• 締切済み

孤独に感じます。あなたは、どう思いますか?

タイトルの通りなのですが、最近は強く感じています。以前から、強弱はあるものの、『人は基本的に孤独』であると、私は思いますが皆さんは、どう思いますか? テレビの音が雑音にしか聞こえない、その場その場のみの会話、損得勘定の人間関係、一方的な愛情、いろいろあります。逆の場合でも、いつか終わる日が来ると思うと…(寿命、事故、対立etc.)干渉してくるとウザイし、無干渉だと寂しい、その中間で、絶妙なバランスで均衡しているのが現状です。(若干、寂しく思う) えっと、哲学の方か迷いましたが、こちらに掲載させていただきます。私の場合、孤独であると結論が出ているため、カウンセリングは要りません。思いつく限りで説明したのですが、説明不足は随時補足していきたいと思っていますので、御意見よろしくお願いします。 

みんなの回答

回答No.7

人間はやはり根本的に孤独なものだと思います。 人はそれぞれ個性があるわけで、ちがうんですから。 わたしは本当にあいしている彼がいますが、それでも やはり、孤独とおもう不思議な感覚におそわれますね。 ただ、それを現実としてうけとめていくこと、 孤独なんだって認めることで  かえって前向きになれる気はしますね。  孤独だけど、まあ、いろいろ人にはあうし  そんなもんだなって  冷めた感じですがそれが現実でしょうね。  現実を うけいれちゃうと  なんだか 孤独ということが  いいことにおもえちゃいます。  人間だれしも自分本人が信頼できるわけですし、  なかなかそれもおもしろいかとおもいますよ。  それと、人の死【配偶者)などいつくるかわからない  とおもうことで、自分が一人でいきれるよう  頑張ることもおおいでしょうしね。  孤独だとおもっていることって  あるいみ 自分を強くきたえている気がして  いいとおもいますね。  

beginnersan
質問者

お礼

回答ありがとうございます。孤独と自覚することが次のステップに繋がるのでしょうね。

  • odd-art
  • ベストアンサー率9% (31/325)
回答No.6

 死ぬ時は、一人だという観念から、孤独を感じられる向きもあるかと存じます。  しかし、これは「臨終」の意味を知らないが為の感覚でしょう。  信心の仲間がいる、法統相続した子がいるのなら、孤独じゃありません。追善供養してくれる者がいるということは、有り難いことであります。  信心は、一人では出来ませんので、孤独を感じることなどあり得ません。御本尊様だって、そばにおられるのですからね。  自分達の身体等も、これは数多くの物質という分子・細胞が縁によって結ばれて成り立っております。この分子を、一つずつ取っていっても、それが自分だとはいえないと思います。  自分という固定観念にとらわれていると、縁もゆかりもなく、仲間もいないということで孤立化していくようです。自分というものは、まわりの縁により成り立っている、まわりの環境等があってこその自分だということです。立場としての孤立無援はあるかもしれませんが、縁もゆかりもないということはないと存じます。  ちゃんと縁を頼って、質問されたのでしょ。  回答される方がおられ、心配される方がおられ、手を差し伸べられる方がおられる以上、孤独に感じられても孤立していませんよ。  悩まれておられるのなら、正法に帰依されて仲間を持たれて下さい。そうすれば、お分かりになられることでしょう。如何でしょうか?  

beginnersan
質問者

お礼

アドバイスありがとうございます。押し手と引き手がいるから、孤独ではないんですね。

beginnersan
質問者

補足

え~と、アドバイスして頂いて申し訳ないのですが、宗教観はいりません。人には少なからず宗教観は混ざっていますが、あなたの意見は丸出しだと思います。もし良ければ、あなたの経験から導き出したモノを聞きたいです。 あと補足として、仲間とか問題ではないです。「本当に気の許せる仲間がいない云々」と突っ込まれれば痛いのですが、気の許せる親友がいたとしても、私は孤独に感じると思います。なぜなら、意識は孤立しているからだと思います。これまで、必要とされているとか、連帯感を持つことにより孤独を克服できるという意見がありましたが、形の見えないものに対して互いに自己満足しているだけに思うのです。

