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「法」と「道理」の違いについて

前回「このシチュエーションをなんと表現しますか」でお世話になりました。 その節はありがとうございました。 今回、また私では少し解決するのに難しい用語にぶつかりました。 その用語は「道理」です。 「道理」とは、物事のそうあるべきすじみち。ことわりであって、人の行うべき正しい道のことです。 現在「法」と「道理」がどう違うかを論じているのですが、「法」は「外的強制力」が働くけれども、「道理」はそうではありませんよね? 「道徳」に近いのでしょうか?それとも別物なのでしょうか? 別物ならば、どこが違うのでしょうか? もうひとつ「道理を破る方はあれども法を破る道理なし」 という言い回しもありますが、これは法の法が強いということですね。 つまり 法>道理 というわけなのですが どんなシチュエーション、またはどんな文章の時に使うのでしょうか? この言葉がとても気になっています。 自分なりにも調べてみたのですが、言い回しなどはなかなかのっていないので 実際のニュアンスや定義に苦戦しています。 ご存知の方、いらっしゃいましたらよろしくお願いします。

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noname#1423
noname#1423
回答No.2

 言葉の一般的な使われ方の話でいいんですよね?  「道理」という言葉は、大きく分けて、二通りの意味、または、それらの融合した意味で使われていると思われます。 1.物事がそうあるはずの筋道。理屈に合っていること。当然のこと。 2.そう行われなければならない正しいあり方。善。したがって、「道徳」に近い。  ですから、「道理を破る法はあれども、法を破る道理なし」という言葉は、「法」の優位を説く言葉には違いありませんが、最初の「道理」は2の意味に近く、あとの「道理」は1の意味に近いと思われます。つまり、「悪法が存在したとしても、法を破っていいという理屈はない」と。『太平記』では、この言葉のあとに、「況や有道の法をや」(まして、人の道に順じた法はなおさらだ)という言葉が続くのはそのためでしょう。  こういうふうに考えれば、「法も道理もない」という言葉は、「法」と「道理」を並列していることから、2の意味に近い意味で使っていると思われます。

mayuclub
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 そうですね。助詞の「も」は似たような意味のことばを並列させますものね。 道理の意味を2つ挙げて、どうして二(道徳)に近いかを助詞の「も」を使って論じてみようと思います。 「道理」という言葉は普段あまり使わないので イマイチピンとこなかったんです。 古典のイメージや決り文句でしか使わなかったので・・・ けれどかなり見えてきました。 >「道理を破る法はあれども、法を破る道理なし」 これはやっぱり難しいかな?? 私にはまだ使いこなせなさそうです。 ありがとうございました!

その他の回答 (1)

