• 締切済み

倫理は哲学になりうるのでしょうか?

哲学と思想というのは少し違う気がします。 倫理はとかく宗教などと絡めて思想的に扱われることが多い気がします。 しかし出来るだけ純粋に論理的に倫理学を扱い哲学的なアプローチをすることは、どの程度可能なのでしょうか? ご専門の方、詳しい方、趣味でなさっている方などいらっしゃいましたら、教えてください。 文献の紹介があれば尚嬉しいです。

みんなの回答

  • nisekant
  • ベストアンサー率11% (13/112)
回答No.6

哲学は万学の祖です。

noname#25818
noname#25818
回答No.5

僕は倫理もしくは道徳、道理といったものは哲学の根底に流れるものだと思っています。 言葉によって規定されつくされはしないものでもあるとも思っています。 論理によって言い表されたその先の跳躍こそが哲学の意味であると思っています。 それは進歩とかばかりでなく回帰であったりします。 何も新しいことを言ったり考えたるすることが哲学なのではない また知識の多い少ないではなく、表現の豊かさでもなく 唯ひとつことを一心に黙々と生きる人のほうが哲学者であると思えたりします。

回答No.4

今日の倫理学では、 「道徳は理性と良心の問題なのであり、宗教信仰の問題ではない。…一言で言えば道徳と宗教は異なるものである」 (ジェームズ・レイチェルズ『現実を見つめる道徳哲学』p.68) と考えられています。 というのも、倫理学は「何が善いこと」で、「何が悪い」ことかを決定するものではなく、法律的・公共的な規範の根拠を定めるもの、もう少しわかりやすくいえば「してよいこと」と「して悪いこと」のちがいを明らかにするのが目的であるからです。 そうして、その規範の根拠は論理的に求められなければなりません。 その手順は、一般に三段論法と呼ばれるものです。 簡単にその方法を紹介してみましょう。 かりにこうした事例があるとします。 無脳症の嬰児が出産された。 その子が長く生きられる可能性はほとんどない。 その子の臓器を移植用に提供することを両親が求めた。 ところが法律は、提供者が死ぬまで臓器の摘出は認めていない。 九日後、嬰児が亡くなったときは、すでに臓器は悪化していて、移植には適さないものになっていた。 果たして、両親が子供の臓器を移植用に提供する意思表示は、正しかったのか、まちがっていたのか。 (※これはあくまでも考え方の筋道を明らかにするためのもので、上記の本を典拠としています。したがって、これに関する意見の投稿はご無用に願います) 両親の主張はこのようにまとめられます。 (大前提:規範)ほかの人を害することなしに。誰かに利益を与えることができるならば、我々はそうすべきである。 (小前提:事実) 臓器移植は嬰児を害さずに、ほかの子供たちに利益を与える。 (結論:規範) ゆえに臓器移植は行われるべきである。 (※三段論法の方法についてはここでは詳述しません。不明の点があれば補足ください) さて、ここで一番問題になってくるのが、この「事実」の扱いです。 小前提となる事実命題がまちがっていれば、規範の正当化は失敗してしまいますから、この点に関しては徹底した議論が必要となってきます。 臓器を摘出することは、嬰児を害することになるのではあるまいか。 いや、そうではなくて、生きることが利益となるのは、人が活動でき、思考し、感じ、他者とコミュニケーションができるからこそだ。それができないところで、もう数日生きることが、どれほどの利益をその嬰児にもたらすことになるのか。 そのようなかたちで議論されます。 あるいはまた、反対する側の主張も、命題のかたちでまとめられる。 このように、倫理学はきわめて論理的な手続きにのっとって進められていきます。 http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/~tsuchiya/class/ethics/introduction/lec1.html のページでは具体的にその手順が詳しく述べられています。(2~3回目) ページの中にナビゲーションがついていないので、講義ナンバーをひとつずつ増やしていってください。倫理学史もわかりやすくまとまっています。 そのほかに加藤尚武『現代倫理学入門』(講談社学術文庫)もわかりやすいと思います。 以上簡単に書きましたが、わかりにくいところ、もう少し知りたい点など、補足がありましたらおっしゃってください。できる範囲で対応します。

参考URL:
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/~tsuchiya/class/ethics/introduction/lec1.html
noname#21336
noname#21336
回答No.3

ご存知かも知れませんが、哲学としては、 倫理学 道徳哲学 メタ倫理学 といった部門があります。 文献としては「現代の価値論と倫理」(有信堂)がお勧めです。

参考URL:
http://www.kosho.or.jp/servlet/bookselect.Kihon_result
noname#24129
noname#24129
回答No.2