回答No.5

こんにちは。 わたしも、人は基本的に孤独だと思います。 ただそのことについて、あなたは不快に感じているんですね。 わたしは今は孤独を快適だと感じます。 わたしもかつて孤独は不快でした。ですが、 わたしが必要だと感じるだけ、他人からの愛を感じられる期間があり、 自分のことを愛するに値する存在なのだと信じるようになってから、 そのような他人との交流が途絶え孤独になっても それを不快と感じなくなりました。 ご参考になれば。

beginnersan
質問者

お礼

回答ありがとうございます。孤独を不快に感じないためには、自己愛が必要なのですね。

  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.4

なるほど。 結論が出ているのに、質問してしまう。 それも他人の意見を聞くため。 他人の意見を求めて質問することが、beginnersanさんの孤独さをそのまま適格に表しているじゃないですか。 あ、これはカウンセリングじゃないですから。 人間は孤独であるというというのも真実でしょうが、逆もまた真実だと思いますよ。 人間は孤独であるからこそ、そこから逃れようと努力し、幸福に到達する。満ち足りた人間は孤独ではないと思います。 もっとも、自己満足で孤独を感じない人もいますが。 要するに、孤独を感じることを克服してしまえば、なんにも恐いものなどないと思います。 孤独になると、人間は自分のことばかり考えるんじゃないでしょうか。そうすると、自分の世界では自分が正しいということになってしまいます。そして自分のもろさに気が付かない。その危うさを銘じて僕はここ最近を生きています。 僕の意見ですからね。

beginnersan
質問者

お礼

回答ありがとうございます。確かに、他人の意見を求める行動は孤独の現れですね~。孤独という言葉があるのだから、対極も存在する、それが幸福であるということですね。孤独の脱出ポイントは、孤独感の克服、自己中心主義、アイデンティティにあるのですね。

  • kaleen
  • ベストアンサー率30% (77/250)
回答No.3

 今歩いているこの街がはるか昔、原野であった頃・・・とはわたしが よく想像するファンタジーなのですが、 (他の一つは人の顔を見て、20年後、30年後の顔立ちを想像すること・・・) その時「自分がそこにいたら孤独だろうか?」と考えてみるとわたしには 二通りの答えが浮かんできます。 「建物もなく人もいなくてきっと寂しいよ 星空しか頼るものがないよ」 「いや、きっと大自然に包まれて 寂しくないよ  or 生きるのに必死でそんなこと感じないよ」 地球にいる限り、絶望的な孤独感には 陥らないのではないかと自分については考えています。 もちろん、これまでの人生心情的に上ってばかりいた訳では ないのですが、自分が孤独と感じていても、 自分が感じられないだけで、嫌でもこの地球上の どこかの何かに包まれ守られているような気がするのです。  ・・・今まで這い上がって来た時がそうだったから。  必ず、そっと見守ってくれ、こちらが手を出せば引き上げてくれる  存在がありました。   でもそれはこちらが手を出さない限り、誰も引き上げることは  できないのです。人一人の全体重はすごく重いですから。   まあ、当人がそう感じられないなら「孤独」だろう、と 言われれば否定はいたしません。 これが月面にでも住んでいたら違うんではないでしょうかねえ。 つれづれなるままですが、そう思ってる者でした。

beginnersan
質問者

お礼

回答ありがとうございます。そうですね、人間にしろ、動物にしろ、モノにしろ、自分以外の存在を掴んでいれば、孤独ではないですね。でも、コンタクトしても何も返ってこない場合、寂しく感じます。

