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神道(八百万の神様への信仰)の歴史

starfloraの回答

  • starflora
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回答No.5

    No.2 の方の回答で概ね妥当と思えますが、神道と仏教を混ぜた、独特の宗教が造られていた訳ではありません。民衆レベルの習俗として、神社と寺院、神道と仏教が、いっしょくたになっていたので、一応、神道は神道、仏教は仏教で、区別はずっとありました。     蘇我が仏教で物部が神道というのは、図式で、政治的に造られた図式です。物部は大連で、蘇我は大臣ですが、「大連(おおむらじ)」というのは、天皇家直属の軍事氏族の代表です。天皇が、神道の中枢だというなら、物部は大連として、天皇家を守護する必要があったでしょう。大臣は、政治的影響力の大きな大氏族で、軍事力も無論持っていた訳ですが、政争において、物部を斥けるため、「仏教信仰」というものを持ち出したのだとも云えます。また、蘇我は、朝鮮半島からの移住民であると認識されていたのに対し、物部は、古来からの日本列島の氏族と考えられていました。蘇我が仏教を押したのも、古い体制の日本だと、彼らの実力を発揮できないので、仏教を導入して、自分たちの立場を有利にしようとしたのだとも云えます。     この後、天皇も皇族も大豪族も、それぞれ寺院建造に熱中しますが、「仏教信仰」というより、異国の新文化を導入し、守護神として、仏教の如来や菩薩を捧持したのでしょう。従って、すぐに、日本の仏教は、呪術と一緒になって来て、平安時代になって来ると、加持祈祷を行うのが仏僧だということにもなります。     神道の独自性というか、仏教と明らかに区別していたのは、公家官位制を見ると、役職によって分かります。官職は、大きく分けて、「神祇官」と「太政官」になります。神祇官は、神道でまつりごとを行い、太政官は、政治でまつりごとを行うのでしょう。神祇官の長官は神祇伯で、これは従四位ですから、参議と同格で、かなり高い位です。また中務省には「陰陽寮」があり、陰陽道は、神道と道教が混ぜ合わさった奇妙なものですが、仏教というより神道でしょう。仏教に関係した官職は、式部省の明経博士辺りではないかと思いますが、これは、漢文学者の最高位文章博士の下にあります。     聖武天皇は国策として仏教を広め、仏教による日本の先進化を試みたのですが、神祇伯や陰陽寮のような、神道あるいは、それに準じる神職的人物がつく公的官職はありましたが、仏僧がつく公的官職というものはありません。天皇が、シャーマン王で、最大の神官だとも云えますから、国家体制がそうなっているのは当然だとも云えます。     仏教と神道は並列して存在していたのだと思います。神道の大神官の天皇が、仏教に帰依したり、入道するのは、何か矛盾なので、仏教と神道は、本質は同じだなどという考えをしたのですが、やはり違うものであるのです。     神道は、朝廷の保護を基本的に受けていましたし、日本の地方の宗教はみな自然神道であった訳で、それらが集合したりして、勢力が大きくなったりしたりしました。他方、仏教は、インドにおいても中国においても、高度に思弁的な思想を持った体系であり、鎌倉仏教になって来ると、加持祈祷の形だけの仏教ではなく、仏教の思想が重要であるとなり、ここで「新仏教」として、新しい宗派が色々起こりました。     仏教は、ある程度意図的に、その教えや勢力を、全国に広めようとしたのです。日本の仏教は大乗仏教ですから、衆生を救う活動をするというのは自然な発想でしょう。他方、神道は、広めようとして広まったのではなく、すでに広まっていた信仰が、段々形を変えたり、また相互影響したりとして、組織化されて来たのでしょう。     仏教の活躍が歴史に明確に見えるのは、外来宗教・外来思想として、日本に広まり、土着化する過程で、様々な事件があり、卓越した人物が新しい宗派や思想を起こしたからでしょう。他方、神道側であまり有名な人の名がないのは、考えてみれば、歴代天皇が、神道の大神官で、神道でもっともポピュラーな、天照大神などの子孫だと称しているし、みなそう信じていたのですから、発展の余地がなかったというか、十分に発展してしまっていたのだとも云えます。     神社と寺院は、確かに隣接的にありましたが、神職と仏僧は別のもので、なかには両方兼ね備えていた人もいたかも知れませんが、基本的に別の役割を持つ、別の機能者です。     神社と寺院をセットにしたのは、江戸時代の檀家制度でしょう。反キリスト教のため、一種の戸籍制度として、統制制度として寺を利用した結果、日本人はみな仏教徒になり、しかし、同時に、古くからの神道の信者でもあるので、神社に寺院を並立し、神社だけあって寺院のない場所には、寺院を造って、日本全国、寺院檀家制度で、統制したのでしょう。     江戸時代の官職で、「寺社奉行」というのは、「町奉行」や「勘定奉行」が老中支配下にあったのに対し、将軍直属で、同じ「奉行で」でも格が違っています。大岡越前は、町奉行として、吉宗の改革のブレーンだったのですが、出世して最終的に、寺社奉行・従五位越前守・一万石の大名になりました。     寺社奉行支配下で、神社と寺院と同じに扱っていたかというと、また違う訳で、同じにしていたら、本当に神仏教のようなものに、神仏院とかいう寺でも神社でもない訳の分からないものになっていたでしょう。江戸時代でも、この両者は截然と区別されていたのです。     神道は、それを民衆共同体が支えて来たのであり、仏教は、江戸幕府の政策や庇護もあり、また布教に熱心でもあったので、よく目立つのですが、神道の神社は、日本の歴史を通じて、民衆の心を支え、民衆の心が支えて来たのです。「村の鎮守」というのが、日本全国にあった訳で、明治政府の「国家神道」政策も、この根強い伝統の神道の上で、民衆神道を統制してまとめようとしたということになります。  

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