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文化大革命とは?
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もう一度、全部書いておきます。 また、文字化けがあったら教えてください。 ★文革の流れ 1.文革の始まり 1966年5月16日(私が生まれたのはこの13日前だったんですねえ!)の文革開始の通知(いわゆる5・16通知)から1969年の第9回党大会までが文革の第1段階。 毛沢東が闘争を発動すると、劉少奇、トウ小平につながる実権派は、江青らを後ろ盾とする紅衛兵によって拘禁され、侮辱され、権威を剥奪されました。その後、林彪支配の解放軍の圧力によって新しい秩序の樹立が図られました。 第9回党大会で、林彪は毛沢東の「親密な戦友」で「後継者」だと確認されました。 2.林彪失脚 第9回党大会から第10回党大会(1973年8月)までの第2段階。 「国家主席」の地位を狙っていた林彪は、「後継者」という立場だけでは不満で、毛沢東を賛辞する演説を部下に行わせたりして毛沢東から国家主席の地位を与えてもらうように画策しますが、毛沢東はこれを無視しました。 林彪は息子の林立果と共に毛沢東暗殺のクーデターを企てますが、穴だらけの計画だったこともあり失敗し、妻の葉群、林立果と共に空路亡命を企てます。しかし、モンゴルで墜落死してしまいます。 その後、江青ら四人組は林彪に代わって後継者の地位を狙います。 3.文革の収束 第10回党大会以降の第3段階。 四人組の台頭が目立った時期です。この間にトウ小平は復活・再失脚を経験します。 毛沢東の死後、葉剣英は華国鋒を説得し四人組を逮捕しました。 1978年12月の第11期3中全会で文革は全面的に否定され、「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議(1981年6月)」で、その誤りが決定しました。 ★この運動で「敵」とされた人々は、紅衛兵や労働者(造反派)によっていきなり逮捕されて、監禁や侮辱を加えられました。また、投獄され拷問によって衰弱死したり、自殺した人も少なくありませんでした。 紅衛兵 文化大革命の火付け役となった、中学生・高校生・大学生らかならる大衆組織。もっと年齢の低い小学生は「紅小兵」と呼ばれました。 毛沢東を保衛する紅い衛兵という意味です。 文革初期に登場した出身家庭のよい紅衛兵は「自来紅」と呼ばれ、その後に台頭した紅衛兵は「自覚紅」と呼ばれました 四人組 江青(毛沢東の妻。党政治局員)、張春橋(副首相、党政治局常務委員)、王洪文(党副主席)、姚文元(党政治局員)の4人からなる中国共産党中央の派閥。「上海幇:上海グループ」とも。 毛沢東側近グループとして文革を主導しました。1976年9月9日の毛沢東の死後、華国鋒(党第一副主席)らの党中央によって、10月6日、「反革命集団」として逮捕されて失脚しました。 その後、1980年11月から81年1月にかけて、最高人民法院特別法廷で裁判にかけられ、81年1月、江・張の2名には死刑(執行猶予2年。その後、83年に無期懲役に減刑されました)、王には無期懲役、姚には懲役20年の判決が下りました。
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文字化けは何処でしょう。 御知らせいただけば、その部分だけ、再度書きます。 それから、毛沢東が何を求めて文革を起こしたかについては、こんなことでしょうか。 1966年5月25日、北京大学の学生大食堂に、学生や教職員が 押し寄せ、騒然とした空気が広がった。東の壁に巨大な大字報 (壁新聞)が貼り出されていたのだ。学長の陸平ら、大学や北京市の共産党幹部が名指しで批判され、「毛沢東思想の偉大な赤旗を高く掲げ、すべての妖怪変化とフルシチョフ流の反革命修正主義分子を一掃し、社会主義革命を最後までやり抜こう」と主張していた。 6月1日夜、中央人民放送局は、これを「全国初のマルクス・レーニン主義の大字報」と称賛し、翌日、党機関紙「人民日報」にも、大字報の内容が「歓呼を送る」との論評つきで転載された。 陰で共産党中央が動いているに違いない。陸平の心は凍った。 「われわれは紅色政権(赤い政権)を防衛する衛兵である」 北 京の精華大学付属中学に張られた大字報の署名は「紅衛兵」。 党幹部の子弟たちは毛沢東神格化が強まる中で育ち、「毛沢東思想による革命継続」に熱狂した。学内には大字報があふれ、紅衛兵たちは町に繰り出してデモを行った この騒乱を劉少奇国家主席は深刻に受け止め、トウ小平党総書記とともに、杭州で静養中の毛沢東のもとへ飛んで、事態の収拾に乗り出すように求めた。 しかし、毛沢東は軽く手を振り、「乱れるにまかせればよいではないか」と言い放った。しばらく帰京する気はないので、二人で臨機に問題を処理するように、と答えた。