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価値と価格と貨幣 価値

serpent-owlの回答

回答No.7

 呼ばれたような気がしましたので、再度。  余談から入りますが、古典経済学はそう簡単に絶滅しないでしょう。現代でも様々なコロモをまといつつ何度も復活しているように思いますし、経済学の基本中の基本という意味でも、資本主義の「核」という意味でも、資本主義ある限り永遠に続くと思います。  さて、その古典経済学を重んじておられるのなら、価格は需要と供給の量的関係で決定されてくることはご存知でしょう。「価格」すなわち、商品「価値」の貨幣的表現です。このこと自体に、価値がその物に客観的に備わった属性でないことが現れているではありませんか。  市場関係者が「マインド」などと呼ぶもの、これで価値は決まる。「貨幣」という次元で考えれば、そうなると思います。  ただ、そのマインドみたいなものに「感情や理性」という個人の精神状態をイメージさせる言葉を用いるのは、少々問題をややこしくするように思います。せいぜい「それが欲しいと思う気持ち」でしょう。しかも、一人の人間のものではなく、多数の人間の。それが市場という場に立ち現れたときに、物の価値は数値化されるのだと思います。      *  「数値化できないものを数値化する貨幣の不思議」は僕も考えたことがあります。絵画などの芸術作品の売買に関して、僕は不思議に思いました。「美という、数値化できない主観的な価値を、どうして画商たちは数値化できるのだろう」と。  しかしこれも基本的な骨組みでは「需要と供給」だろうと思います。評価の高い芸術家の作品ならば需要があり、高値を呼ぶ。あるいは逆に、画商が芸術家の評価を作っている場合もあるかも知れません。ある画商の美的センスに適う無名画家の作品を買い付けておいて、個展を開かせるなど援助して売り出し、評価を高めさせておいて……というワザですね。  いずれにせよ、画商の頭脳は、画家の知名度、評価、作品の出来などを勘案し、需要がどの程度あるかを考慮して作品の美を価格へと数値化するのでしょう。      *  さらに「アートつながり」でもう一歩踏み込みましょう。「art=人工」というつながりですが。  ご質問では特に「金」に触れておられる。「貴金属」です。これについて、今度は「貨幣」という次元から少し離れて考えます。つまり、「なぜ人は貴金属に惹かれるのか」という。  一つには、前の回答で述べたように、「貴金属は貨幣にうってつけの性質を持っていたから」→「貴金属は価値あるものだという共通認識が人々の心に刷り込まれていった」という説明が考えられると思います。  もう一つ、「人間の本性に根ざして価値を付与された」とも考えられるように思いました。  どういうことかというと、貴金属の持つ光沢は「自然の中には滅多にないもの=非自然的なもの」だからだ、ということです。  このへんは詳述すると大変なのですが、手短に言うと「文化の根源は、人間が自らの持つ《自然性》から目をそらそうとする営みにある」ということから演繹されてくることです。  死、性的な事柄一般、食など、動物と共有する分野について、人間は禁忌を立てて自分から引き離しておこうとします。この「禁忌」自体が「違犯」の価値を高めるという力学もここから生じてきます(これらもまた、商品化され得ます)。  同時に、人間を人間たらしめる「禁忌」の方にも価値はあることになるでしょう。つまりそれは「人間が自らの自然性から目をそらすのを助けてくれるもの」ですから。  これを考慮に入れると、自然の中に直接存在するわけではなく、人の手が加わって初めて存在しはじめるものである貴金属が、人間的価値の象徴のような地位を占めたと考えることもできようかと思います。ここにはまた、「衣」や「食」といった、自然的与件である肉体の隠蔽や維持に用いられる消費財とはちがって、貴金属が不変性・持続性を持つ点も影響しているでしょう。  こんな感じですね。ご質問の意図と結び付いているかどうかわかりませんが。  なお、「飛行機の翼」は僕が考えた比喩です。岩井さんの考えていることを自分なりに表現するとこうなる、というもので。

noname#1317
質問者

お礼

serpent-owlさんお礼の書き方に不慣れなため、かえってご迷惑をかけました、serpent-owlさんのおっしゃることは大体理解しています。細かく言えば、市場の「マインド」にっいては意見が異なりますが、それ以外は仰るとおりだと思います。 話を元に戻して、マルクスは資本論の中で、生産設備の説明に生産設備の価値が商品に移行するといった表現を使っていたと記憶しています。あのマルクスをして商品の中に価値があると考えていたと思います。一般的価値と商品価値が同じかどうかはこれから考えるとしても、凡々たる私個人が「価値」を感情と理性の中に投錨するためには、もうすこし「価値」を考える時間が欲しいと思っています。 目に見えない物を見るため、目に見えるものがじゃまになっているといえば解かってもらえるでしょうか。 目に見えるものをはずしながら、価値の迷路の中で新しい迷路を見つけて喜んでいる変人です。 ひまなときにはぜひお付き合いください。 有難うございました。

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