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「考える」と「思う」はどう違いますか?

「考える」と「思う」はどう違いますか? 私自身は、この2つの言葉はかなり違うものとして理解しておりました。ところが、デカルトのコギトの日本語訳として以下の2つがほとんど同じくらいよく出てきます。 (1)我思う故に我あり。 (2)我考える故に我あり。 ということは、「考える」と「思う」は、一般には、ほとんど同じ意味として扱われているのではないかという疑問が沸いてきました。皆様はどのようにお考えでしょうか? ちなみに、私の理解は以下の通りです。 「考える」は、「言語を用いて」、「意識的に」、「論理的・合理的プロセスを踏んで」行われる操作であるのに対し、「思う」は、通常、「言語を用いずに」、「半無意識に」、「心に思い浮かぶに任せて(必ずしも、論理的・合理的とは限らない)」行われる操作ではないかと思っています。 もし、このように考えると、デカルトのコギトは、「我思う故に我あり」ではなく、「我考える故に我あり」でないとおかしいような気もするのですが、実際のところ、どうなのでしょうか?

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  • ベストアンサー
  • Helfgott
  • ベストアンサー率44% (66/149)
回答No.7

日本語の問題として、「考える」が論理的・意識的・言語的で、 「思う」が、その度合いが薄い、といった区別は、だいたいその 通りだと思います。   私は暑いと思った。   私は暑いと考えた。 と、2つ並べてみると、後者がやや変な感じがすることがわかると 思います。これは、「思う」がどちらかと言えば受動的、「考える」 が能動的なニュアンスがあるために、「暑い」という受動的・感覚的 な心理内容と一緒にすると、違和感をきたすからだと思います。 デカルトの解釈はまた少し別の話です。 Cogito ergo sum(我思う故に我あり)という言葉のラテン語の語感 がどういうものなのか、私はラテン語はわからないので、なんとも わかりません。 ただ、デカルト解釈の問題としては、全てのものを疑う、という方法 的懐疑を経たあとに見出された「Cogito ergo sum」とは、存在論的に 見出される風景、とでもいうべきものではないのかな、と私は思って います。つまり、デカルトは可能な限りの論理性を発揮して考え、あ らゆることを疑ってみるのですが、そのような懐疑の果てに最終的に 見出された「私」とは、思考以前に、どうやっても消すことができな いものとして存在している、受動的なものとみなされているのではな いでしょうか。 そうすると、どちらかというと私の解釈としては、「我思う故に我 あり」の方が、しっくり来る感じがします。つまり、「言語を用い ず」「半無意識に」「心に思い浮かぶに任せて」存在してしまうも のが、「私」だ、ということですね。 微妙なニュアンスの問題でもあるので、日本語訳としては、どちら も出てきてしまうのだと思います。訳している人間の方も、その時 の文脈で、意識的・能動的な思考かどうかの度合いに応じて、訳し 分けているのかもしれませんね。

kobarero
質問者

補足

>どちらかというと私の解釈としては、「我思う故に我あり」の方が、しっくり来る感じがします。 私と逆の受け止め方をされているので、興味を感じました。私は、「意識的に考えているコト」が「我」かと思っていましたが、回答者の方の考えは、「受身的に感じているコト」が「我」だということでしょうか? 確かに、そう考えた方が、東洋人(?)にも納得できそうですが。

その他の回答 (7)

noname#19332
noname#19332
回答No.8

>、「思う」は、通常、「言語を用いずに」、「半無意識に」、「心に思い浮かぶに任せて(必ずしも、論理的・合理的とは限らない)」 デカルトば表象や感情、意志といったものは思惟の様態であると言っています。 つまり思惟なくして表象は存在し得ないと言うことです。 それについてデカルトはこう述べています。 「人間の精神はなんらかの偶有性から成っているのではなく、むしろ純粋の実体である。というのは精神の偶有性がすべて変化するとしても、たとえば別のことを思い、他のことを意志し、別のものを感覚するとしても、精神そのものが別のものになるわけではないからである」

kobarero
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

noname#20142
noname#20142
回答No.6

「我思う故に我あり」は文語的な調子を優先させると「思う」になるのでしょう。原文が詩的な名調子なので、それに合わせた文語調が採用されるのだと思います。もし現代語なら「私は考える。だから私は存在する」などとするはずです。日本語では「考える」と「思う」の使い分けが曖昧で、英語の think を訳すときにも、そのときの状況で「考える」としたり「思う」としたりで、あまり厳密には区別していません。 で、「我思う故に我あり」の「思う」は厳密には「考える」です。 Cogito, ergo sum. の訳としては、フランス語でも英語でも「考える」という単語を充てています: Je pense, donc je suis. (仏語) I think, therefore I am. (英語.I am のかわりに I exist もある)

kobarero
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

  • Gantz10
  • ベストアンサー率17% (20/117)
回答No.5

 この二語、用例からすれば、一般にはさして区別せず使われます。  区別して使いたいなら、自分で事前に再定義してから使うようにしましょう。

kobarero
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

  • gaakaru
  • ベストアンサー率15% (15/99)
回答No.4

簡単なようで難問ですねぇ。 自問自答した時、 問いを考え、答えを思う たとえば (自問)明日の天気を考える。 (自答)明日も晴れると思う。 「我考える故に我ありと思う」 と自問自答してみたら変ですかね?

kobarero
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.3

◇ 特に意識して使い分けているわけではありませんが、 『>通常、「言語を用いずに」、「半無意識に」、「心に思い浮かぶに任せて(必ずしも、論理的・合理的とは限らない)」行なわれる操作』 は、「感じる」という言葉で表現しているような気がします。 個人的には、「考える」も「思う」もほぼ同義で使っているように思いますが、改めて考えてみると、 「考える」のほうは「思う」よりは、述べている内容の論理性について自信がある場合に使用しているような感覚があります。 ◇ デカルトの言葉を正確に訳するとどうなるのかは知りませんが、 ある人は、解釈が茫漠としたものになる類の言葉だと判断して「思う」という言葉を使用し、 別のある人は、その解釈にある程度の確信を抱いた(正しく理解したかどうかは別問題ですが)ために「考える」という言葉を採用したのではないでしょうか。 哲学的ではなく国語的な解釈かもしれませんが、そのように【考え】ました。

kobarero
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

  • 7772
  • ベストアンサー率29% (57/192)
回答No.2

言語にも哲学にも全くの素人ですが私の考えを。 思うは「感じる」の意味を多分に含むと思います。 ですが、考えるのは「感じた」ことについて思索をめぐらせることがだと考えます。 よって、順番としては「思う」→「考える」となります。 ですので、「感じるものを疑う心だけは確かに存在している」と言う意味では、 「我考える故に我あり」が正しいと思われます。 ですが、語呂で考えれば「思ふ」のほうが適切だと感じます。

kobarero
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

  • ymmasayan
  • ベストアンサー率30% (2593/8599)
回答No.1

思考、思索と言う言葉があるように近いと言うか関連の強い言葉のようです。 端的にいうと「Think」と「Feel」と言う感じかなと思います。 「意識的に」「漠然と」という気もします。 おっしゃるように「論理的に」と言うのが重要なキーワードでしょう。 「我思う故に我あり」・・これも美しいものを見て理屈抜きに美しいと感じるのは やはり人間(我)だからという気がするのですが。

kobarero
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

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