• 締切済み

幸せと欲望はどう違うのか

突然ですみませんが、3年位前、僕の知り合いの大人の人が言っていた事をここに書きます。 「発展は幸せと欲望の為にある。  人の手による発展とは  少なからずの欲望を生み出し、  多からずの幸せも生み出す。  少なからずの欲望のない者が発展とは成し得ず、  多からずの幸せのない者も発展とは成し得ない。  幸せとは愛か力か、欲望とは愛か力か。  それは人の永遠の謎である。」 (対句みたいな感じで言っていたので、見やすいようにまとめました。) どうして「幸せ」が「多からず」で、「欲望」が「少なからず」なのかと僕が聞くと、その人は「それが人間だから」と言っていました。その意味が何となく分かったんですが、「欲望がなぜ愛なのか」等、できれば色んな意見を聞いてみたいので、どういう風に思われたかを教えてもらえませんか。

noname#117377
noname#117377

みんなの回答

  • kokya
  • ベストアンサー率0% (0/0)
回答No.7

知人のひとが言いたかったのは回りくどい言い方なので伝わりにくかったんだとおもいます。 普通名詞的な人類共通の普遍的な「幸せ」というのがあってこれは、「世界平和」・「科学・医療技術の発展」・「自然環境をもっと大事にしよう」とかがんばりましょうね!とかの全体の幸福のことだと思います。 普通名詞的な公的な全体の「幸せ」・「欲望」と 固有名詞的な限定された個人の「幸せ」・「欲望」を 分けて表現したかったんじゃないでしょうか。

  • Syo-ya
  • ベストアンサー率31% (558/1780)
回答No.6

知り合いの方の意見は、私には難しくって、ちょっと判りませんが「欲望」と「幸福」について述べてみたいと想います。 「幸福」とは、安定している状態・安らいでいる状態です。 で、普通の人々は、外に向かってあれこれを求め、いろんなものを手に入れて、安心しよう、安定しようと奮闘努力するんです。学歴、出世、金、異性、マイホーム、マイカー、肩書き、趣味、商品・・・こういう自分以外の何かによって安定を図り、幸福になろうとするんです。 でも、こうやって外に求め続ければ「欲望」という心の筋力がUPしてしまうんです。 たとえば、右腕ばかりを筋トレしていれば、右腕はマッチョになります。 が、全く使われなかった左腕は衰弱していきます。 「使うものは賦活して、使われないものは衰弱する」んです。 「欲望」という心の筋肉も使えば使うほど太くなっていきますので、求めることが止まらなくなってしまうんです。 本来ならば、心を安定に導くための「欲望」だったハズが、いつの間にか心を不安定にさせる要因になってしまうんです。 目的と手段が入れ替わってしまうんです。 つまり「欲望」では「幸福」は得られないんです。 (強すぎる欲望では・・と言ったほうが正解ですが) 「幸福」とは、むしろ逆で「足るを知る智慧」によって獲得できるんです。 (小欲知足です) だって、自分以外の何かってとても儚いものなんです。 先日のスマトラ沖地震では地球の形さえ変わってしまいましたよね。 この世にあるものは、自分自身をも含めて、常に移ろっている無常の存在ですから、永遠不滅のものなんてないんです。 ですから、足るを知る智慧で、暴走しがちな「欲望」を制御してこそ、心の安定が獲得できるんです。 「これくらいで充分だ・・」と足るを知る理性こそが、本物の安定した状態なんです。 で、もっと言いますと、心を安定に導く要素こそが「愛」なんです。 間違っても、人を不安定な状態に落としめいれるものは「愛」ではないんです。 ですから「(強すぎる)欲望」は必ずしも「愛」ではないと想います。 むしろ暴走しがちな「欲望」にブレーキをかける智慧(理性)こそが「愛」だと想います。

  • russy1
  • ベストアンサー率11% (20/178)
回答No.5

存在理由という言葉があります。この言葉は不思議な言葉です。存在する根拠が知られているという意味と、何か他のものの存在を支えているという二つの全く違う意味が含まれています。しかももっと不思議な事に存在理由があると存在できなくなってしまうということです。欲望にしても幸せにしても発展の為にあるとすれば、実在するのは発展だけで欲望も幸せも消えてしまいます。発展だって欲望や幸せのためにあるのだったらやはり消えてしまいます。

