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水戸藩の参勤交代について
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水戸藩主は常時江戸にいるのが原則であり、そのため参勤交代はありません。もちろん、ごくまれに将軍の許可を得て水戸に帰る場合もありましたが、参勤交代というのはあくまでも毎年領地と江戸の間をいったりきたりすることなので、たまに領地に帰るのは参勤交代とは言いません。 そのため水戸藩主は一生のうち水戸にはほとんどいませんでした。 水戸藩主のほかにも参勤交代をしない大名はありますし、老中・若年寄ほかの幕府の役職についている大名も在職中は江戸にいたきりなので参勤交代をしません。
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大名には参勤交代を行わないものもいて「定府大名」と言います。 柳生新陰流で有名な柳生家(大和)や江戸町奉行大岡忠相の西大平藩や糸魚川藩、七日市藩など。 水戸藩もこの定府大名の一つで、藩主は江戸にいて、国許と江戸の2つの藩邸維持のため、金銭的には厳しかったようです。 ところで江戸時代に「天下の副将軍」は水戸光圀ですが、もう1つ副将軍と呼ばれた家が喜連川藩であり、ここの藩主は形式的には徳川氏の客将(家臣ではない)のため、参勤交代は随意とされていました。 喜連川家が絶えたときは水戸家から世継ぎを出す慣習で、幕末に水戸藩主の徳川斉昭の息子の縄氏が養子に入り、名実ともに副将軍となりました。 こちらの副将軍は足利幕府の副将軍で、鎌倉公方を「副将軍」と呼んだ習いによります。 これは雑学として!
- m4691
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以前の質問に答えがあります。
- shigure136
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水戸徳川家(みととくがわけ)は、常陸国水戸にあった徳川氏の一支系で、徳川御三家のひとつです。単に水戸家ともいいます。 徳川家康の十一男徳川頼房を家祖とし、江戸時代を通じて水戸藩を治めました。 水戸家当主は将軍の補佐役を担い、参勤交代せず江戸定府と決められていました。 さらに御三家であるにもかかわらず、水戸家からは将軍は出さないのが原則でした。 しかし、一橋徳川家の養子に入っていた九代藩主斉昭の子慶喜が十五代将軍となり、江戸幕府最後の将軍を出すこととなったのです。
- tachiuo
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もちろん、水戸は江戸ではありません!水戸藩主は江戸に住み、領地である水戸には住んでいないということですが…例えば、現代でも実際に住んでいる所から遠く離れた所に土地や家屋を持っている人がいますね。領地に住まない領主は、他に幾らでもいます。旗本は江戸に住んでいますが、旗本領は江戸近郊とは限りません。 「お代官様」という言葉がありますね。これは誰の「代わり」なのかというと、領主の代わりです(天領なら将軍の代わり)。領主に代わって現地の行政を行う人物のことをいいます。こうした役割の人がいますから、お殿様が領地にいなくても大丈夫なのです。 なお、『水戸黄門』は水戸から出発しますね。光圀が水戸に住むようになったのは、隠居してからです。「現役時代」は江戸に住んでいました。
- merlionXX
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江戸定府とは、常に江戸に居るということです。通常は大名の妻子が江戸定府ですね。また各藩の侍にも常に江戸に駐在している江戸定府の家臣がいました。 で、水戸徳川家は副将軍家なので参勤交代で国許に帰ることが許されず、将軍を補佐してずっと江戸にいるいうことです。
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