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これは悪なのか?

_hiroya_の回答

  • _hiroya_
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回答No.8

常に自己の限界にあり、自己を発揮して生き続ける人は、「私を生きる」ということができると思います。もし無を生きたら、死んでしまうと思います。 悟りを得た人は21日で死ぬという話を聞きました。何も食べないからです。 生きる理由もなく死ぬ理由もなかったら、死んでしまうのでしょう。 なんで生きるのかは、悟ったお釈迦さんにすれば、みんなのために生きるということになるらしい。悟った後に死のうとしたが、神様の王が出てきて、「教えをひろめて~」って頼んできたらしいです。だから、死ぬまで教え続けたそうです。慈悲心だそうです。  自分ってなんだろう。悪い自分?思っている自分?観ている自分?と考え続け、自分と一体化した時に、どうなるか、それは人それぞれだと思います。他人の出る幕はあってもいいけど、用意する必要はないかもしれません。その人にはその人の悟りがあるのだと思います。 別に、悪くてもいいんじゃないんですか?悪魔には悪魔の楽しみがあると思います。優越意識に浸る。それも一つの快楽だと思います。 しかし、人と自分を比べているので、その人はほんとの自分を得ていないでしょう。比べようのないものとしての自分を知ること、それが大事だと思います。 それが、比べようのない、測り知れない幸せを体験しえるからです。 馬鹿でも、賢くても、幸せだったらいいと、僕は思います。 賢い方が、馬鹿よりも幸せに近いと考えるのは、僕にはできません。 幸せには、なにも関係ないことだと思います。 ただ、人の幸せを奪い、不幸を与えるようなことが、悪の幸せだろうと思います。

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