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旧約・新約聖書についての質問です。

starfloraの回答

  • starflora
  • ベストアンサー率61% (647/1050)
回答No.6

    もう一つの「文化人類学」の方の質問も見たのですが、難しすぎるのと、答えにくい理由が色々あって、答えていません。こんな難しい質問に対し、どう答えるのか分からないからです。(特に、信仰が関係してくるので、よけいに書きにくいのと、もう一つ、イエスまたはイエズスのことを、「ジーザス」と書いていることが、違和感以上のおかしさを感じるのです。日本語で聖書と読めば、どこにも「ジーザス」など出てこないはずです。英語で読んだのかと思えば、ルカだとかヨハネだとか言っていますし。英語だと、これらは、ルークまたジョンのはずです。大体、ギリシア語のイエススに一番近い普通に使われる言葉は、「イエズス」で、ジーザスなどというのは、何かということです。少なくとも英米人には、まともに自分たちの「主の名」もできるだけ正確に読もうという意志がないようです。なんでイエズスがジーザスなのですか? そんないい加減な人間には、時間を割いて難しい問いに答える気になれないということで、先はパスしました。しかし、これについては、面白くないのですが、答えてみます)。     1)モーセの話は忘れているようです。ただ、答えとしては、旧約のヤハウェは、『旧約聖書』をよく読めば分かりますが、目先のことだけで行動し、身勝手で自分勝手で、人間には色々約束を守ることを求めたり、自分の意に沿わないと言っては不条理な報復をしたり、自分の方は平気で約束を破って恥じることのない神です。紀元前第千年期頃の「神」というと、こういう不合理な面が多々あったので、ヤハウェだけが、問題ではありませんが、現代の常識から考えると、ヤハウェは、「神」らしくないのです。というか、「愛の神」ではなく、自分で定めた「律法」に人間が従うことは要求するが、自分は神であるので、人間との約束などには従わなくともよいという「義の神」で、当時、神とはこういうものであったので、別に不思議はないのです。『旧約聖書』のなかで、敢然と、「神に非がある、神こそ自覚せよ」ということを間接的ですが、明確に述べたのは、『ヨブ記』のヨブです。     2)エジプト神王ファラオについては、ファラオやエジプトの側から事件を眺めるとどうなるかということを考えてください。モーセの要求や、また、要求を聞かなければこうするぞと脅しをかけ、実際にその脅しを実現し、悪しきことや、疫病や、あまつさえ、罪のない子どもの大量殺戮をしたのは、モーセとその神でしょう、記述に従えば。こんな暴力主義で無茶苦茶な無法者の言うことを何故、聞く必要があるでしょうか。エジプトの統治者として、ユダヤ人は奴隷ではなかったはずですが、下層の労働力として国のためには必要であり、モーセの虫のよい要求など聞き入れることはできないでしょう。また、ヤハウェが「パロの心を硬くした」とも書いてありませんか? 神が全能なら、パロの心を硬くするのではなく、穏やかにし、ユダヤ人の要求を穏やかに受け入れるようにすることもできたはずです。神がおられるなら、これは神の御意志ではないでしょう。ユダヤ人が、自分たちの乱暴狼藉な無法を合理化するために「神の名」を出しているのだと考えた方が筋が通るでしょう。     3)「十二使徒」は、十二人が定員で、その定員に入らなかったろいうことです。ユダが十二使徒から外れた後、確か、別の人で補っています。     4)マグダラのマリアについては問題が難しくなります。或る研究者は、イエズスの教団の元々の主導者は、女性信徒たちで、マグダラのマリアは、その代表であったという見解を示しています。わたしはこの考えに賛同します。どの段階かで、男達が、自分たちの救世主にイエズスを仕立て上げ、都合の悪い、マグダラのマリアなどは、「元娼婦」などと貶めても、事実隠蔽したのだと考えられます。福音書の記述を注意深く読むと、例えば、イエズスの処刑には、女性信徒しか立ち会っていないこと、また死後のイエズスの墓を尋ねたのは、女性たちであったことが記されています。色々、考えられるのですが、師の処刑に、たとえ命を賭しても、立ち会わない弟子がいるでしょうか? ポンティオ・ピラトゥスの判断は、介入したくないものを無理にイエズスを死刑にせざるを得なかったというものです。女性達こそ、真の弟子で、本来の弟子たちの中核だたと考える方が自然なのです。     5)四福音書の記述が違うことは、最初から、これらをカノンにカトリックが定めた時から分かっていました。敢えて、内容の違う福音書を四つ、聖典に定めたのです。これは、福音書が、客観記録などではないからです。色々な立場からはイエズスは色々に見えた。記録の食い違いはそういうことなのだろうと言うことです。これらを統一することもできたでしょうが、しなかった、またはできなかったのでしょう。歴史的に「福音書」は成立したものですから、食い違いがあって当然です。逆に、何故似ているのかが問題でしょう。似ているのは、福音書は、特に、「マルコ・マタイ・ルカ」は、『Q』と仮称されている、想定される「イエズスの語録集」を参照したので、イエズスの言葉で同じものが多いのだとされます。これら三つを、『共観福音書』と呼びます。「ヨハネ福音書」がかなり変わっているのであり、これは、グノーシス主義またはグノーシス思想との関連があります。元々グノーシス主義の書物だったのかも知れません。少なくともその一部は、純然たるグノーシス文書と考えざるを得ません。「ルカ福音書」は、たいへん文学的で、ルカが一番ギリシア語の文章力があり、文章を書く力量もあったと言われます。ルカによる脚色がかなりあるとわたしは思います。     6)「主の名を妄りに唱えてはならない」というのは、「名」は、その存在の本質なのです。イエズスの教えに、「御名が崇められますよう」と祈りなさい、というのがありますが、エホバの証人は、主の名を妄りに唱えるな、がこのイエズスの教えと矛盾すると言います。しかし、まさに、「名」が「神の本質」であるからこそ、「御名が崇められますよう」のはずです。「御名を尊ぶ」というのは、「軽率に神の名を使ってはならない」というのと矛盾しません。「妄りに唱えてはならない」は、何かと言えば、「神よ、神よ」という風に神を呼ぶなということでしょう。神の名は、復元推定されているところでは、「ヤハウェ」です。「イェホヴァ(エホバは、日本人に読みやすいよう歪曲しています)」などでないと言うことは、簡単に証明されますし、昔から分かっていました。ヤハウェは固有名詞で、残念ですが、「神」の意味はないはずです。「アッラー」は、英語だと、まさに、The God というアラビア語ですが。ヘブライ語で、神は、エルまたは、複数でエロヒームです。  

isiatama
質問者

お礼

お答えどうもありがとうございます。「いい加減な人間には答える気にならない」 とご指摘がありましたが、その割にはずいぶんとご説明して下さっているので、 何か申し訳なく思うのと同時に、ありがたく思いました。 私がジーザス、と呼ぶ(書く?)のにはちょっと変な癖がありまして、もともとはイエス様、と言っていたのですが英会話教室に行くようになってから、「ジーザス」という発音をしないと通じなくなってしまった・・・というのがあります。マタイ、と言ったら「マシュ―」と直されてしまいました。・・・でも、人のせいにしてはいけませんね。これから気をつけます。 お腹立ちも多いかとは思いますが、すみません。でも、ありがとう。

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