  • starflora
  • ベストアンサー率61% (647/1050)
回答No.1

    中国の思想用語のことか、西洋の思想なのか、よく分からないのですが、適当に考えます。(これらの言葉は多義的な意味を持つはずで、無前提に、「法」が「道理」がと言われても、普通困るのでは)。     道理とは、中国的には、天命・天意に沿うことと言うような感じで、老荘思想的には、「自然」に備わる人倫の道というようなニュアンスでは。人として行うべき正しい道だと、それはソルレンになるでしょう。ゾルレンには強制力があるはずです。内面的な強制力とでも言えばよいものです。しかし、「自然の人倫の道」とすれば、天はそのようになっているということで、これは「無為」と「作為」の関係が前提になるのでは。     無為にして、人が自然にかくあるべきこと、ゾルレンではなく、天がそう決めたということです。「法」はそれに対し、共同体のノモスという意味でしょう。共同体を維持するため、成員や指導者に課される行為規範の意味だと捕らえれば、共同体を維持しようとする、いわば「人為・作為」の力によって、自ずと、ノモス=法を破る者には、共同体からの罰則が何らかの形で課されるということでしょう。それが、外面的強制力に見えるということでしょう。     道徳とは、ノモスのヴァリエーションで、内面化された法、個人の超自我的な行為規範、従って、ゾルレンの一つの形でしょう。本来、道徳は道理と同じもののように思えるのですが、この文脈では、異なるもののような感じです。人間の自由意志に基づくエティカといえば、カントかスピノザみたいですが、そんな意味ではないでしょう、この場合の道徳は。自然にして無作為な行為規範として道理があるなら、道徳とは、作為的・人為的に定めた、内面化された法の意味では。     「道理を破る法はあれども、法を破る道理なし」とは、「破る・破らない」は人為であり作為であるので、共同体のノモスである法は、天の意に反する命令を出すことができるが、天の意は無為で自然なる規範であるので、法が悪法であろうと、これも、人為における「自然」であって、無為は人為と共約しないということで、道理は、法を裁くことはないという意味でしょう。     さる国では、役人たちが、新しい法を定め、人民を法に従って裁いている。聞くところ、理不尽な法であり、道理に合わないこと夥しい。されど、泰山に住まう師のいうことには、「道理を破る法はある、しかし、法を破るという道理はない」。法は無法であろうと、法である限り、逆らうべきではない。天意に則れば、悪法はおのずから破れて滅びる。天の道理とはかくのごとし、なりと。  

mayuclub
質問者

お礼

アドバイス、ありがとうございます。 少し哲学が入っていて混乱しましたが、だいたいわかりました。 (ニュアンスとして伝わって気ました) >これらの言葉は多義的な意味を持つはずで、無前提に、「法」が「道理」がと言われても、普通困るので そうなんですよね。 今回扱おうとしている〈法〉は法律に一番近いものです。 例えば ・未成年者が煙草を吸うことは法律で禁止されている。そしてこれを破ったものは法的処置をとることになる〈法〉 ・電車やバスの中でお年寄りや体の不自由な人に席を譲ることは<義務>ではなく<善意>である。よって席を譲らなくても、そこには「外的強制力」は存在しないので法的に罰せられることはない〈道徳〉 ・こういった例をあげるとしたら〈道理〉は何?? 〈道理〉は定義するのに難しく、今まで何気なく使っていたのですが 「法も道理もない」という言葉を証明する壁にぶちあたり、混乱しています。 言葉の幅が広いですが、今回は ・法律と道理の大きな違いを簡潔に述べる という感じです。 もう少し具体的な違いがわかると助かります。 ニュアンスではわかるのですが、言葉に限定できないのが現状です… 私自身ももう少し調べてみます。   最後のは漢文みたいですね。 ちなみにこういった話はすごく好きです。

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  • 「ことわり」は「ことうあり」?ことわりの由来とは?

    「ことわり」という言葉の由来を調べていて、以下の解釈を知りました。 一般的には「ことをわる」の解釈ですが、この解釈は正しいのでしょうか? 詳しい方がいましたら、ご教授ください。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1038686125 以下 抜粋 理=道理・筋道 「ことわり」とは(ことうあり)の転訛で 「こと」=言う 「う」=付 「あ」=同じ(合う) 「り」=物事の過程 「ことわり(ことうあり)」=言葉に言葉と同じものを付加した過程

