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何故「権利」には「義務」が伴うと考えるのでしょうか?

baihuの回答

  • baihu
  • ベストアンサー率31% (114/357)
回答No.3

権利は、たとえおっしゃるような「生存権」や「自由」であれ、ある利益を主張してそれを受け取ることができるとされているものだと思います。どんな利益でも主張はできますが、それを受け取れるか否かは、その社会によって様々な条件が付いてくる、本来的に限定的なものではないでしょうか。極端な例では、死刑は受刑者の「生存権」を否定します。 ご指摘のとおり、義務は社会によって変わります。ですが、権利が不変というご意見は、上記の例のように違っていると思います。 でも、いくら各々の社会で決められることであっても、あまりに妥当ではない権利義務のセットを持ち出されても困りますよね。「給料上げてほしいんだったら、みんなと同じくらいサービス残業してから言え」とか。(←違法(笑))

noname#1758
質問者

お礼

「返礼」が遅くなりまして、スミマセンでした。 「補足・返答」の場では、生意気な事を書かせていただき、お怒りの「回答」も無く、黙認していただいたものと、感謝しております。 「baihu」様には、「どんな利益でも主張はできますが、それを受け取れるか否かは、その社会によって様々な条件が付いてくる、本来的に限定的なものではないでしょうか。」と、歴史的制約の考察を、教えていただきました。 此処に、「返礼」の遅れを反省し、それと共に、感謝の気持ちを込めて、 「遅くなり、スミマセンでした。そして、有難う御座います。」

noname#1758
質問者

補足

ウーん、「死刑制度」ですかー。 私が考えるに、「生存権」を含め、様々な諸「権利」「自由」を制限・剥奪する事は、有ってはならない事です。 それ故、「権利」「自由」の制限・剥奪は、社会の「公共利益」と、有ってはならない「権利」「自由」の制限・剥奪を慎重に勘案し、個人の感情・利益などに左右されない第三者機関(裁判所)でのみ判断を許されているものと考えます。 それ故、複数の審理が在るのであり、重大な憲法問題などは、複数の裁判官の多数決判断になるのではないでしょうか。 ですから、「死刑制度」「懲役制度」などの、極端な「権利」「自由」の制限・剥奪は、例外規定と考えます。 「権利が不変というご意見は、上記の例のように違っていると思います。」の、「権利は不変」というのは、不変・普遍にして行かなければならないものと考えます。 色々勉強になりました。 特に、この補足を書くために、曖昧模糊としていた考えを明確化するために、様々な角度から、再確認する事になりました。勉強の良い機会を与えてくださり、大変感謝しています。 なお、返事が遅くなり、恐縮いたします。 簡単なお返事を書く気にならず、時間を取ってしまいました。

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