「人のすすむべき道に、正しさの根拠付けが論理的にできるか」というのであれば、できるでしょうし、皆それをやって自分が正しいと思っているのでしょう。だけども、これは、相対主義的な正しさですね。 客観性、普遍性を満たした上で、言語化されなければ倫理といえないでしょう。その場合、判断内容とは、相対的なものですから、そこ着目するのはやめて、判断機能、認識機能というところに、多くの人々の共通点を見出すべきではないかと思います。いわば、理性による理性の探求ですね。 ソクラテスが倫理学の父と呼ばれるのは、判断内容たる知を超えて、「汝自身を知れ」という箴言に従い、その知的活動に目を向けたからでしょう。ここに、人類共通のものをみてとったのです。等しさそのものが、教えてもらってもいないのにだれにでも分かるということに、彼は言及します。(プラトン『テアイテトス』徳は教えられるか だったと思います。)のちに、カントがアプリオリな感覚的認識形式と呼んだのもこの類です。悟性の形式にも「P=P」などという、誰が見ても、その根拠を教えてもらったのでもないのに、正しいと思えるものがあります。 認識の内容ではなく、その形式を生むものを対象とすることで、普遍性の要請にこたえる事ができますが、言語の限界は、言表、判断すると、言語内容から超越していた対象が、言語内容へと形作られてしまうところにあります。つまり、真実であるはずのものが、真でも偽でもありうるものとなってしまうのです。むしろ整然と語ってしまわずに、倫理をぼかしたままの「道」などというほうが、的を得ているのかもしれません。

noname#25358
noname#25358
回答No.1

 哲学と宗教が絡めて扱われることが多いのは、15世紀頃に全盛を誇った「宗教哲学」という考え方がいまだ根強く残ってるからです。  本来的には哲学は宗教とは関わりのない学問で、物理学の分野でも使われます。  たとえば、有名な「コペンハーゲン解釈」は、最終的には哲学的に処理してしまうしかありません。  陽子が崩壊したらどうなるのか、とか、宇宙の壁の向こう側には何があるのかとか。  これらは人間が現代の技術で答えを見つけられるものではないので、哲学的にアプローチすることが一般的です。

関連するQ&A

  • 哲学と倫理。

    『哲学』は『倫理』の延長だと聞きました。 これって本当ですか? 本当だとしたら、『倫理』を面白いとは思わない 人間は『哲学』の勉強をしようとは 考えない方がいいのでしょうか?

  • 大学で哲学、倫理学を学ぶ意味はありますか?

    大学の哲学や倫理学の知識だったら自分で本を読めばいい話です 論理的思考を身に着けるのだったら数学科や情報学科の方に行けばいいし、そっちの方が身につきます 批判的思考や深く考える思考も大学で学べば身につくことではない また倫理学については、大学の生半可な倫理学を学ぶより大学の法学を学んだ方がよっぽど高度に倫理学をしていると思います その辺の倫理学の数十倍は高度に実践哲学の様相を示している。かなり踏み込んだ次元まで粘り強く思考し、複雑な難題に取り組んでおリ、しかもそれが現実・実践・実用に直結している。 大学で哲学、倫理学を学ぶ意味はあるのだろうか?

  • 哲学と倫理学の違い

    哲学と倫理学の違いはなんなんですか? 授業でそれぞれを習ったのですが、いまいちよくわかりません。 ここでほかの質問を見てみましたが、わかりませんでした。 どなたか、専門的な意見で教えてもらえませんか??

  • 大学哲学科の論理学と倫理学について

    哲学科で論理学と倫理学どちらを学んだほうがより論理能力をつけることができるでしょうか? ここで注意してもらいたいのが 確かに論理学と倫理学どちらも論理能力は身につきはするでしょうがここで問題にしているのは、「どちらがより論理能力をつけることができるか?」です。 大学ではどちらも大差ない、優劣なんて決められないなどは回答になりません そこを了解してもらえるようお願いいたします。 ・ここでは論理学側と倫理学側の主張から、その中での疑問についてお答えしてもらうようお願いいたします 1、論理学で「論理的に正しく考えるにはどうしたらいいか」、ということを研究したほうが複雑な論理方法や論理のルールを身につけられて結果倫理学をやるよりもより論理的に考え、整理し、相手に伝える力が身につく 2、論理学はやらないが倫理学で実践的に論理を使い、実践的に論理能力を養っていくほうが論理的に考え、整理し、相手に伝える力が身につく 1、についての疑問は ・「論理的に正しく考えるにはどうしたらいいか」を研究し、複雑な論理方法や論理のルールを身につけたからと言って論理的に思考する能力がつくとはいえるのだろうか? 論理学の成果を利用して、多様な主題について検討し研究し、議論していったほうが論理能力は身につくのではないだろうか? 2、についての疑問は ・「論理的に正しく考えるにはどうしたらいいか」を研究し、複雑な論理方法や論理のルールを身につけていったほうが論理について詳しくなる=論理に強くなるのではないだろうか? 論理学の成果を利用しているだけでは論理能力はつかないのではないだろうか? 回答のほうよろしくお願いします

  • 論理学と倫理学、どちらの入り口から入れば?

