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内に目を向ける、外に目を開く。

yamatonの回答

  • yamaton
  • ベストアンサー率10% (4/39)
回答No.5

突き詰めるととても難しいですね。それもそれを言葉で表現しようとすると、難しさもひときわで、ともすると言葉遊びに終始してしまうことにもなりかねないような気がします。でも、なんとか私なりに考えてみます。 あなたは自我(意識する自己)をお持ちです。jumeさんがおっしゃるように、それを内省(reflect)することが内に目を向けるということではないでしょうか。意識する自己について熟慮・熟考する、自我に向けて投げ込んだ石の反響を聞く、自我に向けて照らした明かりの反射を見る。そのようなことだと思います。 これに類似する作業は、実際には普段から頻繁に行われているのではないでしょうか? 「今夜は何を食べようか」、「明日の休みには何処へ行こうか」、「向かいの座席の女性が酔っ払いにからまれている、自分は何もしなくて良いのか」、「地球のすべての人を飢えから救い、全人類が平和で幸福な暮らしをするためにはどうしたら良いのか」etc.。それに係る題材は、様々でしょう。特にあなたの場合は普通の人よりはるかに多くこの作業をされているかもしれませんよ。「内に目を向けるとは何ぞや」という自己への問いかけ、その行為そのものこそ内省以外のなにものでもないでしょう。 「内省するためには、外に視点が必要では・・・」というお話でしたが、外から見たと仮定する視点で充分ではないでしょうか。時にはそれすら必要ではないケースも少なくないように思います。 それにより答えがでるものと、いくら努力しても納得のいく答えがでないものがあるでしょう。でもそれはそれで良いのだと思います。 私にとって、自分として一番理解しやすい「内に目を向ける」を別な言葉で表現したものは「自問自答」です。 哲学的な専門知識はまったくありませんので、あなたのお求めになっているものとはほど遠いかもしれませんが、それはご勘弁を・・・。

caballero
質問者

お礼

アドバイスありがたく思います。 > 「内省するためには、外に視点が必要では・・・」というお話でしたが、外から見たと仮定する視点で充分ではないでしょうか。時にはそれすら必要ではないケースも少なくないように思います。    仮定の視点、そこに唯一の自我があり、だから自我の客観というものは不可能と考えます。二つあってはダメと考えます。数の問題ではなく、自我とはいかな場所なのか、脱我?とはどういうことか、思考を思考することか?僕は、思考の世界と 外の世界は同じ世界のものと考えています。 >私にとって、自分として一番理解しやすい「内に目を向ける」を別な言葉で表現したものは「自問自答」です。  自問自答ですか、思惟の中で思索するということですよね。内省の世界。つまり、目をつぶって考えるみたいな。はたしてそれは内側なのか、外の世界はほんとに外なのか?僕の結論は、両方同じ世界のものという事です。内も外もない。 いまある言葉の中には何がつまってるのか?諸事物の内側は何か? yamatonさんからご助言いただいた事で、少し整理がついたように思います。 >哲学的な専門知識はまったくありませんので、あなたのお求めになっているものとはほど遠いかもしれませんが、それはご勘弁を・・・。  全然そんなことないです。専門知識も日常感覚も、考えている所は同じです。アドバイス大変参考になりました。ありがとうございます。

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