  • bo-suke
  • ベストアンサー率23% (58/242)
回答No.4

ある女性がいました。 女性はいい家柄で何不自由なく育てられました。しかしすべて親が決めていたので、何かしらの窮屈を感じていたようです。 外に出たい。親の言うことはもう聞きたくない。自分のしたいことをしたい。 そんな時夢を生きる、知識以外は何もとりえのない学者に出会いました。夢を追いかけている男を見て、女性は何か心惹かれるものを感じたようです。 そして二人は家を飛び出し、結婚にいたりました。男は受けると思ってもいなかった愛を受けて幸せに暮らしたそうです。 もちろんフィクションですが。それはともかく。 このとき、「夢を追うことによりつながった愛」とは「親の支配から逃れたい」という「支配に対する嫌悪」が押し出したものとして出現しています。つまり他者への愛というのは欲=この場合に限るなら自己愛から出現しています。欲望が愛につながるとは、このケースで考えるなら、 欲望をかなえる(自分の自由を得る)ための手段(男に愛をささげる、女性の方ごめん、例なので) という意味連関によって説明がつけられます。 欲望が愛になる例を挙げてみました。

noname#117377
質問者

お礼

#4さんが仰られている「愛」は、所謂「恋愛」なのではないでしょうか。ここで彼が言いたかった「愛」とは、多分「博愛」のことだと思います。ご回答有難うございました。

回答No.3

貴方が望む回答と反れるかもしれませんが、、僕が40年の人生の末に出した【人】に対する答えがあります。 性善説と性悪説という言葉と大まかな意味は、ご存知ですよね?「人は生まれながらにして善か悪か」という議論です。 僕が出した答えは、【人の本質は欲である】です。 この【欲】が良くも悪くも今の人間社会を作りげたのだと思います。

noname#117377
質問者

お礼

♯3さんの仰る「欲」は、♯1さんとも♯2さんとも意味が違うみたいです。僕は、下でも申しました様に、「欲は頭から求める幸せ」だと思います。♯3さんは、「欲は心からも頭からも求める幸せ」だと仰られているように思いました。確かに、「幸せを欲す」とも言いますよね。幸せも、愛も、結局は「欲している」ことに変わりはない、だから「欲望」と言える。なんだか、「欲望」の一般的な概念とはまた別な考え方みたいですね。ご回答有難うございました。

回答No.2

・悲しい事に【欲】が、人間社会を発展させます。戦争が、その例でしょう。【欲望】無しでは発展できない、発展の必要性が生じないのだと思います。 ・そして【欲】=戦争の為に開発された技術が、その後の民間の生活を豊かに・便利にしていると思います。 ・【幸せ】とは、個人により解釈が異なります。【力=財力、権力】を得る事が幸せであったり。【心情=人の心】が幸せであったりします。

noname#117377
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 あなたの仰る通り、その人その人で解釈の仕方が異なります。そもそも「発展」とは何なのか、♯1さんと♯2さんとでは多少異なるみたいですね。その上で、「幸せ」とは何なのか、僕は心が「幸せだ」と感じたものだと思っています。「欲望」とは何なのか、僕は「頭が求める幸せ」なのだと思います。一見すると「力」であるように見えても、その本質は「楽をしたい」という心があります。頭がそれを期待します。♯2さんは、全体的に一般論を仰られているようですね。♯2さんのご意見も参考にさせて頂きます。有難うございました。

noname#22222
noname#22222
回答No.1

典型的な観念的な俗論にすぎません。発展とは、現状に安住する傾向とその殻を破ろうとする傾向との対立において後者が支配的な新たな秩序は形成することです。こういう対立を突き動かしているのが欲望と言いたいのだと思いますが、それは、間違いです。私見ですが、より高度な適応、より安定的な存在様式を目指すという物質の本質が発展の原動力と思います。現在の欲望に振り回される姿というのは、決して、高度な生活様式でも安定的なものではないと思います。むしろ、非常に危うい過渡的な姿ではないでしょうか?

