- ベストアンサー
我思う故に我あり
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
ラテン語です。 Cogito, ergo sum. ですね。 cogito=「私は考える」 sum=「私は存在する」(英語のbe動詞)
その他の回答 (4)
- puni2
- ベストアンサー率57% (1002/1731)
あ,いえいえ。 ラテン語は昔の学者世界では公用語だったようですから。 彼も昔の人(1596~1650)ですので,そのくらいはできたのでしょう。 彼の著書の中にも,Principia Philosophiaeなど,ラテン語のタイトルのものがいくつか見られます。(もっとも,「我思う~」の載っている本「方法叙説」の原題はDiscours de la methodeとフランス語なのですが。)
- puni2
- ベストアンサー率57% (1002/1731)
補足します。 フランス語でも「思考する主体としての人間」という意味のcogito(コジトと発音)という語はありますが,ラテン語から入った外来語といったほうがよいかと思います。 「我思う,故に我あり」のフランス語訳は Je pense, donc je suis. (ジュパンス,ドンク ジュスュイ)
- xinman
- ベストアンサー率30% (25/83)
ありゃりゃラテン語ですか? わたしゃデカルトがフランス人だからフランス語だと思ってました。 すみません。
- xinman
- ベストアンサー率30% (25/83)
仏語で cogito, ergo sum だと思う。
関連するQ&A
- デカルトが「すべては夢である可能性」を乗り越えた手法
こんにちは。お世話になります。 デカルトは方法的懐疑により「全ては夢である可能性」を疑ったとのことですが、デカルトは「全ては夢である可能性」を、どのような手法により乗り越えたのでしょうか。 「明晰かつ判明なものは確実に存在する」 「誠実な神が私を騙す訳がない」 「コギト・エルゴ・スム」 等までは理解できるのですが、これらの論拠から「夢説」を乗り越えるに至る過程が理解できません。 宜しくお願い致します。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- "cogito"(コギト・エルゴ・スム)は真か?
命題 「我思う、ゆえに我あり」 (コギト エルゴ スム=cogito ergo sum )は真でしょうか? 我の精神の存在だけが疑いようのない事実なら、世間の常識はすべて曖昧なわけです。 人生をどう過ごすべきか、何が大切か、わからなくなります。 また、cogitoは、アウレリウス・アウグスティヌス=Aurelius Augustinus 以前、パルメニデス=Parmenidesの "to eon" や "to hen" がルーツでしょうか?それとも、更に遡ることが出来ますか? よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 我思う、故に我ありに対する反論
この前デカルトの我思う、故に我ありについて話していたのですが、 「僕は自我は真実だし疑うことはできない」といったのですが「自我、つまり意志は言葉を使う。言葉なしでは意志できない。言葉が嘘なら自我も嘘だ」といわれました。 僕もその通りかなと思ってしまいました。 これはデカルトの反論になりえるでしょうか?
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 「我思う、故に我あり」とは?
デカルトの「我思う、故に我あり」という言葉の意味が良く分かりません。 何かを見たり触ったりしているのも、夢の中の出来事かもしれないけど、どれだけ疑ったとしても疑っていると思っている事実は動かない・・・ということだと思うのですが、だから何が言えるのか良く分からないです。 また、疑っていると思っていることも夢かもしれないと思うのですが、どうなんでしょうか? どなたか分かりやすく説明をお願いします。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- デカルト<コギト>の意義
はじめまして。 自分は哲学とは無縁の素人ですが、趣味(というか好きなので)哲学関係の著作はよく読みます。けれどもやはりわからないことが多く、質問させていただきたいことがあります。 デカルトのコギト、つまり方法的懐疑によって取り出された「我思う、ゆえに我あり」という<コギト>が哲学史的にどのように乗り越えられたか、またはどのような意義を持つものだったのか、という点がよくわかりません。 また、それと関連してデカルトは心身二元論の元祖として捉えられていると聞きますが、それはどうしてなのでしょうか? <コギト>の思想と心身二元論がすぐに結びつくものなのでしょうか? なんとなくわからないではないのですが、どうもすっきりしません。 どなたか回答いただければ大変嬉しいです。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- デカルトの「コギト・エルゴ・スム」に関する質問です
デカルトの名言とされている「コギト・エルゴ・スム」に関する質問です。 私の持っている本の解説で、 デカルトが、この名言の境地に到達するまでのことについて説明があったのですが、 この説明の意味が良く分からなかった(意味が上手くつながらなかった)ので、そのことについて お聞きしたく質問致します。 以下のような解説文なのですが デカルトはあらゆる物事を疑い抜いたあげく、それでもなお疑い得ないものとして実在する、 この「疑っている自分自身の存在」(=コギト的自己)を発見した。 「Cogito ergo sum」(思う、故に、我在り。)である。 まず、「疑い抜いたあげく」、「疑い得ないものとして実在する、この『疑っている自分自身の存在』(=コギト的自己)を発見した」とありますが、 「この『疑っている自分自身の存在』(=コギト的自己)」は本当に疑い得ないのかが疑問です。 確かに、例えば、自分が自分自身の疑っているかどうかを疑おうとしても、「自分は本当に今疑っているのか」と疑うことになり、結局は「疑っている」という意識作用が存在していると確実に言えることになります。 しかし、この『疑っている自分自身の存在』は確実な「実在」と言えても、「疑い得ない」ものではなく、 疑い得る対象になるとは思えるのですが、いかがでしょうか? なぜなら、「疑っている自己を疑う」という意識作用を通じて『疑っている自分自身の存在』の確実性を確認できた以上、「疑っている自己」は「疑い得る」と言わざる得なくなると思えるのですが・・・。 また、今度は逆に「疑っている自己は疑い得ない」と言えても、そのような自己は確実に存在するとは言えないのではないかという疑問です。 「疑っている自己は疑い得ない」ということを確認するために、 「自分がいま本当に疑っているかどうか」を疑おうとすると、疑う対象にするべき「疑っている自己」は既に過去形の「疑っていた自己」になってしまい、 本当に捉えたかった「疑っている自己」は、先程の「疑っている自己」とは別に新しく出現し、「疑っている側」に回ってしまいます。 このような意味においては、 現在進行形の「疑っている自己」は「疑い得ない」(=疑うことが人間の認識能力的に不可能という意味で「できない」)と言えます。 しかし、「疑っている自己は疑い得ない(=疑えない)」と言えても、 このような自己が確実に存在するとは言えないのではないでしょうか? なぜなら、今回の「疑い得ない」は、そもそも人間の能力的な制約から「疑えない」の意味であって、 「疑っている自己」自体が確実に存在することを積極的に支持するものではないと思えるからです。 (「疑う」という「ふるい」から逃げられ続けるために「疑えない」ので、「疑っている自己」自体がそもそも「実在」しているかどうかは別問題。) 以上の2点の疑問なのですが、まとめると、 「疑っている自己」の「実在」性に重点を置いて意味を解釈すると、それは「疑い得る」のではという疑問が湧き、 また、「疑っている自己」が「疑い得ない」という点に重点を置くと、それは「実在」しているのかが疑わしくなります。 この2点を意味上上手くまとめることができれば、解説文の意味もスッキリと理解できるようになりそうなんですが・・・。 それは可能でしょうか? それとも、私の疑問自体がおかしいでしょうか? (自分で打ち込んでいてなんですが、質問文の意味に違和感が湧きっぱなしでした(汗)。) 長々とまとまりのない質問で申し訳ございません。 お知恵をお貸しください。 宜しくお願い致します。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- 「我思う故に我あり」は間違いですか?