  • 評論用語(論理・理屈・筋道)などの解説お願いします

    頭かなり悪いので助けて下さい。具体例を挙げて言葉を解説してくれたり、言葉のもっとわかりやすい定義や違い、そして例文を教えてくれると助かります。 下記にあげる訳のわからない言葉を使用せずに解説お願いします。 評論文を読んでいると、論理と言う言葉が必ず出てきます。 こういうのを国語の先生に聞きたかった。 そして、論理の意味を調べてみると、 論理=考えや議論などを進めていく筋道      例文:「筆者の論理を追え」「彼の論理は正しい」 なんだ、筋道って? 調べてみよう・・・ 筋道=物事がそうなっているわけ(理由)。事の条理。道理。     例文:「筋道を立てて話す」「筋道を追う」 なんだ条理って? 道理って? だけど、筋が通っているって、考えや気持ちがブレずに首尾一貫していることだよな。 この意味から考えると、筋が通っている=理由が矛盾なく人にも分かる? ※通っている=矛盾がなく内容が理解できる 条理=物事の筋道。道理。 例文:「これは条理に合っている」 明らかに文章じゃ筋道とか道理の意味合いとは異なるような・・・。 また、道理とか筋道が出てきたぞ。じゃあ道理ってなんだ? 道理=(1)物事の正しい筋道。また、人として行うべき正しい道。理。      例文:「道理をわきまえる」「道理にはずれた行為」      (2)筋が通っていること。正論であること。      例文:「言われてみれば道理な話だ」「道理であいつがバカなわけだ」 正論ってなんだ? 正論=道理にかなった正しい意見や議論  例文:「君の言うことは正論だ」 ※適った=ぴったり合った、当てはまった なんか意味が全て同じようで訳が分からなくなってきた。 所で矛盾ってなんだ? 矛盾=2つの物事が合うべき所が食い違っていて、つじつまが合わないこと     例文:「二人の話が矛盾している」 ※食い違う=(何か)と違っている、合わない なんだつじつまって? つじつま=合うべき所がきちんと合う物事の筋道      例文:「話のつじつまを考える」 また筋道って言葉に逆戻り・・・・。 んじゃあ良く聞くつじつまが合うって? つじつまがあう=筋道が通っている。理屈に合う。          ※「証言はまるでつじつまが合わない」 ※合う=ぴったり合った、当てはまった もうわけわからない。 気を取り直して、今度は理屈の意味を調べてみよう 理屈=(1)物事の筋道。道理。 ←また同じ意味が出てきた      例文:「君の理屈が正しければ成功する」「理屈で物を語るな」      (2)無理につじつまを合わせた論理。屁理屈。 ←つじつまと論理って言葉が出てきた      例文:「理屈をこねる」 道理。筋道。論理。だの訳のわからない言葉ばかり。 って感じで調べてたんですけど、各々の言葉が似たような意味で違いが分からず、全く何も見えません。世の中では、明らかにこれらの言葉は使い分けられて使われています。私も頭が馬鹿以外にもなんか理解できない原因があるのかもしれません。 誰か助けて下さい。

  • 用語の意味を教えて下さい。(論理・論理的・筋道等)

    「論理」「論理的」「筋道」「理屈」「条理」「辻褄が合う」の意味についての意味をろくにわからないまま使っていたので、改めて辞書などで調べましたが意味がわかりません。よく日常的に使う言葉のようですが、日本人は辞書的な意味でとらえて使っている人はほぼゼロで、単純に解釈している気がします。 これらの言葉を辞書で引くと、日常では下記のような意味で使われていると思いますが、正直こんな言葉の定義で覚えたとしても自分のモノ(語彙力アップ)にできません。それぞれ噛み砕いた解釈・わかりやすく簡単に言うとどういうことかがわかりません。 「論理」 [1] 思考の形式・法則。議論や思考を進める道筋・論法。 「論理的」[1] 論理にかなっているさま。論理を追って考えるさま。 ―に考える ―な文章 「筋道」 [1] 物事の道理。すじ。 ―の立った話 「理屈」 [1] すじの通った考え。道理。 ―に合ったやり方 「条理」 [1] 社会における物事の筋道。道理。 ―にかなった解決 「辻褄」 [1] 一貫すべき物事の筋道。 収支の―を合わせる これらの言葉の意味を使った下記の例文を、「言葉の意味をしっかりと当てはめて、単純明快に噛み砕き、何を言っているのか」という点まで解釈貰えませんか? ※”言葉の意味を例文の当てはめて噛み砕いて言うと、どういう意味になるのか”という焦点を当てて頂きたいです。 大変お手数な作業かと思いますが、教えて頂けると私もそうですが、他の方にも役にたてると思っています。これらの言葉で悩んでいる方はかなり多いと思います。 ●論理 「筆者の論理を追え」 「論理が飛躍している」 ●論理的 「論理的に話す」 「論理的な文章」 ●筋道 「あいつの考えは筋道が通っている」 「筋道を立てて話してくれ」 「筆者の筋道をたどる」 ●理屈 「理屈っぽい」 「英単語は理屈で覚えろ」 「君の理屈はわかった」 「理屈で言うほどやさくしくない」 「理屈の上では正しい」 「理屈をこねる」 「理屈に合う」 ●条理 「あの人の言うことには条理がない」 「条理に適った解決法」 ●辻褄 「辻褄が合わない意見」 「嘘をついていると、辻褄合わせに次々とうそを重ねる」 「話の辻褄が合わない」

