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道祖神について

道祖神は男女ペアのもの、単体のもの、性器の形をしたもの、お地蔵様と一体化したものなど、多種多様な形があるようです。もともとは神話に由来する塞の神だといわれるようですが、これほど多様な形になっているのはなぜでしょうか。例えば、疫病を防ぐのになぜ男女のペアの神様なのかなど、信仰の由来が全くわかりません。色々な信仰がごちゃ混ぜになっているのだとは思いますが、すっきりと解説している書籍などあったら知りたいと思っています。

noname#24690
noname#24690
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  • Pinhole-09
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回答No.2

「日本史大事典」 平凡社と 大島建彦 「道祖神と地蔵」 三弥井書店 の序章が参考になるでしょう。 ご質問の点は中国の行厄神である、道祖神の信仰が日本に伝わり、障(さえ)の神のひとつである、いざなぎ、いざなみの尊の信仰と重なり、男女の対になったのではないかと思います。

参考URL:
http://okwave.jp/kotaeru.php3?qid=2150152
noname#24690
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 イザナギ・イザナミは国づくりの最初のカップルですね。そこにはどんな信仰があるのか興味があります。道祖神は本当に多種多様ですが、とりあえず、さえの神がカップルになった経緯が知りたいですね。

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  • Pinhole-09
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回答No.5

いつも時間足らずなので、空けて貰っていて助かります。   面白い本がありましたので紹介します。 山崎省三 「道祖神は招く」 新潮社    出版社の方ですが、そのほうの専門家の本より参考になります。   もとよりこれで疑問がさっぱりと解決するどころか、ますます泥沼に入り込むように、道祖神の世界は奥深いものですが、読まれてなければ一読をお勧めします。   足で稼いで写真も多く楽しい本です。    もともと道祖神は中国の神で、道中の安全と道案内を務めるとあります。    日本でも同じ役の神話の猿田彦や八街(やちまた)神がおり、容易に受け入れられ辻に建てられたでしょうが、これと障の神、岐の神、子孫繁栄の神、子育ての地蔵、六地蔵、石信仰などごちゃごちゃと混じりあった由来は面白いが判りにくいものです。 この本によると、男女二体像がサルタヒコとアメノウズメに由来するものもあるようです。

  • Pinhole-09
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回答No.4

古事記を見ると、その通りです。   いざなぎの尊か、石が障の神と云うことになりますが、夫婦仲の円満や、子孫繁栄を願い道祖神を祭ったとありますから、男女の対として国つくりの両尊、を祭ったのではないでしょうか。  岐神とか御霊として。

noname#24690
質問者

お礼

何度もご回答ありがとうございました。 ちょっとまだ釈然としない感じがありますので、失礼ですがもう少しあけておきたいと思いますのでご了解ください。

  • Pinhole-09
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回答No.3

No.2です。 いざなぎの尊は、いざなみの尊が亡くなったあと、いざなみを連れ戻すために黄泉の国へ入ります。  いざなみを連れて逃げる時、死の神に追いかけられ、この世と黄泉の国を分ける、黄泉比良坂(よみひらさか)に千引石(ちびきのいわ)を置いて道を塞ぎ助かりました。 この神話に基づいたものでしょう。   当然石を道祖神としたものも、多く見られます。(性器の意味の石もありますが)

noname#24690
質問者

お礼

再度ありがとうございます。 確かにイザナギとイザナミの二人はアマテラスとか色々な神様を誕生させますので、そういう意味で信仰があっても納得できます。ただどうしても気になるんですが、イザナミは死んだ後イザナギを黄泉の国から追いかけてきて、千引の石のところで「お前の国の人間を千人ずつ死なせる」というようなことまで言っています。道祖神のもともとの役目がサエノ神なら、その機能は千引の石のようなものです。そこにイザナギとイザナミが仲良く並ぶ姿はどうも解釈に困るんですが。

回答No.1

石仏巡りをしていますのでいろんな本を読みましたが、読んだだけで、理解できたわけではありません。 民俗学会会員・金森敦子著『石の旅』の中に、「性神考」という考察があります。 「道祖神」は、中国からきた文字をそのまま呼んだもので、日本の古俗では「サエノカミ」。サエは「塞」で、「ふさぐ、遮る」意味で、外から浸入してくる邪霊を防ぎ止める神。だが、近世以降の像は、作神、縁結び、夫婦和合など性神的なにおいが強い。元の「塞ぎ」はかなり薄い。なぜなのか。 http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%8B%E0%90X%93%D6%8Eq/list.html 私自身は、次のURL「道祖神の説明」が分かりやすいと思います。 道祖神を「さいの神」とか「せいの神」とか呼ぶ地方もある。「せいの神」は 本来「さいの神」が訛ったものであったのだろうが、「性」と結びついて別の物になっていく。 http://www22.ocn.ne.jp/~kuroneko/dosojin3.htm 回答にはなりませんが、ご参考まで。

noname#24690
質問者

お礼

どうもご回答ありがとうございます。サイトの方も参考になりました。 ざっとまとめると、外から侵入する悪をさえぎる役目だったのが、「性」と結びついて段々変質したという見解ということですね。私は「性」そのものに何か呪術的な機能もあったりするのかな、などという気もするんですが。東北のほうには、藁で作って燃やすまねをするような道祖神もあるそうです。一口で道祖神といっても、ほんとにたくさんのバリエーションがあって驚きます。

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