noname#117377
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 >こういう対立を突き動かしているのが欲望と言いたいのだと思いますが 僕もそう思います。 >より高度な適応、より安定的な存在様式を目指すという物質の本質が発展の原動力と思います。 全くもって、その通りです。ですが、その人が言いたかったのは、「安定的な姿を求めるのは、物質も人間も同じで、それに理由付けするのは無意味なこと、けれどもその「結果」を求める「過程」において、またその「結果」がもたらすものについて、それを考えることができ、それに期待することができるのは人間だけで、でもその「結果」故に失うものを見越せないのも人間だ」ということが言いたかったのではないでしょうか。僕は、何となくですがそう感じました。ですが、自分とは別な観点から意見を下さったので、勿論参考にさせて頂きます。有難うございました。

noname#117377
質問者

補足

下の文章の末尾がなんだか変になってますが、載せた後に気がついたんで、気に障りましたらお許しください。

関連するQ&A

  • 幸せになるには

    人間は、他の動物と同様に、何ものかを欲望する。ところが、人間に於いては、いくら対象を獲得しても、欲望の真の充足に至らない事がある。欲望していた対象の獲得が、更なる対象への欲望を、従って不充足の感覚を、誘発する事があるのだ。言い換えれば、人間の場合、対象を得れば得る程、対象が不足しているかの様な感覚が生ずる事がある。欲望の対象への真の到達が遅延させられ、先送りされて行く、この様な事が、人間には屡見られるのだ。最も典型的なのは、我々の貨幣への欲望である。我々は貨幣を得れば得る程、尚一層貨幣を欲しくなる。貨幣の獲得は、貨幣の不足感を生み出している。同じ事は、地位への欲望、人生の成功への欲望等に関しても、屡見出される。 欲望の対象と原因を区別する。主体は、直接には対象を欲望しているが、欲望を真に引き起こしているのは、その対象ではなく、原因である。従って、主体が対象をいくら得たとしても、原因は残っている為に、欲望は消える事がないのだ。対象は、原因の代理物、然も原因に対して決して互換的にはなり得ない代理物だったのだ。それならば、原因と対象の乖離は如何して生ずるのだろうか?如何して原因とは異なる所に対象が浮上し、主体は、対象の方を、つまり一種の虚像の方を目指すのだろうか? 結論を急ごう。主体は、欲望していた対象を得た筈なのに、充足を得られない。その理由は、欲望の真の目的、真の原因は、その対象ではなく、他者のーー主体にとって重要な意味を持つ超越的な他者のーー愛や承認にあるからである。主体は、その特定の対象を所有する事が、その超越的な他者の愛や承認を得た事の保証になるか、或いは他者の愛や承認を惹きつける理由になり得ると感じている時、その対象を欲望する。然し、実際には、その対象は、他者の承認や愛の保証にも根拠にもならない。つまり、得られた対象は、「求めていたそれではない!」「これじゃない!」として拒否されるのだ。それ故、更に、対象を求めてしまう。この様な欲望を規定している他者こそ、超越的な他者である。 こうした構成を示す原初的な状況として、次の様な場面を思い浮かべれば良い。幼児が、何かケーキか玩具を母親に強請って泣き喚く。母親が、それらを、子供に買い与えても、子供は、「もっと」と言って更に強請る。母親は、「なんて我侭な子でしょう」等と言って、子供を叱るが、子供は一向に泣き止まない。然し、この時、ケーキや玩具を与える代わりに、母が子供を抱き締めてやったら如何だろうか。すると、子供は泣き止んでしまう事がある。子供が真に欲していたのは、ケーキや玩具ではなく、母の愛だったからである。 ところで、もし、欲望の真の原因が、他者の、第三者の審級の愛や承認であるとすれば、その欲望には、原理的に、完全なる充足が齎される事はない。件の幼児は、玩具を自分に与えてくれるか如何かで、母の愛を試しているのだが、実際に与えられてみると、それだけでは、母の無限の愛の保証にはならない。母は本当に自分を愛してくれているだろうかという疑惑・謎は、決して消えはしない。同じ困難は、愛する者、つまりーーこの場合はーー母の側から表現する事も出来る。母としては、子供に自分が愛している事の確証を与えたい。自分の愛を示す為には、結局は、子供に何かをしてあげる事、何かを与える事しかないのだが、然し、それだけで、子供に永続的な安心感を与える事は出来ない。結局、他者は、正に謎である限りで他者なのである。それは、他者が他者である事の本質的な条件である。他者が私を愛しているのか、他者が私に対して何を求めており、私が何者であった時に他者からのトータルな承認が得られるのか、その事は、究極的には、決して解消出来ない謎である。斯くして、欲望の対象と原因との間のギャップは、決して埋まらない。欲望の対象とは、ーーそれが得られていない限りに於いてーーこのギャップが埋められたかの様な錯覚を与える対象の事である。つまり、対象を得る前には、主体は、「あれさえあれば、私はあの人に愛されるに違いない」とか、「あれさえ与えて貰えれば、私は愛されていると確信が持てるのに」等と思っている。つまり、「あれ」が得られない間は、主体は、この様な強い予感を抱いている。が、然し、実際に「あれ」を得た時には、他者に関する主体の不安は消えない。 大澤真幸『生きるための自由論』より抜粋しました。 以上を前提に質問したかったので、この様な長文になってしまいました。すみません。 では、質問です。 私達は幸せになれないのでしょうか? 満たされたいのに満たされない。 生きるのが辛いです。 一体如何すれば良いのでしょう? 又、この疑問に答える本や、お勧めの本等がありましたら、教えて頂けるととても嬉しいです。 本でなくても、何でも構いません。 ここまで読んで下さって、有り難う御座います。

