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「価値と・・・」所有

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回答No.2

>哲学では所有についての始源的な考察は行われているのでしょうか。 西洋哲学史でなされた功績は、自分とは自分であるか?自分とは自分の所有であるか?という疑問を、社会に提示したことです。考察は行われ、西洋哲学は、独我論に行き着いたのです。独我論が最も論理的でした。ハイデッガーなどは、自己矛盾に陥っていることがわかりながら、本を書いていました。 独我論は、超えれます。 所有できるようなものは何一つありません。 うさぎが草を食べ、鷹がうさぎをさらってしまうけれども、うさぎは草ともろもろでできており、鷹はうさぎと諸々でできています。それは、この世の輪廻として簡潔にわかります。(輪廻を、哲学思想として考えてください) 人間の精神もまた同じです。 言葉にしても、認識にしてもです。最も重要な理解は、自分も自分のものでないという理解です。言語や認識は、発した時点で一人歩きします。それが、あなたの思考の中でもです。 ボウルに、そのボウルを入れることは出来ません。 はかりで、そのはかりを計ることは出来ません。 自分の器を知るとは、自分がSaladabowlなのか、光粒子計なのか、を、知ることです。 つまり、「自分は自分である」と知ることです。 fishbowlは、fishbowlです。 (さんをつけたいんですが、文意がにごるので避けさせて頂きました。) そして、自分において自分などなく、すべてにおいて、自分があるという認識を得ます。 胸を親指で指し、「私」と言うことを薦めます。それは、あなたが、僕のように頭だけでなく、実に、個人を得るためです。そこで、独我論と対峙してください。あなたが逃げずに、他に惑わされずに、対峙し続けていると、それを超えると言う展望がまず開けます。(僕の状態)そして、すぐに実感を得るようになります。 そして、指で胸を指しても「私」と発しても納得出来なくなり、ついには、何も指で指し示すようなことに、納得できなくなります。そうして、正しい理解はなされるようになります。その次に、空観を得るようになります。空観を得ると、悟りが始まります。こだわりがなくなり、自由を得ます。でも、空観は並ぶ者のない言葉ですが、悟りへの、一つの道に過ぎません。あなたには、あなたが通るべき道があるでしょう。もし、空観を先に得ずとも、あなたはあなたを得ているので、何も問題はありません。その内に、悟りをえることになるでしょう。 あなたが、あなたという場所に立ち、あなたという道を行っていることがわかります。 あなたを忘れれば、すべて忘れてしまいます。独我論の所は、気をつけて通ってください。あなたは通れるでしょう。しかし、独我論もまた一つの道に過ぎません。あなたがあなたを得ると言う事を知っていれば、何も怖くありません。一つの道に囚われることはありませんが、あなたを求めると言う意味ではどの道も同じです。 あなたがあなたを得るように、。

noname#1317
質問者

お礼

caballeroさん、ご回答有難うございます。 >自分とは自分の所有であるか? 病気のときなど特にそんな感じがしますね。 仕事に行かなくてはならないのに、体は自分の意思に反して、高熱を出したり、腰が痛かったりしますしね。 それにしても、大地の下に象がいると考えていたような時代から輪廻の概念が生まれていることには驚かされます。caballeroさん、おだてないで下さい、私にとっての哲学は手段で目的では有りませんから悟りを得ることはないと思いますよ。

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