  • hana-furu
  • ベストアンサー率20% (58/281)
回答No.2

普段から孤独と思って生きています。 あまり自分から他者とかかわりをもちません。 メールで友達とも会話しませんし。電話もだいたいは必要な用件を伝えればそれで終わりです。でも、友達はいると思います。少ないけど。 適当にあわせるのが得意なので、周りからは友達たくさんいるよね。という認識をされます。でも、面倒なので、否定もせず。 家族の中にいても孤独を選びます。ってゆうか、一人でいるのが好きなんです。 ショッピングも1人、外食も一人で平気です。でもやっぱり寂しい時があるので、その時は誘いにのったりもします。 寂しさのあまり、自殺したりする人がいますが、そういう人はきっと、とても華やか、あるいは、幸せな毎日を送っていた経験の持ち主だったんじゃないかなーと思う時があります。たとえば、よき伴侶に恵まれ、先立たれた。とか。

beginnersan
質問者

お礼

回答ありがとうございます。当り障りのない人間関係いいですね~。私もそれを目指してはいるのですが、ついつい深入りしてしまう… 1人のメリットもありますが、当然デメリットもあるわけで、その狭間で四苦八苦するんですよね。

  • chukanshi
  • ベストアンサー率43% (186/425)
回答No.1

私も「人間は基本的に孤独だ。」と強く思います。 そんな中で、多少でもお互いを分かり合える「瞬間」が あったり、みんなと「共感」できたり、できれば、 とても幸せに思います。

beginnersan
質問者

お礼

回答ありがとうございます。「今を生きる」大事な言葉だと思います。瞬間の継続が生きることなのでしょうね。思い出を大事にしていきたいですね。

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    カウンセリングの援助を受け始め、結果的に5年もの年月が過ぎていました。 根本的には家族関係に由来する根深い問題があることはカウンセラーとも共同の認識を持ちながら、そのテーマにこだわらず普段の生活の中で起きる様々なことなどを話題にしながら、身の回りの状況は落ち着き、少しつずつ自信のようなものがついて来たようにも思えていました。 そんな中、カウンセラーから「安定してきているから、終了してはどうか?」との提案があり、現在の時点で安定していることは事実であるので、まだこれから取り組んで行きたいテーマもあるし、援助がなくなるのは不安ではあるけれど招致しました。 昨日最後のカウンセリングではまだ不安ながらも前向きな方向で、感謝の言葉を述べて終わったのですが、一夜明けてみれば、独りぼっちになってしまったようなどうしようもない孤独感と不安に襲われています。 カウンセラーは「どんなカウンセリングにもセラピーにも必ず反動(悪化?)が起きることはある」とも説明してくれました。まさにそれだとも思うのですが。苦しいです。 カウンセラーは終了を前提としながらも、半年後に一度また考えてみてもよい、自分を指名してもいいし、別のカウンセラーにかかることがまた一歩精神的成長につながることもあると言っていました。どうしても苦しい時は半年たつ以前に援助を求めてもよいと。 カウンセリングはここ1、2年ぐらいは3~4週間に一度、場合によっては2ヶ月以上空くこともありました。それでも次回があることで、ほとんど不安は感じませんでした。 終了=次回が無いことがこんなに怖いことだと、終わって初めて気づいています。 これはカウンセラーが言うように典型的な心理反応なんでしょうか? こんな経験を体験された方、あるいは専門家の方で説明あるいはアドバイスを下さる方はいらっしゃいますか?

