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「勤勉はぼんくらの代償ではない」

これは清水ちなみさんの著書にあったことばです。私はこのことばがひどく気になっています。私のこと言われているみたいで。私はぼんくらで、仕事でなかなか目に見えて成果が上げられないので、せめて勤勉あろうと心がけてきました。たとえば、かぜを引いて、朝、電話で「今日休みます」なんてことがないよう気をつけました。休みたい時は必ず事前に申告するようにしています。なるべく、なんていうか、いわゆる「雑用」って言われるようなも事も、積極的にやってきたのに・・・・・。その「雑用」がなくなれば、ばりばり成果を上げられるかといえば、何しろぼんくらなもので、あやしいのですが、ぼんくらであるが故に、他人ならさらっとこなすような雑用にも、多くの時間とエネルギーをさいてしまうのです。私はどうしたら良いのでしょう。「脱、雑用宣言」をしたほうが良いのか、組織全体でのことを考えたら、せめて私でもできることを、今まで通り積極的にやるべきなのか、迷っています。ちなみに私は研究職。工業所有権は、グループでやったものに 関しては一つありますが、私が中心のものはゼロです。商品化なんかも、サポート的な役割で、商品化されたものはありますが、自分中心はゼロです。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • you-m
  • ベストアンサー率58% (190/327)
回答No.4

大抵の場合、仕事の負荷というものは、その人が日頃やっている事を前提に判断すると思います。 あえて、厳しい言い方をすれば、現状行っている事を実行しつつ、もう一つ課題をこなすようにすべきかと思います。よりウエイトの高い仕事をし、その部分が認められるようになり、自分の中でその仕事が占める割合が多くなって、初めて、じゃあ負荷を分散しようかという話になるのが、普通の流れかと。 今まで、内心はともなく外見上はそれなりにやってきた事を、ある日他の人と分散したいと言っても、普通はなぜだって事になると思いますよ。 その事だけで、毎日何時間も残業してたりするのなら別ですけどね。 それらは、一朝一夕に変えられるものでは無いし、まずは自分に何ができるのかを周りに対して証明する必要があるでしょう。 求められている事・・・とは、何も自分個人に限定するものではありません。自分の所属している部署の人全員に求められている事でもいいわけです。 商品化なども、それが例え自分中心の物で無かったとしても、商品化する際にはこの人の能力が非常に役に立つと思われるような何かを持っている事だって求められている事の範疇に入るでしょう。 周りに認めさせるというのは、かなり難しい事です。 でも、だからこそ、その為に苦労する価値があります。 >スーパーウーマンではない 私の見たところ、結果を出せる人の大半はそうではありません。人よりも深く考え、人より先を見て、人よりもたくさん努力をし続ける人が大半です。 同じ結果を出すのに、自分が倍の苦労をしなければならない。だとしても、3倍やれば人の5割増の結果がだせるんです。 まあ、人の価値観なんてそれぞれですから、仕事の為にそんなに苦労したくないって考え方もあるでしょう。 ただ、苦労はいやだし、基本的に定時で帰りたいし、休日も遊びたい。家で仕事の事なんか考えたくない。でも好きな仕事はしたいし、認められたい。なんていうのは、都合が良すぎて笑ってしまいます。 何かを為すには、代償が必要です。 大抵の場合は、時間や苦労・忍耐といったものですけどね。 それに、努力が必ず報われるとも限りません。 方向性を間違えていれば、まさに無駄な努力になる可能性だってあります。 だから、いつも考え続けなければならないんです。 あってるとか、間違ってるとかでは無く、欲しい結果を得るために必要な物がそろっているかをです。 常に、目標となる部分を意識し、そこへ向かっているかどうかを確認しつづける事が、無駄を省く最良の方法と思います。

hikobae
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >周りに認めさせるというのは、かなり難しい事です。 でも、だからこそ、その為に苦労する価値があります。 奥が深い言葉です。 >>スーパーウーマンではない 私の見たところ、結果を出せる人の大半はそうではありません。人よりも深く考え、人より先を見て、人よりもたくさん努力をし続ける人が大半です。  何か書きたいのですが、「グーの音も出ない」と言った感じです。

その他の回答 (3)