  • 《因果の道理》は 道理ではない。

     つぎのヰキぺの記事にかんする限り それは 何も言ったことにはならない。これを問います。  ▲ (ヰキぺ:因果の道理) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E3%81%AE%E9%81%93%E7%90%86  § まえがき  (あ) 因果の道理は仏教の根本的な教理である。「因果律」・「因果論」とも言われ、釈迦が発見した「大宇宙の真理」とされる。日本をはじめ東洋諸国では倫理や道徳の根拠にもなっている。  § 概説  (い) 釈迦は、原因だけでは結果は生じないとし、直接的要因(因)と間接的要因(縁)の両方がそろった(因縁和合)ときに結果はもたらされるとする(因縁果)。  (う) そこで、縁起と呼ぶ法によってすべての事象が生じており、「結果」も「原因」も、そのまま別の縁となって、現実はすべての事象が相依相関して成立しているとする。  (え) 釈迦が悟った上記のような内容を縁起という。その教えを学問上「縁起説」と呼ぶこともある。  (お) 仏教において因果は次のように説かれる。   善因善果…善を行うことが新たな善を促す   悪因悪果…悪を行うことが新たな悪を促す   善因楽果…善を行うことが自分にとって望ましい結果を招く   悪因苦果…悪を行うことが自分にとって望ましくない結果を招く  (か) 例えば最初は嫌々ながら行なっていた人助けでも、何度か繰り返すうちにそれが習慣となったり、それが褒められることで自ら進んで行うようになる。  (き) 逆に最初は躊躇していた犯罪が一度成功すると、また罪を犯すことに抵抗を感じなくなったり、一度嘘をつくとその嘘を隠すために更なる嘘を重ねる様になる。  (く) これが「善因善果」「悪因悪果」の具体例であり、両者は原因と結果の性質が同じであるため、《同類〈因〉・等流〈果〉〔なる因と果との関係〕》と呼ぶ。  (け) 一方、善いことを行えばそのことで満足感・達成感が得られるのに対して、悪いことを行うと良心の呵責や罪が露見することへの恐怖が起こる。 これが「善因楽果」「悪因苦果」の具体例である。   (こ) 「善因善果」「悪因悪果」とは異なり、この場合の結果は一概に善か悪かを判断できない。  (さ) 例えば、善い事を行った自分を誇って他人を軽蔑したり、一度の善行に満足して善行を止めることがあれば、それは善行が悪い結果を招いたことになる。  (し) 逆に悪を行った事による心の苦しみが、その人を反省・更生へと導くならば、それは悪行が良い結果を招いたことになる。  (す) 両者は原因と結果の性質が異なるため、《異熟因・異熟果》と呼ぶ。  (せ) 「善因善果・悪因悪果」について“善いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こる”と解説される場合があるが、これは「善因善果・悪因悪果」と「善因楽果・悪因苦果」の混同を招きかねない不正確な説明である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これで記事の全部です。  (そ) この記事内容についてはすでに 出典を明らかにすべきだとか 中立的な観点が必要だとかのクレームがついているようです。  (た) ですが いまはそのような疑問点をもわたしたちが洗い出すかたちで問い求めて行きたいと考えます。  (ち) 出典の問題をのぞけば かんたんな形ながら (お)から(せ)までの説明は ふつうに中立的な内容ではないかと考えるのですが どうでしょう?  (つ) 一つ目の問いは こうです。    善悪が主観的なものであるからには 楽果も苦果もみな同じく主観的であって《のぞましいか否か》で定義するなら それらはやはり善か悪かで捉えても構わないのではないか? すなわちおおきくは 楽果⇒善果 苦果⇒悪果と見てよいのではないか?  (て) しかもいま――因縁の縁すなわち間接的な原因は措いておきますが―― 原因にしても結果にしても いづれもそのワタシにとって 善もあれば悪もあるということでないわけがない。(どちらでもない無記の場合もありましょうが それは当然のこととしてこれも特には触れません)。    * 因縁の縁をいま問わないのは それもけっきょく因と同じように 善をも悪をもふくむのがつねであると見られるからです。その議論は 以下に追ってすすめて行きます。    (と) つまりは 任意の一時点をとってそのとき ワタシの状態は過去の《善と悪とをふくむ原因》の結果として 《善悪の入り混じった》ものとしてみちびかれている。しかもその状態〔から繰り出す行為〕は 未来への《善と悪とをふくむ》原因となって 《善悪の入り混じった》結果をうむ。――このことは あたりまえであるはずです。  (な) ならば そのような・どの時点でもつねに《善と悪とをふくむ》原因かつ結果としての状態にあるワタシについて その行為の軌跡の中から 一本の線としての《同類因・等流果》(く)やあるいは《異熟因・異熟果》(す)を ただいづれか一方だけの取り出して これこそが因果関係であるぞと言ったところで 何の意味をも成さない。せいぜいが気休めである。  (に) つまりブディズムの説くと言われる《因果の道理》は けっして道理などではない。こう帰結されますまいか。どこが 《大宇宙の真理》でしょう。どこが《さとり》なのでしょう。かえってものごとの見方を 一面的な狭いものとしていはすまいか。  (ぬ) なんでこんな子どもだましのような《理論》が 永くつづいて来たのでしょう。日本人はここまでばかなのでしょうか。  (ね) ただし・もっとも 成功したひとたちは その原因を みなさんのおかげですと言って 因縁の縁のほうを重んじた見方で表現してはいます。そのあたりについても 考えるところがありましたら 回答の書き込みをどうぞ。    (の) (つまり 日本人は現実の実践では 好ましい世界観にもとづいていると思われるのに  ブディズムの理論だけは 成っていない。こういうことでしょうか)。  (は) (ブディズムよ 恥を知れというところでしょうか)。  (しかも そのブディズムに対して・またゴータマ何たらという人間に対して へーこらへーこら ありがたやありがたやと おもねっている〔ように見える〕。日本人のこの状態は どうしたものなのでしょう)。  (ひ) ゴータマは ペテン師であり 屁の河童なりと どうして言わないのでしょう。

