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「真の自分」は理性か?感情か?それ以外か?それは真実在か?

tabioの回答

  • tabio
  • ベストアンサー率29% (5/17)
回答No.20

皆さん、すさまじいほどの回答を寄せられているんですね。 私など、及びもつかない論理的なお説ばかりです。 ただ、真の自分とは「良心」ではないかとありましたので、 私なりの思いを寄せてみます。 「心」というものを考えたときに、特にその構造を考えたとき、 私は重層構造をなしているのではないかと思うのです。 簡単に言えば、ラッキョかタマネギのようなものです。 まず、表皮に理性というものがあります。 表皮をめくれば、感覚・感情という層が出てきます。 それをめくれば、次に本能という、とても分厚い層が出てきます。 本能という層をめくれば、心の一番核となっている「魂」 というものになります。次はありません。 人間は生まれてすぐ、誰も教えていないのに、 母親のオッパイにムシャぶりつきますよね。 これは本能のなせるわざです。 エゴ(利己)と言い換えてもいいかと思いますが、 この本能は肉体を維持していくのに絶対に必要です。 赤ちゃんはやがて、五感(感覚)が発達していきます。 同時に感情も芽生えてきます。 その後、3歳か5歳ぐらいまでに前頭葉が発達し、 理性の原形が形成されます。知恵熱が出るのは、そのためです。 この時点で、私の言う「心」のベースができあがるのです。 以降、人は成長するにつれ、置かれた環境、または考え方などによって、 エゴの層、感覚・感情の層、特に理性の層の厚みを増していきます。 老年期に入ると、今度は逆になります。 まず、理性が薄れてなくなり、感覚や感情だけで行動したり、 ものを言うようになります。怒りっぽい老人が多いですよね。 また、感情や感覚に固執するあまり、世間から頑固だと言われたりします。 もう少し齢を重ねると、その感覚や感情も薄れてなくなり、 本能だけがむき出しになります。ボケ老人が、今ご飯を食べたことを忘れて 「ご飯はまだかいな」と言ったりしますね。本能だけになってしまったのです。 本能がなくなれば、もちろん死を迎えるわけです。 さて、ここで本題に戻らなければなりません。 今言う心の重層構造のなかでは、最初から存在して、齢を経ても消えないもの がありました。「魂」というものです。「魂」と言えば、ヘンな捉え方をされ かねないので、「良心」と言い換えてもいいかもしれません。 または、キリストが言うならば「愛」、仏陀が言うならば「慈悲」というもの です。あるいは、「真・善・美」なるものと言ってもいいかもしれません。 しかし、先ほどから言っているように、この魂というものは、三層の分厚い皮 で覆われているために、なかなか表に出てきません。ただし、これがフイに表 面に出てくることがあります。真なるもの、善なるもの、美なるものに触れた ときです。 坐禅やヨガなどで悟りに至ったとき、つまり、真なるものを知ったとき、 随喜の涙がこぼれると言います。 また、何年か前の冬、アメリカで飛行機が離陸か着陸に失敗し、凍てつく川に 墜ちたことがありましたね。あのとき男性の乗客が、子供だったか女性を先に 救出させ、直後に沈んで亡くなった事件がありました。テレビを見た人は、 おそらくほとんど全員が、善なるもののあまりの美しさに、理屈抜きに深い感 動をしたと思います。 あるいは、美しい景色を見たときも、人はなぜかしらん、涙をこぼすときがあ ります。 長くなりそうなので、端折ることにして……。 つまり、そういうものが真の自分だと、私は思うのです。 蛇足ながらに────、 言葉遊びになるかもしれませんが、ヨガの世界では、悟りの境地に達したときのことを、真の我に達したという意味で「真我」に至ったと言うそうです。 もっと続けようと思いましたが、ちと疲れてきたので、この辺にしておきます。

mori0309
質問者

お礼

tabioさん、回答ありがとうございます。小生SEをしておりまして超多忙なので、しばしお時間を ください。かならずお返事します。mori0309

mori0309
質問者

補足

tabioさん、ありがとうございます。 > 最初から存在して、齢を経ても消えないもの「魂」というものです。「良心」と言い換えても > いいかもしれません。または、キリストが言うならば「愛」、仏陀が言うならば「慈悲」という > ものです。あるいは、「真・善・美」なるものと言ってもいいかもしれません。 人が生まれながらにして持っている人間の本質は、何かしら「美しくて善なるもの」だというわけ ですね。私は、人が生まれながらにして持っているものは「美しくて善なるもの」そのものではなく 「美しくて善なるもの」にふれると、それをすばらしく鋭敏に吸収する受容器のようなものと感じて います。親や家族が愛情によって「美しくて善なるもの」を宿させる(入魂)のだと思います。 人間に育てられないと人間になりませんから。(でも、こんなことは本質論には関係のないことで、 私もtabioさんも、同じことを言っているのだと思います) > おそらくほとんど全員が、善なるもののあまりの美しさに、理屈抜きに深い感動をしたと思い > ます。あるいは、美しい景色を見たときも、人はなぜかしらん、涙をこぼすときがあります。 本当にそうですね。真・善・美が私たちのこころに起こさせる感動は共通のものだと思います。 ところで > 坐禅やヨガなどで悟りに至ったとき、つまり、真なるものを知ったとき、随喜の涙がこぼれる > と言います。ヨガの世界では、悟りの境地人の世から離れてに達したときのことを、真の我に > 達したという意味で「真我」に至ったと言うそうです。 この種の話は、どうも私には納得できないのです。人の世から離れた自閉世界で修行していったい 何が悟れるのだろうか。肉体をいじめて恍惚を得ているだけではないのか。そんなふうに考えて しまうのです。(こんな言い方をしてごめんなさい。でも昔からもっている感想なんです)

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