  • you-m
  • ベストアンサー率58% (190/327)
回答No.3

私の私見ですが、”勤勉である”という事は、自分の手の届く事をやって満足する事では無いと思っています。 自分が何を求められているのか、あるいは自分が何をしたいのか、そういった事を踏まえて自分に足りない事を補う努力をする事であり、前に進むために必要な積み重ねを継続していく事だと思います。 「雑用」と言いますが、私に言わせればこの手の事は、その時々で手の空いている者が積極的にすべき事であり、そのような意識のない職場は、むしろ駄目だと思います。 才能が無い、センスが無いと言った言葉を言い訳にして必要な努力を怠っている人が、私は非常に嫌いですが、この言葉はそういった考え方にも通じる部分があるかもしれませんね。 なぜ、自分がぼんくらだと思うのですか? ぼんくらで無くなる為にはどうすればいいと思いますか? 成果をあげる為には、何が必要なんですか? これは、問題としては結構大枠な言い方ですね。 この問題をもっと細分化します。 より、小さな問題の集合にし、それらを一つ一つ解決していく事によって、自分の目標に近づいていくのです。 rimeiさんがおっしゃられるように、問題意識を常に持ち、それに対して、自分はどう取り組むべきなのかを考えつづけていれば、徐々にすべき事は見えてくるのでは無いかと思います。 そして、それが自然にできるようになるためには、相応の時間が必要です。 私は今の自分にたどり着くまで10年以上をかけました。 そして、まだ何も満足していませんが、続けてきた事はすべて私の血肉になり、実績以上に自分自身の土台となっています。 継続する事を放棄した人は、何も得られません。 問題を発見し、分析し、必要な事をしていく。その繰り返しを継続していける人間こそが、次のステップへ進めるのだと、私は思っています。 何かとえらそうに書いてしまいました。 不快だったら、申し訳ありません。

hikobae
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私は日々流されているだけのような気がします。 「私にできることは私がやりましょう」という態度は、いけないのですね、きっと。 >自分が何を求められているのか    わからない。部内の雑用全部こなした上で、研究成果を上げろと思われている気もするし、他の人の環境づくりを求められているようにも思う。前者であれば「私はそんなスーパーウーマンではない」、って思うし、後者ならば「これは私の本来に仕事ではない。このままでは嫌だ」と思う。部長に「私の仕事(雑用的部分)を他の人にも分けて欲しい」と言ったら「あなたにそう負担がかかっているとは思えない」と言われてしまいました。

  • kensaku
  • ベストアンサー率22% (2112/9525)
回答No.2

まずは目標を設定することです。今現在、何か目標はありますか? それに期限を設定して、何がなんでもその目標を達成することです。そのために、雑用が多少おろそかになってもいいじゃありませんか。失敗したらどうしようとか、期限までにできなかったら、なんてことは考えないこと。必ずできるんだと信じて、そのことだけを考えて突き進むこと。それで達成できたら、また次の目標を設定すればいいのです。 失敗したらどうするかは、失敗してから考えることです。

hikobae
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「いつかどうにかなってやる」という意気込みはあるのですが、全然具体的ではないです。 もっと短期的で、具体的な目標設定を考えてみます。

  • rimei
  • ベストアンサー率45% (16/35)
回答No.1

「勤勉はぼんくらの代償ではない」  いい言葉ですね。「勤勉」はとても大切な人間の価値です。ただ,「勤勉であること」と「雑用にはげむ」ことはイコールではないのではないでしょうか。 もちろん,「雑用」と言われることであってもそこに仕事としての価値を見出して働いていればそれは勤務内容であって「雑用」ではありません。 私は現在教育職にいますので,教育環境を整える仕事もあります。その中には「雑用」と見られることも多く入っていますが全く気になりません。その仕事がどのような意味を持ちどのような成果につながっていくか自覚しているからです。 ただ,hikobaeさんは研究職ですよね。(私も研究職の卵だったことがあります)研究職についた者が果たすべき役割を考えたときに今の勤務ぶりでよいかどうかは疑問です。研究者は,ひたすら研究に打ち込み研究成果をあげなければなりません。研究意欲の源泉たる問題意識を常に持って取り組むべきです。その研究の成果が今すぐに「実用化」されるかどうかは別問題です。研究の進展に時間がかかることなど二の次です。 今一度,研究職を選んだ時の自分を思いだして下さい。やりたいことがあったでしょう?追求してみたいことやなんとか解決したいことがあったでしょう? 研究者の原点である「こだわり」をとりもどしてください。 それは「雑用」ではなかったはずですよ。

hikobae
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「雑用」という表現の仕方は、したくないのですが、私が言うところの「雑用」の内容を細かく書いても、長くなるし、適切な言葉が見つからなかったので、こう表現しました。 色々耳が痛いですが、ありがとうございます。 原点は、「こういうの(雑用ではないです)好きだった」という位のものでしかなかったように思いますが、こういう仕事に就けたことを幸せに思っています。 甘いですね。私。

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