  • 仏教の煩悩と欲望

    現在、欲望や苦について調べているのですが、 少しわからないことがあるので質問させていただきます。 『テーラーガータ』において「欲望を求める人は苦しみを求めている」、と書かれているのですが、 確かにそのとおりであると思うのですが、人間生きている限り、食欲など生きる為に必要な欲望があると思うのです。 釈尊は苦から解脱した、とありますが、解脱した後も生きていたということは、生きていくために必要な欲を満たしていたということになりますよね? 衆生に教えを説くのは皆を助けたい、という欲からきているとも考えました。 四諦の苦集滅道の滅にはよく「煩悩を消滅させて苦を消滅させる」 という説明を見るのですが「煩悩=欲望」であるとしたら、それはおかしな話だな、と思います。 それは欲望を消滅させたら生きることはできない、という考えからです。 煩悩≠欲望であるのであれば、なんとなく説明はつくと思うのですが、 もしそうであれば、煩悩と欲望の違いというのがよくわかりません。 煩悩と欲望の違いがあればお教えください。 また、欲望とはどのようなものなのでしょうか? 欲望をどのようにすれば苦から解脱できるのでしょうか? ご助言いただければ幸いです。

  • 欲望の為に何でもできる人が、幸せに笑える理由って?

    欲望と快楽と勝利の為なら (性欲、お金、名誉や権力、贅沢) 犯罪以外なら何でもできる人、 (嘘、演技、人を騙す、自分の利益の為に人をコントロールして利用する、 人情を捨てる、思いやりの崩壊) それも、全く平常心で、かつ、一切の罪悪感もなく、 むしろ「嘘をつくのは才能。人を騙しぬく自分は凄い」という、 勝利と喜びを帯びてできる人 更に、騙されている奴らを馬鹿だと思い、 むしろ、騙されている様子を愉快に思うほどの人、 こういう人がいます。 こういう人は、なぜ、それで幸せに生きていられるのですか? それで笑っていられる理由が分からなくて、苦しいです。 気になって仕方がありません。 何故ですか? なぜ、そうやって、自分の利益のためだけに生きているのでしょうか? あと、もし、あなたなら… 女とやれる、10億円稼ぐためなどの利益のため、 一生遊んで暮らすためなら、あなたなら、やろうと思いますか? そして、それらが達成出来て、10億円築けたら、 更に、笑って幸せで生きていられますか? 人間性や善意の心を捨てて、 肉欲と金の為に生きるという意味です。 そして、騙されて利用されている相手を面白いと感じ、 騙している自分を勝者だと感じますか? 他でも似た質問をしたのですが、 あいまいな質問の仕方をしてしまったので もっと端的に知りたくて、投稿しました。 よろしくお願いします。

  • 人間の幸せとは欲を叶えること?