  • コインキデンチア・オッポシトールム

     ・ coincidentia oppositorum  ・ coincidence( unity ) of opposites  ・ 対立物の一致(合一・統一)  これは 有るは無いであり 無いは有るだと言い 善は悪であり 悪は善であるというような内容を持つ命題だと思いますが それは 所謂る《神のもとにおいて成り立つ》かも知れないとしても 実際に経験現実と成りましょうか? これが 問いです。  この命題は 調べてみますと すでに古代ギリシャの哲学に現われており インドや道教などにも見られると言います。  中で 次のような情報をこの質問のたたき台を述べるためのたたき台とします。  ▲(ヰキぺ:ニコラウス・クザーヌス) ~~~  ( a ) クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。  ( b ) 無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。  ( c ) すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。  ( d ) 中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ( d )については すでに【Q:ひとは カミの似像である】で問い求めました。《フラクタル構造》を成すのではないかという回答を得て これを一つの結論としました。  ただし  ▲ 認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。  ☆ とは わたくしは 捉えていません。人と神とのあいだには へだたりがあると見ています。  ( c )の前半すなわち《すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも》については ( d )と同じようであり そのとおりだと見ます。ただし 後半の  ▲ それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。  ☆ については 疑問を持ちます。《相互に調和している》のは 神の目から見てであろうと考えますが いまさきほど述べたように《神と人とのあいだには へだたりがある》と見ますので その《調和している状態》を人が見ることはむつかしい。こう考えます。  ですから すでに 《対立物の一致》は 人間にとっては 見ることが出来ないであろうというここでの問いになっています。すなわち  ( b )も《極大と極小(神と被造物)が一致する》のは  ▲ 無限の中では  ☆ ということであり すなわち《神の目から見て》なのだと捉えます。すなわち( a )につながります。    *  たとえば  (α) 坂道は 上りと下りとが互いに対立するかのごとくあるが 道として一致している。  といった説明には従えません。気持ちや能力が上がるのと下がるのとを例に取れば その対立状態にあることをないがしろにすることは出来ません。  (β) 有ると無い あるいは生と死 あるいは善と悪とは 神のもとで互いに違いがない。  と言ってもその《神のもとで》という条件は 人間にはただその想像においてしか分からない。つまり 現実においては 対立しつづけている。     *  あるいは いわゆる弁証法過程として この命題を肯定する場合があります。すなわち  (γ) 対立物の統一なる命題を解く鍵は 時間過程にある。自然の事象をも含めて 人間の社会と歴史は その時間的な行為とその錯綜関係として成る。ゆえに時間が解決する。(縁起共生?)  これは 一般に  (γ‐1)  矛盾する対立物が互いに闘争することをつうじて 新たなより高い次元においてそれぞれが変わった状態となり互いに調和を見い出すということだ。  とすると そういう場合には その中間の過程やそこにおける闘争が 人間にとっての人生であり現実だということになります。果たしてそうか? それ以外に 《和》はないのか?  またもしその  (γ‐2) 《中間の闘争過程》は やがて社会における所謂る格差の問題が適宜に根本的に解決されたなら 対立物の統一がその限りで完全に成った状態が出現する。  といった《いまの闘争の勝利の暁には》というかたちの《統一》理論には 与し得ません。《神の目から見て / 無限のもとで》という条件よりもわるいと考えます。それは 《人間が――つまり ヒトが生物として――変わる》と言っているのであり そのことだけを言っていればまだしも それが必ずや未来には社会全体として実現するといった展望を立てるのは お呼びでありません。仮りにそのことがほんとうだとしても 実際にその芽が出て来て兆しが現われたときに言い始めても遅くはないと考えます。     *  この対立物の一致なる命題は 西田幾太郎にも影響をあたえたようで   (δ) 絶対矛盾的自己同一  という表現として打ち出されたそうです。  このとき ここでは 形而上学として分かるなどとすら言わないで 次のようにたたき台を立てて問います。  (ε) いやいや 有るは有る 無いは無いだ。善はそれとして善であるが 悪は飽くまで悪であり 主観としてだが心の思いや判断としての善なる要素が欠けている。それらの対立する二項は 互いに相容れないのが 現実である。  とです。この問いを自由に大胆におしすすめていただければ さいわいに存じます。よろしくどうぞ。  