    大学の倫理学(大谷大学)に行こうと思っていたんですが、少し悩んでいます 大学はとても短いのでやるんだったらいっそう大学の間は倫理学というステップのためにめいいっぱい哲学科の論理学と分析哲学と言語哲学で論理力をつけた方がいいと思いました わかるように倫理学をやるより哲学科の論理学と分析哲学と言語哲学の方がはるかに論理力は上がります 倫理について考えるのはその後でもかまいません 大学に入ってから決めれば、と 卒業した後は触れないでください。

  • 高校公民の「倫理」と「政経」の関係

    政経・現代社会に比べて倫理だけ毛色が違う科目のような気がします。社会科学の基礎を教える前者に対して、倫理は哲学・思想史・宗教・心理など人文科学の基礎です。 高校時代、政経の教師(経済学部卒)が『概して、哲学科や宗教学科を出た倫理教師は公民教諭免許を持ってはいるが実際は倫理だけで政経や現代社会は教えられない。でも、政経の教師は現代社会も倫理も教えることができる。』と言っていました。 哲学や宗教学が専門の人が、政治学や経済学を教えるのにいささか抵抗があったり、特段の勉強が必要なことは理解できます。 でもこの逆の、「政経教師は倫理も担当できる」というのはなぜなのか、よく分かりません。政治学や経済学、憲法学と、ギリシア哲学だとか中国儒教史、ヒンドゥー教、仏教論、朱子学、蘭学といったジャンルを扱う倫理とは全く違うような気がします。 もう高校を卒業したので教師に真意を聞けないのですが、およそどういうことを言わんとしていたのでしょうか?

  • 哲学は怖い学問ですか?

    私は高校生の頃に倫理を勉強してからというもの、哲学や宗教に大変興味を持っています。現在24歳・男です。 たまにこちらで哲学的思考にとらわれてしまい、常に悩み苦しんでしまっている方の書き込みを目にします。 哲学を深めれば深めるほど、哲学無しには生きていけなくなってしまうのでしょうか? 私は哲学を"個の宗教的価値観"として捉えているので、他者に押し付けたりしませんし(押し付けた時点でその哲学は宗教へと変化してしまう)、他者の哲学をまるまる信じてしまうこともしません。 しかしやはりニュースなどを見ると、哲学的な観点で見ることが多いです。例えば、殺人事件のニュースを見たときに『加害者はどういう生き方を送り、どういった価値観を持って人を殺してしまったのだろうか』とか、『もし、この○○が××だったならばどうなっていただろうか』などなど、真剣に背景の推測をすることが多々あります。 倫理の資料集などで様々な宗教や哲学者について簡単に学んできましたし、それらが自分の生き方に大なり小なり影響を与えてくれたのも確かなので、哲学的思考は捨てたくありません。・・・もう癖になっているので捨てられるわけもないのですが・・・^^; もしかしたら私の"哲学"という言葉の使い方は間違っているかもしれませんが、哲学の専門家の方がいらっしゃいましたら回答していただけると助かります◎ よろしくお願いいたします。

  • 哲学倫理学

    哲学倫理学の専修、専攻がある大学は どういったところがありますでしょうか? ご存知の方がいらっしゃいましたら大学名を教えて頂きたいです。

  • 倫理や哲学が好き

    倫理や哲学が好き 私は哲学とか倫理とかが好きなのですが周りに話の合う人がいません。最近テレビで見た「三度目の殺人」が面白かったです。象の鼻に触れた人と耳に触れた人の対立の話が気に入りました。ずいぶん前にNHKでやっていたマイケル・サンデル教授の講義も面白かったです。人工知能系の話も好きで、NHKの超AI入門が面白かったです。ゲーム理論とかも好きです。 おすすめのコンテンツやコミュニティがあったら教えてほしいです!

  • 生命倫理は哲学のテーマなのか

    いま巷では物騒な事が現実化しよーとしている。 生きた人間の新鮮な臓器をえぐり取り、これを別の人間の腐った臓器と入れ替える臓器移植である。 もちろん人間の脳ミソでさえ、移植できるのであれば移植されることになるはずである。 現在は研究段階であるが、一部では隠れて実験が行われており、近いうちに現実のものとなりそーな雰囲気である。 しかしこのよーな行為は生命倫理に反すると見做すのが従来からの社会一般の通念である。 ところがこのよーな現実の問題に対して哲学は何ら明確な答えを示すことが出来ない。 宗教に至っては何らの答えを持っていないどころか、この問題に関わろーとさえせずただただ逃げ回っている始末である。 仏教もキリスト教ももはや人を導く精神的パワーを失ったのである。 哲学が生命倫理に答えを持たないのは何故なのか。 生命倫理は哲学のテーマではないからなのか。 それとも哲学はあらゆる意味において役目を終え、既に存在しないからなのか。