    キレイ事を抜きにすると人間の幸せとは自分の欲を叶える事なのですか? ここで言う欲望とはいわゆる金欲や色欲です お金持ちになっていい女を抱いて人からチヤホヤされたい、というのが人間が最も叶えたい幸せなのでしょうか? 人の為になる事をする、全てに感謝して生きる、その瞬間瞬間を楽しむ、物事に集中している時間が多いこと、なんて言うのは本当はそれらを叶えれなかった人間がすがれるようにと用意されたガス抜き程度の詭弁なのでしょうか? そうは思いたくはないのですが、私は成功は手に入れた事がないので、よく分かりません しかし一回病気になった人の方が健康のありがたさが分かるのと一緒で、一回成功したことのある人の方が、普通の幸せを噛み締める事が出来るのであれば、やはり成功者のほうが幸せに近いと思うのですがどうでしょうか? 幸せは自分で決めること、というのとは違う視点での話しでお願いします

  • 他人に嫌われたり、他人を蹴落とすことに抵抗を感じていては、幸せになれませんか?

    社会では、自分より実力が低い、もしくは立場が下の人間には威圧的な態度を取る癖に、立場や実力が上に人間には、何も言えず、影で悪口を言うような人が結構いると思います。 そういう人に限って、出世していたり、女性にもてていたりするのは何故なんでしょうか? この世の中は、虚勢を張り、汚い手を使って下の人間を蹴落とすことでしか幸せになれないのでしょうか? 他人に迷惑をかけても、嫉妬や自分の欲望に忠実に生きた方が、最終的にはいい人生を歩めるんでしょうか?

  • 煩悩を殺せば、幸せになれないと思います。

    煩悩を殺せば、幸せになれないと思います。 西洋の哲学や仏教に比べても、大変評価の高い仏教では煩悩を滅することで幸せになれる説いています。 生きていることは苦しいことです。 ・ほしいもの手に入らない苦しみ 〈金、名誉、恋人、美醜〉 これらは限られたラッキーな勝ち組の人しか手に入れられません。 負け組の人は嫉妬、殺人、反社会的な思想を生みます。もしくは鬱、自殺などにもつながります。 全員がナンバー1を目指すような風潮になれば、なれぬ者は不幸だという定義になるでしょう。戦争や拝金などもなくならないでしょう。 しかし、人間が最もエネルギーを発揮できるのは二通りあると思ってます。 好きな異性を獲得するために働く力、他人や社会への憎しみを抱き復習に燃えるときの力。 これらは肉体が精神を超えると思います。 好きな人を獲得するために頑張る。。。 あいつに負けた仇をとるために頑張る。。。 これらが原動力になればものすごいエネルギーが発生すると思いますがこれって煩悩ですよね? こういう感情が生まれたとき、それを殺すのは非常にもったいない気がします。 「怒りを抑えなければ幸せにはなれない。金や名誉などほしい物を得る得て、セックスなどの快楽を解放しても幸せにはなれない」という考えは違うと思います。 今まで、僕は失恋もたくさんしました。 自分よりも出来る男に好きな人を奪われたときは本当に辛かった。 サッカーのレギュラーをはずされた時、試合に負けたときは辛かった。 そのときの辛い思いをし、エネルギーを爆発させようと思いましたが「それでは幸せになれない。怒りを消し去る」こと続けてきました。 じゃあ、よく部活のコーチが「悔しかったら死ぬ気で這い上がれ!!!」と生徒を煽りますが、こういう思想があるからこそ、拝金や戦争がなくならないのでは??? 煩悩は殺すべきか否か、どでしょう??? 人間が最もエネルギーを発揮できるのが上記のような場合だということがわかれば、政治などの過酷な競争を勝ちぬいた人たちが、汚い人たちが多いということがわかります。全員ではないんでしょうが。。