デカルトの「我思う故に我あり」は哲学の金字塔であるかのように高校で習いました。 哲学の第一原理だとか・・・ 後になってこの言葉はカントによって否定されていると聞きました。 今日的に哲学では「我思う故に我あり」は間違いと考えられているのでしょうか?
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 「考える」と「思う」はどう違いますか?
「考える」と「思う」はどう違いますか? 私自身は、この2つの言葉はかなり違うものとして理解しておりました。ところが、デカルトのコギトの日本語訳として以下の2つがほとんど同じくらいよく出てきます。 (1)我思う故に我あり。 (2)我考える故に我あり。 ということは、「考える」と「思う」は、一般には、ほとんど同じ意味として扱われているのではないかという疑問が沸いてきました。皆様はどのようにお考えでしょうか? ちなみに、私の理解は以下の通りです。 「考える」は、「言語を用いて」、「意識的に」、「論理的・合理的プロセスを踏んで」行われる操作であるのに対し、「思う」は、通常、「言語を用いずに」、「半無意識に」、「心に思い浮かぶに任せて(必ずしも、論理的・合理的とは限らない)」行われる操作ではないかと思っています。 もし、このように考えると、デカルトのコギトは、「我思う故に我あり」ではなく、「我考える故に我あり」でないとおかしいような気もするのですが、実際のところ、どうなのでしょうか?
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- デカルトのコギトはどこが独自性なのか
アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り( Si fallor, sum. )》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り( Je pense. donc je suis. )》を導き出したことには 独自性があると パスカルが議論しています。 ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~ わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。 (パスカル:《幾何学の精神について》2. 1657) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。 アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。 ◆ (アウグスティヌス:あやまつならば・・・) ~~~~ だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。 ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。 精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。 ☆(ぶらじゅろんぬ註) 念のために この点についてのデカルトの文章です。―― ▼ (デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想 がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ る と仮想しようと決心した。 (方法序説 4) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。 さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。 ☆ この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考 する能力を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。 だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・ さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(*あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。 或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。 それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(*または《われ》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・ (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが: ▼(デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・ (方法序説 2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ と書いたことは よく知られているところである。 これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。 ● (パスカル) ~~~~~~~~~~ デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・ なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。 (パスカル:幾何学の精神について 2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしているのですが 大目に見ておきましょう。 《あやまつなら われあり》というとき あやまちに気づいたわたしは とうぜん そのことを 振り返って 考えます。原因について。相手や情況について。等々。その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを取り出せば 《考えるとき われあり》となるはずです。 デカルトのコギトに独自性はあるのか?
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
お礼
助かりました。 どうもありがとうございます。