劉少奇は、まだ騒乱の真の標的が自分である事に気がつかなかった この10年も前、56年2月にソ連の党第一書記フルシチョフはスターリンの独裁を批判する秘密報告を行った。神格化され、無謬性が信じられてきたスターリンの偶像は徹底的に破壊された。 毛沢東は激怒しつつも、「中国にも修正主義が現れ、自分も死に鞭打たれるのだろうか?」と疑心にとらわれた。「誰が中国のフルシチョフなのか?」 「大躍進」政策が破綻し、59年には国家主席の地位を劉少奇に譲った。その修正主義的政策は着々と成功を収めている。このままでは、自分はいずれスターリンと同じ末路となる。この危機を打開するために考え出したのが、大衆動員によって、党の外から修正主義者達を打倒しようとする「文化大革命」であった。 しかし、戦術の天才・毛沢東はいきなり、本丸の劉少奇を攻撃して、自分の思惑を明かすようなことはしない。まず北京の学生たちが、北京大学や北京市の党幹部を「反革命」と糾弾する。 誰が誰を攻撃しているのか、分からないうちに、国家全体を混乱に陥れ、それに乗じて劉の失脚を狙うという遠大な戦法であった。
補足
補足の説明ありがとうございます。文字化けの部分ですが、 毛沢東が闘争を発動すると、劉少奇、鮪]?燭砲弔覆觴存?匹蓮?樟弔蕕鮓紊軆發箸垢觜髪卻爾砲茲辰胴感悗気譟?鄂気譟??劼鯒軛イ気譴泙靴拭?修慮紂⇔喇兄拉曚硫鯤?海琉砧呂砲茲辰匿靴靴っ畚?亮??泙蕕譴泙靴拭く 四人組の台頭が目立った時期です。この間に鮪]?燭鷲?茵?銅叉咾魴亳海靴泙后く の2カ所が文字化けしています。
文化大革命とは以下のような事件です。 ★文革の流れ 1.文革の始まり 1966年5月16日(私が生まれたのはこの13日前だったんですねえ!)の文革開始の通知(いわゆる5・16通知)から1969年の第9回党大会までが文革の第1段階。 毛沢東が闘争を発動すると、劉少奇、トウ小平につながる実権派は、江青らを後ろ盾とする紅衛兵によって拘禁され、侮辱され、権威を剥奪されました。その後、林彪支配の解放軍の圧力によって新しい秩序の樹立が図られました。 第9回党大会で、林彪は毛沢東の「親密な戦友」で「後継者」だと確認されました。 2.林彪失脚 第9回党大会から第10回党大会(1973年8月)までの第2段階。 「国家主席」の地位を狙っていた林彪は、「後継者」という立場だけでは不満で、毛沢東を賛辞する演説を部下に行わせたりして毛沢東から国家主席の地位を与えてもらうように画策しますが、毛沢東はこれを無視しました。 林彪は息子の林立果と共に毛沢東暗殺のクーデターを企てますが、穴だらけの計画だったこともあり失敗し、妻の葉群、林立果と共に空路亡命を企てます。しかし、モンゴルで墜落死してしまいます。 その後、江青ら四人組は林彪に代わって後継者の地位を狙います。 3.文革の収束 第10回党大会以降の第3段階。 四人組の台頭が目立った時期です。この間にトウ小平は復活・再失脚を経験します。 毛沢東の死後、葉剣英は華国鋒を説得し四人組を逮捕しました。 1978年12月の第11期3中全会で文革は全面的に否定され、「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議(1981年6月)」で、その誤りが決定しました。 ★この運動で「敵」とされた人々は、紅衛兵や労働者(造反派)によっていきなり逮捕されて、監禁や侮辱を加えられました。また、投獄され拷問によって衰弱死したり、自殺した人も少なくありませんでした。 紅衛兵 文化大革命の火付け役となった、中学生・高校生・大学生らかならる大衆組織。もっと年齢の低い小学生は「紅小兵」と呼ばれました。 毛沢東を保衛する紅い衛兵という意味です。 文革初期に登場した出身家庭のよい紅衛兵は「自来紅」と呼ばれ、その後に台頭した紅衛兵は「自覚紅」と呼ばれました 四人組 江青(毛沢東の妻。党政治局員)、張春橋(副首相、党政治局常務委員)、王洪文(党副主席)、姚文元(党政治局員)の4人からなる中国共産党中央の派閥。「上海幇:上海グループ」とも。 毛沢東側近グループとして文革を主導しました。1976年9月9日の毛沢東の死後、華国鋒(党第一副主席)らの党中央によって、10月6日、「反革命集団」として逮捕されて失脚しました。 その後、1980年11月から81年1月にかけて、最高人民法院特別法廷で裁判にかけられ、81年1月、江・張の2名には死刑(執行猶予2年。その後、83年に無期懲役に減刑されました)、王には無期懲役、姚には懲役20年の判決が下りました。
お礼
回答たいへんありがとうございます。 ですが毛沢東が何を求めて文革を起こしたかについてはここでは振れておりませんので、出来ましたらその部分の解説もしていただくとありがたいのですが。それから文章の何カ所かが化けてしまっていて分からない所があるのですが、何と書かれているのでしょう?
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