  • 溢れんばかりの欲望を抑えたい

    私は普段PC上で何をしているかというと、マージャンや大人向けの画像や動画を見ることばかりです。さすがにこれではいかんと思うのですが、私の周りには私のよくない行いを叱ってくれる人も、気にかけてくれる友人もいません。仕事に疲れひとたび部屋にこもれば、もう欲望のおもむくままにことに及んでしまいます。そうやって日々が消費されていきます。思い気付けばいいようのない寂寞があります。何も生産できず、何も思考できない自分という人間をハンマーで叩き壊したい思いに、そのたびにとらわれます。 こうなったら強制的に自分の行いを制限するしかありません。例えば、画像を開こうとしたらそれを検知してPCを強制終了ないしは画像の削除、マージャンソフトを起動しようとすれば即座にエラーメッセージ、よくないHPにたどりつけば宗教のページへ転送、といったことを実現したいのです。 私はプログラミングに関する知識は素人並みです。しかし溢れんばかりの熱意でもって成就を目指します。 私の思いを実現するにはどんなことを勉強すればよいでしょうか?ヒントだけでもお願いします。

  • 幸せになってはいけない理由。

    20代女性です。 私は何も価値のない人間に思えて仕方ありません。 恋愛をしちゃいけない人間なんだと思います。 女としての価値が何もないのだと。 私を好きになってくれる人なんていない。 私は存在していてはいけないんじゃないかと思います。 これっておかしいでしょうか。 なんでこんな風に思うのか、自分でもわかりません。 愛されてはいけない、幸せになってはいけない。楽しそうにしてちゃいけない。 どうして、こんな風に思ってしまうのか、自分でもわかりません。 私なんかがいたら迷惑だと思います。 好きな人はいますが、私なんかに好かれたら、相手にとって迷惑だと思います。 私は存在しちゃいけないんだと思います。なんで私は、こんな風に思うんでしょうか。

  • 幸せになれないの?

    父は家庭をおろそかにしすぎているわけではないけれど大切にするタイプでもなくそのうえ、単身赴任でほとんど留守。母親は実家と疎遠友だちもほとんどいない笑顔の少ない人、貧乏で私が小学校低学年から働きだし夕方遅くにしか帰らない日々、暖かさのない家庭に育ちました。いつも叱られほめられることもほとんどありませんでした。きょうだい2人がいたことが唯一の救いだったと思います。私はおとなしく口数少なくいじめられっこでした。いつも孤独、今も。親友もなかなか出来ません、大人になった今も。知らないことも多い上、距離の取り方やつき合い方良い人間関係が出来ず失敗ばかり。私はどうしてこんな風にに生まれたのでしょう。とても惨めな気持ち。どうしたら幸せになれますか。こんなふうに一生終えたくないです。

  • 貴方にとって幸せとは

    NHKで課外授業という番組で小学生が近所の大人に「あなたにとっての幸せとはなんですか」と聞いてそれを作文にしていました。 大人たちは一様に皆「健康」「家族が皆元気」「平和」「人のために役立った時」など理想的な解答をしていました。 私はいい大人ですが、きっと人に聞かれたら「夜布団に入って寝ようとする時」「100円拾った時」など下らない答えをしそうです。 日常の状態を幸せとわからず、自分個人の煩悩を満たすことを幸せとしてしまう小さな器であることに情けなさを感じました。 「生きていること」「花、鳥、空、など自然を感じる時」「今の家族や友人と出会えたこと」など日常に幸福感を感じ、日々に感謝しながら生きることがきっと大人の人間なのだろう、と思います。 もちろんそれは幸せに違いないのですが、ふと忘れてあれこれ不満をもって生きている、そんな自分はまだ精神状態が幼いのでしょうか?ちなみにもう40代後半です。