の知識不足なところです。今回はここでこの質問を締め切りますが、また近いうちに、質問をこのページに投げかけると思います。その時また勉強させていただきます。ありがとうございました。