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幕末の長州藩について
個性派ぞろいで、維新に大きな役割を果たした長州藩に、興味を持っています。以前から疑問に思っていたことのなですが、松陰の兵学門下とはいえ、松下村塾の正式なメンバーでもない桂小五郎が、長州藩のリーダー的存在になった経緯がよくわかりません。しかも彼は事を荒立てるのを嫌う穏健派で、過激な高杉晋作たちから見れば、そのやり方は生ぬるく、歯がゆく思えたのではないでしょうか。長州には来島や周布といった年長者たちもいたのになぜ彼らをリーダーに据えなかったのでしょうか。
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松下村塾は私塾の一つですので、大きな影響はあったでしょうが、当時の長州藩全体が松下村塾(あるいはその門下生)そのものにリーダーシップを委ねていた訳ではないと思います。これは、No.2の方も触れていらっしゃいますね。 桂は、江戸での剣術修行中にその才とリーダーシップを認められ、道場と長州藩邸両方のまとめ役をやっていたはずです。藩内でのリーダーシップと、他藩の間における知名度はそこでかなり高まったのではないでしょうか? 片や、高杉は他藩の者と交わることはほとんどありませんでしたから、長州人をひきつける魅力はあっても、対外的な影響力は小さかったのでしょう。 高杉にしても、いくら過激とは言っても、長州単独で幕府に対抗する愚は認識していたので、諸藩とパイプのある桂をリーダーに推すことに不満はなかったと思います。
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- kingo040129
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長州藩にそんなに興味をお持ちでしたら、山口県の史料をとことんお調べになることをお奨めします。 明治維新の主力が長州藩の下級武士であることは知られていますが、そのひとつに旧小早川家の流れがあることなどは、小説のネタとしても面白いかも。
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ありがとうございます。その方面ももっと調べてみます・・・
- pyon1956
- ベストアンサー率35% (484/1350)
松下村塾が優れた人材を輩出したのは事実でしょうが、しかしこれはやはり私塾です。従ってそこで培われた人脈は無論無意味ではないのですが、藩の公論、という点ではどうでしょうか。藩から見れば、これは私的なつながりでしかないわけです。 つまるところ坂本龍馬などと違い、彼ら長州の人たちは、最後まで長州藩士として行動していたのではないでしょうか。 そういうなかで#1さんが仰るように年長の指導者格の人々が死に、「穏健派」ということは藩論をまとめるのにむしろ都合の良いポジションでもあったでしょう。幕末とは言えやはり封建の世の中。殿様がだめ、といえばどうにもならず、また藩内にも当然いろんな意見や立場の人がいたはず。それをまとめていくのにたとえば高杉じゃ過激すぎて無理でしょう。(まあ病人ですしね)そういった要素と、それにもかかわらずちゃんと京都などで潜入活動もして、他藩の人々(龍馬とかね)との人脈もある、となれば#2さんも仰るように十分ではないかと思いますが。
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ありがとうございます。個人的には高杉、好きなんですけど、やっぱり藩論をまとめるには過激すぎですよね・・・
- supZ
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松下村塾から優秀な人材が多く輩出されたのは間違いありませんが、塾生達も自分達だけで事を成せるとは思っていなかったと思います。ですから塾生の中からリーダーが出なくてはいけないとは塾生達も考えていなかったのでは?後、高杉は病気で、来島や周布といった人建は立場上、桂のように自由に動き回れず、久坂のように途中で死ぬ人物もおり、そういった流れのなかで人望、行動力等にすぐれた桂がリーダーとなったのではないでしょうか。
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ありがとうございます。久坂が生きていたら事情は違っていたでしょうかね?彼はとてもリーダーシップのあるタイプのように思えます。
- 6dou_rinne
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桂小五郎が正式にリーダーとなったて長州をリードした時期にはすでに木島や周布は死んでいましたが。
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ありがとうございます。剣術修行中の青年に藩邸まとめ役をやらせていたのですか。若手登用に積極的な藩ですね。高杉の他藩嫌いは以前に本で読んだことがあります。対外的には桂のような常識人は信頼がおけそうですね。