  • ★演繹法による絶対善の定義

    道徳的論理とは皆さんがこれは当たり前だ、それは常識だと言うものを使って組み立てていくものです。みんながまだ妥当だと思っていないものを使って組み立てていくのは論理的とは言いません。論理的文章とは筋が通っている文章です。筋というのは道理的ということであり、道理とはみんなが「それはそうだ、間違いない」と考えている妥当的なものを言います。命が一番大切だと言えば「いや命より心やアイデンティティー、信念が大切だ」など非道理的な反論は止めていただきたいものです。 道徳的文章は、みんなが「そうだ、それに間違いない」というもので組み立てていって初めて論理的文章になるのです。私が絶対善を演繹法で定義した方法を見てみます。 その民族にとって最も大切なものは、その民族の命である(それはそうだ、間違いない) また最も大切なものを守ることは、絶対的に正しい事である(それはそうだろう) そうであるならば、最も大切な民族の命を守ることは絶対に正しいことである(うん、そうなるな、間違いない) 善とは道徳的に正しいことを言う。ならば絶対善は絶対に正しいということである(うん、間違いない) これらから絶対的に正しいこと、つまり絶対善は民族の命を守ることであり、それは民族の維持、繁栄である、これはよく言われるように種族(民族)保存である。 このようにして絶対善とは種族(民族)保存であることが論理的に導かれた。 科学的論理は数学の証明問題のように問題を解く式が全部真であって初めて答えも真であると言えるのです。式がしっかりしていなければ正解とはなりません。道徳的論理もこれと同じで、論に妥当的な、道理的な筋道があって初めて、結論も正しいと言えるのです。 このように私の善の定義は論理的に演繹法で導かれたものです。ですから否定するなら、論理的に否定しなければなりません。あなたたちの感情に合わないからといって事実を価値判断で否定してはならないのです。 何度でも言いますが、感情による否定では私の信念は揺るぎません。否定するなら論理的に否定してください。 しかし世間では絶対善など絶対に分からないと言われている。ならばどこかに瑕疵があるに違いない。どうです皆さん、私の絶対善の定義を否定してみませんか。

  • 道理とは

    大学は少々遊んでしまいましたが、小中高とまじめに勉強してたし風邪で休んだ以外は無遅刻無欠席、勉強の成績は中の上くらい、高校と大学は推薦で進みました。職場ではあまり優秀な方ではないもののそれなりの実績は有ったと思います。しかし会社を辞めるとなった時、君がいないと困るよと引き留められるほどでもなく。結局のところ、総合的には可もなく不可もない程度なんだと思います。 そして今、画一的ではなく、ある意味多様性が豊かな所で働いています。どう多様性が豊かなのかと言うと、若い人から中年まで、男女はもちろんのこと、優秀な人からそうでない人、仕事のできる人とそうでない人、やる気のある人からない人、障害の有無だったり。 本当に細かい事ですが、遅刻の常習犯に居眠りしている人や依存的な人など不愉快を覚えることもあります。悪い面ばかりではなく、仕事の丁寧さや特定ジャンルへ精通しているなど、仕事面でプラスになる側面もあります。 前置き長くなり、また質問と関係ある?という部分もありますが、お聞きしたいのは「道理」というモノが最近よくわからないのです。 例えば、暴力はよくないとか、盗んではいけないなど、そういう動物レベルの事さえ犯さなければ他はなんでも有りなのか? 高校は私立で同じ様なレベル、似た様な価値観、ある意味そういう画一的な環境が懐かしく思えます。 人が最低限守るべき道理は何だと思いますか?

  • 民法上の7条「事理の弁識能力の欠如」について

    民法は「精神上の障害」― について7条に規定があります。 これが行く行くは、現在流で成年後見制度の色分けにされている訳ですが。 これがイコール成年後見法の「判断能力の有・無」― に直接話法的な直結した解釈をすることについての質問で―― そのそも「判断能力が無い」― と判定する要素要件は何ですかね。 民法のいう「事理」― とは、物事の筋道・道理。行うことの道理と解釈されます。 高齢者のご当人が、私は長男と暮らしたい」といえば、長男に生活能力があって世話介助する意志があれば、それはそれでご当人に事理の弁識能力がある」― と解釈できるのではないですか? こんな場合にも、家庭裁判所がレフリーすべき問題が潜んでおりますか。 兄弟5人の中に、1人が出来そこないで親の面倒をみないで遠方に住んでいて、親の身近で介護世話している長女が存在しているのに、家事審判の場で民事訴訟の場を借り受けて、騒動が起来ているとすれば、家裁が躊躇なく常套手段とする謳い文句が「家族に騒動があれば第三者(弁護士など)を選任」― という安易な方法を投じることは、ちょっと、やり過ぎではないかと・・・と思うのです。 この方面の知恵をいただきたく質問させて頂きました。