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道徳の基礎のついて教えてください

jumeの回答

  • jume
  • ベストアンサー率46% (71/152)
回答No.3

道徳はニヒリズムです。なぜなら道徳は表層的な言葉でしかないからです。あれをしてはいけない、これをしてはいけない、こうすべきだ、ああすべきだ…とルール、教条、規範を言葉で編み上げます。でも、それは人間が他者と有機的につながり、その瞬間、瞬間に「出会う」ことで関係を更新してゆく作業を反故にすることに均しい。つまり個人と個人との関係は形式主義(死んだ関係)に陥るのです。言い換えれば、人と人との関係性は、言葉で規定されなくても、十分共同体を維持する程度には機能するということです。むしろ、共同体の本質は、後付けで設けられた言葉の縛りより、人と人が共に生きることを許しているということにある。道徳を言葉で規定しようとする動きは、このところの基本的信頼感を欠いています。 もしも、やって良いことと、悪いことに基礎があるのなら、言葉ではなく、むしろ、その身体にこそあるのだと思います。なぜなら人は、身体を持つことで共感することができるからです。自分では一生、直視することのない顔に表れる表情を読み他者の悲しみを理解し、体から血を流しのた打ち回る人を見て他者の痛みを理解する、その機能を共感と呼びます。これは他者と共同的な生活をすることによってのみ身につきます。言葉で教条的に理解されるものではあり得ません。 私の念頭にはニーチェ、レヴィナスといった近代哲学の批判としての哲学思想があります。近代哲学が同一性の哲学とするなら、それへの批判は否定同一性によって構成されます。興味がおありでしたら、それらの哲学者の入門書などを読まれることをおすすめします。たとえばニーチェは、19世紀の終わりに「神は死んだ」と書き記し、キリスト教世界の道徳の終焉を告げました。そして神を殺したのは、紛れもない、私たち自身(キリスト教世界の構造)だと、狂気の男の言葉を借りて書きました。またレヴィナスは、強制収容所から帰ったユダヤ系の哲学者です。彼に限らず、20世紀の哲学は収容所のトラウマから自由になることはできませんでした。レヴィナスの第一哲学は倫理です。そして"顔"に表象される他者性こそが、「汝、殺すなかれ」という訴えの根拠だ、と述べています。人は顔によって個人を区別し、愛着を覚え、悲しみを感じる。だから愛する人が亡くなったとき、その人の顔を、つまり遺影を掲げるのでしょう。それは、たとえば死体が、まだ人称で呼ばれることと深いところでつながっています(誰々さんの死体ではなく、誰々さんと呼ばれる)。死体が屍体となりもはや物体として扱われるようになると顔も意味を持たなくなります。

hamachihamaguri
質問者

お礼

難しい言葉が多く、ちょっと理解しずらいですね・・・。もしよかったら、もう少し噛み砕いていただけないでしょうか?すみません。

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