• 締切済み

遊郭での避妊について

noname#2787の回答

noname#2787
noname#2787
回答No.1

質問の内容をそのまま回答しているURLがあります。 避妊についてはほとんど対策が無かったというのが実情でしょうか? 子供が出来ると、借金の返済などにも影響があるため、堕胎(流産を無理に起こさせる》のためにかなり体に負担をかけたというのは…産婦人科の講義で聞いた記憶があります。

参考URL:
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/mory/page/other/yuujyo.html
hrk-o
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 …むごい話ですね。 歴史小説には、色里の艶やかな部分ばかりが描かれ、 こういった陰惨なことは書かれていないようですね。

関連するQ&A

  • 吉原(遊郭)についてですが、江戸当時はHIVはなかったようですが、所謂

    吉原(遊郭)についてですが、江戸当時はHIVはなかったようですが、所謂本番をどのようにしていたのでしょうか。 避妊具もなかったと思います。 遊女が懐妊などざらにあるような気がするのですが、堕ろしまくってたのでしょうか?

  • 遊郭が舞台の小説

    いつもお世話になってます。 実は遊郭や花魁が出てくる小説を探してます。 私は宮木あやこさんの『花宵道中』が好きなのでそれに似てるような遊女が主人公であったり遊女の日々の生活がわかるようなものがいいです。 オススメの本があれば教えてくださいm(__)m

  • 初期の吉原遊郭について教えてください

    友人の友人のそのまた知人くらいの人の言を又聞きなのですが、 初期の吉原遊郭は生計を立てる術のない女性を集めて、一通りの教育を受けさせて世に送り出す(嫁に行かせる)ための施設だった。 禿などがいい例で、先輩遊女たちから教育を受けていた。 買春行為は行われていたが、現代ほど貞操観念にはうるさくなく、問題にならなかった。 遊女たちが稼いだ金銭は、巡り巡って最終的には遊女たちを養うために使われた。身請けの際に動く大金も同様。(いったん楼主の懐に入っても、その金を使って楼主が遊女に衣食住と教育を保障したから) 嫁に行く当てを見つけられなかった女性は、遊郭内でお針子や後裔の面倒を見る遣手婆などになって再就職した。 死亡率は約2割ほどで(8割は無事に年季を開けて自由の身になった)、これは当時の衛生管理や食糧事情、医療技術を考えると驚異的な低さで、いかに彼女たちが保護されていたのかがうかがえる。 後期になるとこういった面は廃れ、単なる買春屈になった。死亡率も約8割と激増した。 というような説を聞きました。 非常に興味深くって調べてみたのですが、なかなか初期の吉原遊郭について学べる資料が見つかりません。 吉原遊郭の創設者庄司甚右衛門の人柄や、初期吉原遊郭について知ることのできる資料をご存知の方、教えていただけないでしょうか。

  • 大日本帝国の遊郭(いわゆる従軍慰安婦も含む)の待遇

    JIN-仁(村上もとか作)において、wikipediaでは 「遊郭について調べたことが、この作品を描くきっかけになっている。遊郭の遊女は貧しさで身寄りの無い娘が売られて来た者が多く、その娘が仕事柄梅毒に冒され、更には有効な治療法も無かったため、次々と命を落としていった。」 とあります。 また、テレビドラマでは花魁の野風が自分のことを「吉原から一歩も出られない」と表現していたと思います。 江戸時代の遊女達の待遇は非常に劣悪だったと思いますが、 太平洋戦争が終結するまでに利用されたいわゆる従軍慰安婦たちも待遇が悪かったとのことで日本を非難しております。 大日本帝国になって、近代的な法が施行されて遊女達の待遇も改善されたと思っていたのですが、 いわゆる従軍慰安婦たちや遊郭における遊女達の待遇は、日本政府が謝罪や保障をしなければならないほど江戸時代と変わらず劣悪だったのでしょうか。

  • 吉原の遊女の言葉遣い

    最近SJコミックの「JIN-仁-」というマンガを読んで疑問に思ったことがあります。 これは幕末の江戸が舞台になっていて、結構リアリティを大事にしている印象がある作品なのですが、その中で吉原の花魁が 「あちき」(私) 「~でありんすか」(でありますか) 「やめなんし」(やめなさい) 「ほんだすかえ?」(本当ですか?) と言った風な言葉遣いをしているのが気になりました。 一人の花魁だけではなく遊女たちが総じてこういう言葉遣いなのですが、他の歴史マンガやTVなどでこのような遊女の言葉遣いを聞いたことがなく驚いています。 これは史実に基づいた江戸の遊女の言葉遣いなのでしょうか? それとも作品の中で区別目的や印象づけるためだけの演出なのでしょうか。 遊郭の歴史にお詳しい方、よろしくお願いします。

