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善について 2

noribou11の回答

  • noribou11
  • ベストアンサー率45% (143/314)
回答No.10

セミの生きざまに善を感じるということですが、 それは、あなたの主観的な「美意識」の問題ですよね。 動物の行動を崇高に解釈してしまうこと自体、 あなたの言う「善」なんでしょうか? 7年間土中で生活することを、さも我慢をしているという印象を お持ちのようですが、それはヒトの感性であってセミの感性では ありません。あなたは当たり前のことは善ではないと書いてありましたが セミが地上へあらわれるのは成長ホルモンの変化からで それはヒトの成長に絡む行動となんら変わりはありません。 つまり、当たり前のことであり、他者を出し抜いた結果です。 そもそもセミの成虫、幼虫なんて人間が定義したものです。 セミのやることに人間が勝手な解釈をすることなんて意味ない ことですが、ちょっとお付合いしましょう。 セミが産み落とした受精卵のうちいったいどれだけの個体が 変態できるのでしょうか。ほとーんど、いません。 それもこれも産んだらすぐに死んでしまう親のせいです。 この膨大な受精卵を生産するためのエネルギー摂取がほとんど 無駄になってしまうわけですね。せっかく、他の生き物を 殺してまで手にいれたエネルギーなのにもったいない。 セミに対する美意識とNo.1のコメントにある猫に対する気持ちに どんな違いがあるというんでしょうか? 人間の感性を動物に当てはめてるだけです。

chihoko
質問者

お礼

●せみには せみなりの必然性が あって土の中に長く生活することと  なったのだとおもいます。我慢しているという印象よりも  そのオリジナリティに感銘をうけます。  ねこに対する気持ちは人間からでているものであってエゴでしょう。  (里親をさがしてやろう。)  せみに対する気持ちはせみからでているものです。  (せみの生き方から学ぼう。)  ぜんぜん違いますよ。 ●自然界には作為が ありません。よって無駄もありません。  あなたは もっと自然から 学ぶ姿勢が必要ですね。

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