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時の流れが悲しく感じることはありますか?

当たり前のことですが、生きててく上で時間は刻々と 経過していきます。 でもなぜかその「時間」というものが無常なほどに悲しく 感じることがあります。 例えば、仲間と過ごし、すごく楽しかった今日という日。 でも、時が今日という日は遠い過去となり、記憶から薄れてしまう。 身の回りの存在だって同じ事。例えば親。 どんどん年をとっていく。体はどんどん弱っていく。 やがては死んでしまう。 時間の経過を悲しく思うと同時に怖く思うこともあります。 未来への不安なのでしょうか? ん~~~。どう言葉で表現してよいか分かりませんが、 私と同じような感覚をもったことのある方、ぜひともコメント 頂きたいと思います。よろしくお願いいたします。

noname#24134
noname#24134

質問者が選んだベストアンサー

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noname#153101
noname#153101
回答No.6

こんにちは。 私も以前はそう思っていました。 皆、ある時期・ある程度感じることだと思います。 しかし冷静に物事を見てみると、だからこそ”その瞬間・命・様々な関係”時間と共に移り行く全てのものが価値あるものであること・愛しいものであることを感じると思います。 諸行無常を自然の摂理だと捉える事で悲しさ、怖さというのは私の中から無くなりました。 専門的なことは全く分かりませんが 例えば、「友人と過ごした楽しい時間」 楽しかった、しかし時間が経過することで忘れてしまう。 忘れたくない、だからこそ自分の記憶に強く残しておこう。 薄れていく間、後に振り返ることで楽しかった時間に美しさや感慨を憶えることができる。 その後の支えになることもあるでしょうし、自分の成長を確認することもできる。 「自分の両親」 自分が成長するごとに確実に歳を重ねる両親、時間の無常さを感じると共にやらなければいけないことが見えてくる。 摂理によれば先に逝ってしまう、だからこそ今感謝や親孝行をしておこう。 沢山の楽しい時間を過ごそうとも思える。そしてそれを実行する勇気が出る。 ・・・うぅ~ん、説明がイマイチで申し訳ないですが 時間の経過が無ければ、感じること・行動することなく終わってしまうことが経験できるようになる。 今がどれだけ大切なのかを教えてくれる時間の経過、素晴らしい法則だと今は思っています。 哲学のカテゴリーだと色々詳しく解説してくれる方がいるとは思いますが、私なりに「”無常=非情”ではないと思います」ということをお伝えできたらと思いました。

その他の回答 (6)

回答No.7

こんにちは。 自分にも、 時の流れを悲しく感じることはあります。 そのときを愛しく感じるからです。 それと同じくらい 時の流れにも、よいことがあります。 ひとつには、時の流れのちからを借りて得られるもの。 たとえば、 経験を得ながら、 自分を広げていく。 上の世代のひとたちと話をしながら、 過去・現在・未来を感じる。 亡くなった人の言動や表情を思い浮かべながら、 数多くの自問というか自分と話をする。 あと、そういうことを一回りしてみたあと、 時という大きな乗り物にぽっと一回乗った自分、 降りるのも一回だけなんだとおもうと、 ものすごく力が沸いてきます。

  • tips
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回答No.5

こんにちは。 自分は、なるべく自分よりも年上の身内との 時間を、その人たちが元気なうちに 積極的にとるようにしています。 たしかに、時が流れると悲しいとおもうけれど 時が流れることで、自分の経験が広がって 物事に対して、広い心ややさしい心で 接する事ができる気がするので、時が流れるのも いいことだとおもいます。 小学生のころ、たしか、10歳の誕生日に 9歳から10歳の二桁になったときに、 ものすごく、感慨深かったことを、覚えています。 哀しいというか、人間いつか、死ぬんだなぁと 当たり前の事を、誕生日の夜、寝る前に一人心の中で 考えました。

  • 6izt
  • ベストアンサー率12% (25/204)
回答No.4

今はあまり思わなくなりましたが、何年か前には大晦日の除夜の鐘を聞いている時に諸行無常を感じました。 寂しいというか、哀しい気持ちになりましたね。 そういう気持ちがあるからすばらしい詩や俳句を残してくれる先人がいて、読んだ人も共感するのだと思います。

回答No.3

楽しい時間が過ぎ去っていくのは悲しいですね。 でも、大丈夫ですよ。過ぎ去った後にも楽しいことはたくさんあるはず。 例えば、高齢になれば仕事をしなくていいからいろいろ好きなことが出来ます。 親が亡くなるのは悲しいことですが、新たに孫が生まれる喜びもあるでしょう。 どんな時代でも、楽しくしようと思えば楽しくなります。だから、自分は将来に不安はあまりありません。

  • semisweet
  • ベストアンサー率11% (5/45)
回答No.2

友人の母親がお亡くなりになったとき、いつも気丈な彼女が、棺おけに蓋をするとき泣き叫んでいた様子を見て・・・いつか私もこの経験をするのかと思うと、時が流れるのが怖くなりました。 いつか味わうのだろうけど、一生味わいたくないです。

  • INUNCHU
  • ベストアンサー率25% (1/4)
回答No.1

その考えは、非常に人間的なことです。 その不安と似たモノが、下にあります。

参考URL:
http://plus.hangame.co.jp/browse/db_detail.php?dir_id=1104&docid=39704

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