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内に目を向ける、外に目を開く。

chihokoの回答

  • chihoko
  • ベストアンサー率13% (14/106)
回答No.3

●脳の処理そのものに目を向けるとは、例えば、  友達が泣いている時 わたしもかなしくなった 何故だろう?と考えること。  ある論理展開に 矛盾を感じた。何故だろう?と考えること。  夕陽が美しくて 涙がでた 何故だろう?とかんがえること。などです。  外にも内にも 数え切れない対象があると思います。  六感も脳の処理の結果なのかもしれませんが わたしの感覚では  外の世界との共鳴のようなものがあるかもしれない脳の特殊フィールド  のような気がします。どのような処理をしているのか ちょっとわかんないゾッ  というもろもろを 六感として認識しています。  そこから派生する事象とは デパートであのひとの後姿が見えたような気がして  あたりを探してみる するとあのひとの好きだった映画の続編予告が  掲示スクリーンに映し出された。それを見てわたしはポロポロ涙を流した。です。 ●では失礼いたします。わたしの時間の許す限りでお答えさせていただきますので  なんなりとお尋ねください。  

caballero
質問者

お礼

お返事ありがとうございます。 >友達が泣いている時 わたしもかなしくなった 何故だろう?と考えること。  僕は、そこに悲しみという実在があったと考えます。 >夕陽が美しくて 涙がでた 何故だろう?とかんがえること。などです。  何故でしょう?ね、。美しい存在があったというより、美しいという存在と夕日という存在があった。涙が出るのはなんともいえません。なぜでしょうね。 >あたりを探してみる するとあのひとの好きだった映画の続編予告が  掲示スクリーンに映し出された。それを見てわたしはポロポロ涙を流した。です。  あの人の破片が実在としてあり、あなたはそれに出会ったのだと考えます。 >六感も脳の処理の結果なのかもしれませんが わたしの感覚では外の世界との共鳴のようなものがあるかもしれない脳の特殊フィールドのような気がします。どのような処理をしているのかちょっとわかんないゾッというもろもろを、六感として認識しています。  僕は、少なくとも今存在しているのは共鳴していると考えます。分類(認識)されているものも、残りのすべてのものもです。そのことにとてつもなく哀しさを感じる時があります。その不完全性にです。なんて情け深く美しいのかということにです。その装いに、無限の形容を感じます。僕の認識とはどれほどに小さいものかなぁ。  chihokoさんの共鳴に関して、どのような印象をお持ちでしょうか?もう少しお話をおねがいしてよろしいでしょうか? お尋ねできる事、感謝しています。

caballero
質問者

補足

>外にも内にも 数え切れない対象があると思います。 数えるから限られます。しかし、この方が第六感とおっしゃるのは、数えれるような者ではありません。一般にいう六感とは、「意識」です。 この方の感じている、共鳴、それによる涙は、数えれるような者ではありません。 涙を幾つの粒こぼしたのか?それは、涙を問うときには無用の心配です。 涙を心配する時は、その涙を心配すればいいです。

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