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西国武士の俸禄

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江戸時代の西国では武士の高給取りでも銀で家禄もらってたのですか?1分銀集めて。
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質問者が選んだベストアンサー

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レベル12

ベストアンサー率 37% (278/744)

以下の文献を読むと俸禄が銀で支払われたこともあるのかもしれませんが、西国武士の場合かどうかは確認出来ませんでした。

江戸時代に入ると,独自に領国を支配していた諸大名も改めて徳川将軍から俸禄を与えられた近世大名として再編成された。その過程で将軍・大名の家臣として組織された武士は,居住地を離れて主君の城下に集住させられた。

江戸時代初期にはこのような武士の俸禄として,知行する所領を与える地方(じかた)知行と,直接,米・金を給する蔵米給与の形態があった。しかし幕藩体制の確立とともに,家臣団の知行権は制限されてしだいに蔵米給与に切り替えられ,武士と所領との関係が断ち切られるようになった。

こうして知行取りといわれた上級の家臣も,ほとんどは知行高に一定の年貢の割合を乗じたものを主君の蔵米から支給されるにすぎなくなった。たとえば知行500石取りの者は,四つ物成(ものなり)なら200石,三つ五分なら175石が与えられるわけであるが,【しばしばその一部を金に換算して渡された。】

また地方知行がもとのまま残っている場合も年貢として徴収できる現物の数量は主君によって定められていた。知行地とまったく関係のない蔵米給与は,切米(きりまい)と扶持米(ふちまい)に大別できる。切米は中・下級の家臣に与えられる俸禄で何石ないし何俵で示され,初め年俸として1回に支給したが,しだいに2回に分けさらに3回に分けて春借米・夏借米・冬切米と呼ぶようになった。これに対して扶持米は下級の家臣に与えられるもので,1人1日5合の割で計算した年間の玄米の量を一人扶持とし,何人扶持で示し毎月支給した。切米・扶持米も金に替えて支給することがしばしば行われた。これらの俸禄は家禄・世禄となり職務と対応しなくなっていったので,役職につくと種々の役俸がついた。やがて明治維新を迎え金禄公債発行をもって近世的俸禄は廃止された。

また、他の記事では、
江戸時代、武士の俸禄は米が基本だが、『蝦夷国まぼろし』(夏堀正元著・中公文庫)によると、米の取れなかった松前藩では、米の代わりに沿岸の漁場を区分して、家臣たちに分配していたそうだ。

これを「場所」といい、重臣ほど多くの場所を持ち、下級武士の一部や足軽などには、東北地方から買い入れた扶持米が与えられた。
家臣たちはその場所=漁場から獲れた海産物を商人と直接取引して、生活を立てるのが建前だったが、実際には近江商人を主とする人たち(=場所請負人)に場所の管理を代行せていたという。

場所からとれる海産物の花形は、ニシン(鯡)。「ニシンは米とおなじ、いや、それ以上の価値がある。ニシンはしたがって、魚ニ非ラズ」ということからいつのまにか「鯡」という言葉が生まれたくらいだ。

このように俸禄制度は、時代と土地で流動的に運用されていたことも考えられます。
銀で支払われる事は大変な事かもしれませんが、金が使われていた事を考えると、あながち否定は出来ないかもしれませんね。
お礼コメント
mersess

お礼率 96% (957/992)

わざわざ調べてくださったのですね。利用させていただきます。ありがとうございました。
投稿日時 - 2006-02-22 18:31:54
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