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ブッダの教えと、仏教。菩薩。阿弥陀。

odd-artの回答

  • odd-art
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回答No.2

 非仏説論のことでしょうか?  これは、経典結集が数回にわたり行なわれ、仏教が、文字によって記され、経典という形となっていったのです。  経典の内容についてですが、個々の経典をただ較べて見ているだけでは、バラバラな、まったく異なる教えが説かれているようにしか見えませんが、じつは、膨大な量の経典も、法華経を中心に据えて見直してみれば、すべてが一つの法門の一部分・一部分を構成している、言い換えれば、仏教全体が矛盾なく一つの壮大な法門(一念三千の法門)を説いている、ということが明らかになります。  これは、仏教が、たしかに一人の仏によって説かれた教えである、という証明であります。  以上のことから、私達は、仏教がすべて釈尊の説であることを確信しています。  付言しておくならば、それは、仏である釈尊が説いた教えだから正しい、というのではなく、その教えの内容が現に勝れており、そのような勝れた教えを説いた方であるから仏として尊敬する・・・、それが仏教の基本姿勢である、ということです。  それから、信仰とは、信じ仰ぐ・・・、すなわち、本尊を人生の根本として信じきり、手を合わせて拝むまでに尊敬しきる、いわば信頼・尊敬の極まった姿が信仰である、といえます。  仏教は、厳格なる因果の理を根本として、人々を幸福生活へと導く法を説き明かしたものですから、まったく他の劣悪な教えとは比較にもならず、仏教と、仏教以外の宗教を相対すれば、仏教が勝れるのであります。  この仏教は、三千年前、インドに出現した釈尊(釈迦)によって説かれたものですが、この釈尊の教えが、時代と共に多くの宗派に分かれ、今日に至っています。  釈尊は、一代五十年間にわたり、膨大な教えを説いていますが、その四十二年目に説いた「無量義経」という経典の中で、  「自分は、かつて菩提樹の下で端坐黙想し、この世の中の真理というものを悟った。そして、この真理を人々に説こうと思い、思惟したが、これを、そのまま説くことは思い止まった。何故ならば、人々の素養、理解力が低く、また、まちまちであることを知ったからである。そこで、まず、人々の理解力や、それぞれの素養に合わせ、真理の一分一分を種々の経として説くことにした。かくて説いてきた教えは、いわば真実へ導くための方便であり、これまでの四十余年間においては、いまだ真理の全てを説き顕わしていないのである」 と述べています。これまでの方便の仮説を払って、八年間にわたる「法華経」を説いて真の成仏得道の法を示されたのであります。  法華経の迹門では、釈尊は始成正覚の仏でありますから、普遍性に欠けた現在かぎりの存在となっています。  しかし、本門において、釈尊の久遠実成(真実は久遠の昔に成仏を遂げていた、ということ)が明かされています。これにより、仏も、久遠より常住する普遍的存在となり、真の一念三千・即身成仏の法門となるのであります。  概略すれば、仏教は教主釈尊の因行と果徳を明らかに教示し、五十年間の説法を通して宇宙の真理と人間生命の実相をあらゆる点から完璧に説き尽しています。釈尊が成仏した根本の一法とは、久遠元初というこの世の最初の時代に、我身がそのまま大法界の真理の当体なりと悟られた自受用報身という仏様の教えであり、この久遠元初の仏様が末法に日蓮大聖人として出現されたのです。  如何でしょうか?

noname#4470
質問者

補足

odd-artさん ご回答有り難うございます。 さて、釈迦を崇拝し信じるとこと、彼を神聖神格化する事とは異なると思います。 ブラーフマンが信仰の対象になるのならば理解できますが。 ゴータマ・シッダルタが解いたことは、思想と哲学であったはずが、いつの間にか 法力の発動などの超自然現象が加わり、超人(その弟子や、各宗派の開祖であっても)のように解くのはこれはゴーダマの意としたことではない。と思うのです。 各教典が大きな教えの一片であり、それが壮大な教えの為の、「方便」であったとしても、超自然パワーをくわえて、より神秘性を高めたのは、後世の創造であって、彼自身はただの人間であり、特別なパワーをもたなかったと思うのですが。 いかがでしょうか?

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