  • 花魁の外出について

    何度もこちらで質問させていただき、申し訳ないんですが、知りたくて質問してしまいます>< 江戸時代(天明の頃1784年くらい)の花魁の小説を個人で書いています。私の書いている主人公は最高位の花魁で妓楼も吉原きっての大見世という設定です。この花魁が禿や付き人を引き連れて鎌倉へ遊びに行くという件があるんですが、果たして年季明けをしていない遊女がお供はいるけれど大門の外へ、しかも吉原から遠く鎌倉まで遊びに行けたものなのでしょうか?また、下の位の遊女は無理だとしても吉原ではトップの花魁(揚巻や八ツ橋クラス)だったら可能だったのでしょうか? お願いいたします。

  • 吉原遊郭、遊女の人数の変遷について教えてください

    近世の吉原について勉強しています。 明治以降の吉原の遊女数についてはデータがあるようなのですが、江戸時代の遊女の数がどのように推移したかについて詳しく書かれている書籍またはサイト、あるいは詳しいことを教えてくれそうな施設などはありますでしょうか。 いろいろ調べたのですが、ピンポイントで、たとえば開設当時の人数などは分かる部分もあるのですが、飛び飛びで、全体像が見えません。 また、約何人、という大変おおざっぱな数値だったりします。 夏休み中に国会図書館などに出かけて、閲覧できるようなら読みたいと思っています。 ご存知の方がいらしたらよろしくお願いします。

  • 江戸時代と明治の吉原

    先日放送されたドラマ「吉原炎上」を観ました。 その中で登場する吉原では私の知識にある吉原と相違点があったのでいくつか質問させていただきます。 1、遊女は置屋に所属していて、そこから客の待つ揚屋に派遣されるの が遊里のシステム(現代の出張風俗のように)なのにドラマでは、   遊女が所属しているのも客にサービスをするのも同じ妓楼でなされ ているようだった。 2、花魁とは、座敷持ち以上つまりトップクラスの遊女の呼び名のはず なのに妓楼の遊女全てを「花魁」と呼んでいた。 3、花魁道中は、遊女が客の待つ仲ノ町の揚屋へ出向くのを遊女が旅に 出るという演出にしした廓の一大イベントであるのに、ドラマでは  単なるパレードのように描かれていた。 以上がドラマを観て疑問に思った点です。ドラマは明治四十年代の吉原舞台となっていたので、上記で挙げた吉原の習慣は江戸時代までで、明治期になると吉原も様変わりしたのでしょうか? わかる範囲で教えて下さい。

  • 「遊郭」や「ドラッグ」をテーマにした小説・・・

    次のような内容の小説を探しています。 どちらもネットなどで調べてみたのですが、なかなか自分の思っているような作品が見付からないもので・・・。 ・「遊郭」をテーマにした小説 映画『吉原炎上』のような、遊郭の内部を取り扱った作品。遊郭で働く人たちの事情や、女郎たちの執念や情念、哀しさなど、心理的な部分を主体にしているものや、色々なしきたりや掟など、実態がわかるもの。 自分で調べた限り、遠山の金さん的な成敗ものの中に、花魁殺しが少し絡んで来る・・・というようなものしか見当たらなかったです(T_T)゛ ・「ドラッグ」をテーマにした作品。 ハードボイルドっぽいものよりも、ドラッグに溺れて行く人、人生を滅ぼしていく人、依存症から立ち直るために凄まじい努力をする人など、心理的なものや、現実の実態が詳細に分かるようなもの。 あと、薬物が人体に及ぼす影響など、医学的な知識が入っているもの。 どちらのテーマにも書いた通り、心理的なこと、内部事情、色々な詳細が書かれていて、濃密な作品が好みです。 すべてに当てはまらなくても、これは!というものがあれば教えてください。 よろしくお願いしますm(__)m

  • 遊女と女郎

    昔の日本の遊廓で身を売っていた女性のことを言うのに、「遊女」という言い方と「女郎」という言い方、どちらが馴染みがありますか? 花魁、太夫、湯女などは位によるものなので、全般的に表せる「遊女」か「女郎」でお願いします。 私は「女郎」の方が日本独特な感じがして好んで使っていますが、皆さんはどうなのかなと思って質問しました。 よろしくお願いします。