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     ・ coincidentia oppositorum  ・ coincidence( unity ) of opposites  ・ 対立物の一致(合一・統一)  これは 有るは無いであり 無いは有るだと言い 善は悪であり 悪は善であるというような内容を持つ命題だと思いますが それは 所謂る《神のもとにおいて成り立つ》かも知れないとしても 実際に経験現実と成りましょうか? これが 問いです。  この命題は 調べてみますと すでに古代ギリシャの哲学に現われており インドや道教などにも見られると言います。  中で 次のような情報をこの質問のたたき台を述べるためのたたき台とします。  ▲(ヰキぺ:ニコラウス・クザーヌス) ~~~  ( a ) クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。  ( b ) 無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。  ( c ) すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。  ( d ) 中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ( d )については すでに【Q:ひとは カミの似像である】で問い求めました。《フラクタル構造》を成すのではないかという回答を得て これを一つの結論としました。  ただし  ▲ 認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。  ☆ とは わたくしは 捉えていません。人と神とのあいだには へだたりがあると見ています。  ( c )の前半すなわち《すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも》については ( d )と同じようであり そのとおりだと見ます。ただし 後半の  ▲ それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。  ☆ については 疑問を持ちます。《相互に調和している》のは 神の目から見てであろうと考えますが いまさきほど述べたように《神と人とのあいだには へだたりがある》と見ますので その《調和している状態》を人が見ることはむつかしい。こう考えます。  ですから すでに 《対立物の一致》は 人間にとっては 見ることが出来ないであろうというここでの問いになっています。すなわち  ( b )も《極大と極小(神と被造物)が一致する》のは  ▲ 無限の中では  ☆ ということであり すなわち《神の目から見て》なのだと捉えます。すなわち( a )につながります。    *  たとえば  (α) 坂道は 上りと下りとが互いに対立するかのごとくあるが 道として一致している。  といった説明には従えません。気持ちや能力が上がるのと下がるのとを例に取れば その対立状態にあることをないがしろにすることは出来ません。  (β) 有ると無い あるいは生と死 あるいは善と悪とは 神のもとで互いに違いがない。  と言ってもその《神のもとで》という条件は 人間にはただその想像においてしか分からない。つまり 現実においては 対立しつづけている。     *  あるいは いわゆる弁証法過程として この命題を肯定する場合があります。すなわち  (γ) 対立物の統一なる命題を解く鍵は 時間過程にある。自然の事象をも含めて 人間の社会と歴史は その時間的な行為とその錯綜関係として成る。ゆえに時間が解決する。(縁起共生?)  これは 一般に  (γ‐1)  矛盾する対立物が互いに闘争することをつうじて 新たなより高い次元においてそれぞれが変わった状態となり互いに調和を見い出すということだ。  とすると そういう場合には その中間の過程やそこにおける闘争が 人間にとっての人生であり現実だということになります。果たしてそうか? それ以外に 《和》はないのか?  またもしその  (γ‐2) 《中間の闘争過程》は やがて社会における所謂る格差の問題が適宜に根本的に解決されたなら 対立物の統一がその限りで完全に成った状態が出現する。  といった《いまの闘争の勝利の暁には》というかたちの《統一》理論には 与し得ません。《神の目から見て / 無限のもとで》という条件よりもわるいと考えます。それは 《人間が――つまり ヒトが生物として――変わる》と言っているのであり そのことだけを言っていればまだしも それが必ずや未来には社会全体として実現するといった展望を立てるのは お呼びでありません。仮りにそのことがほんとうだとしても 実際にその芽が出て来て兆しが現われたときに言い始めても遅くはないと考えます。     *  この対立物の一致なる命題は 西田幾太郎にも影響をあたえたようで   (δ) 絶対矛盾的自己同一  という表現として打ち出されたそうです。  このとき ここでは 形而上学として分かるなどとすら言わないで 次のようにたたき台を立てて問います。  (ε) いやいや 有るは有る 無いは無いだ。善はそれとして善であるが 悪は飽くまで悪であり 主観としてだが心の思いや判断としての善なる要素が欠けている。それらの対立する二項は 互いに相容れないのが 現実である。  とです。この問いを自由に大胆におしすすめていただければ さいわいに存じます。よろしくどうぞ。