• 締切済み

「善」について

gould09の回答

  • gould09
  • ベストアンサー率33% (196/589)
回答No.2

shunpeさん、こんにちは、 自分は、哲学とは関係無い所しか見ていないのですが何故か気になってしまい回答しました。 自分は、かなり昔から善と悪の違いが良くわからなくなってしまっています。 世の中の物事に対して、ある価値基準を作成し、その基準に合致する物を善、しない物を悪としていると思います。 人によっては、この価値基準が一部共通だったり、場合によっては反対の場合もあると思います。 同じ人でも、いろいろ経験をして行くと価値基準そのものが違って来ると思います。 4文字熟語の「塞翁が馬」が面白い例になると思います。 この物語では、いろいろな事件が起きますが同じ事柄に対して、全て「いい見方」と「悪い見方」の両方が出てきます。 自分は、この物語から世の中で起きる事に対していろいろな解釈が有るけれど、事実はどんな解釈とも関係無くただ事実そのものが有るだけではないかなと思っています。

shunpe
質問者

お礼

回答ありがとうございました

関連するQ&A

  • これは絶対善と言えないでしょうか。

    これは絶対善と言えないでしょうか。 私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。 ・善とは最善を選択しようとする性質です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 この性質、原理は絶対善と呼べるのではないでしょうか。

  • 絶対善みっけた

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。 ・善とは最善を選択しようとする性質です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 この性質、原理は絶対善と呼べるのではないでしょうか。

  • ★演繹法による絶対善の定義

    道徳的論理とは皆さんがこれは当たり前だ、それは常識だと言うものを使って組み立てていくものです。みんながまだ妥当だと思っていないものを使って組み立てていくのは論理的とは言いません。論理的文章とは筋が通っている文章です。筋というのは道理的ということであり、道理とはみんなが「それはそうだ、間違いない」と考えている妥当的なものを言います。命が一番大切だと言えば「いや命より心やアイデンティティー、信念が大切だ」など非道理的な反論は止めていただきたいものです。 道徳的文章は、みんなが「そうだ、それに間違いない」というもので組み立てていって初めて論理的文章になるのです。私が絶対善を演繹法で定義した方法を見てみます。 その民族にとって最も大切なものは、その民族の命である(それはそうだ、間違いない) また最も大切なものを守ることは、絶対的に正しい事である(それはそうだろう) そうであるならば、最も大切な民族の命を守ることは絶対に正しいことである(うん、そうなるな、間違いない) 善とは道徳的に正しいことを言う。ならば絶対善は絶対に正しいということである(うん、間違いない) これらから絶対的に正しいこと、つまり絶対善は民族の命を守ることであり、それは民族の維持、繁栄である、これはよく言われるように種族(民族)保存である。 このようにして絶対善とは種族(民族)保存であることが論理的に導かれた。 科学的論理は数学の証明問題のように問題を解く式が全部真であって初めて答えも真であると言えるのです。式がしっかりしていなければ正解とはなりません。道徳的論理もこれと同じで、論に妥当的な、道理的な筋道があって初めて、結論も正しいと言えるのです。 このように私の善の定義は論理的に演繹法で導かれたものです。ですから否定するなら、論理的に否定しなければなりません。あなたたちの感情に合わないからといって事実を価値判断で否定してはならないのです。 何度でも言いますが、感情による否定では私の信念は揺るぎません。否定するなら論理的に否定してください。 しかし世間では絶対善など絶対に分からないと言われている。ならばどこかに瑕疵があるに違いない。どうです皆さん、私の絶対善の定義を否定してみませんか。

  • 善と快楽は同じものだというけれど

    知人が「善とは快楽だ」と言っていました。 だったら、たとえば、町で引っかけた女にハメる瞬間の快楽、たくさんの果物を盗んで食べる快楽も善なのでしょうか。 このようなことは「快楽」とは呼ばず、ただの肉体的な「快感」、スリルと味覚という刹那的な「楽」なので「快楽」には該当しないのですか? それとも、「善とは快楽」という言葉の中での「快楽」は、特定の哲学史か何かの流れを前提とした、特殊な意味があるんですか。私の「快楽」の捉え方が間違ってるんでしょうか? 悪い事をするときは、楽しいように見えても、その根底で本人の精神は若干傷ついて濁るから快楽とは呼べず私の挙げた例は当てはまらないのだろうか?

  • 素人が西田幾多郎を読む

    こんばんは。 私は何の変哲もない大学一年ですが、最近哲学に触れてみたいなと思っていたところ、西田幾多郎を知りました。 今、彼の記した「善の研究」を読むことに特に理由もなくあこがれているのですが哲学を勉強したことのない私でも読める代物なのでしょうか? それともまず何か哲学を学ぶ上での骨組みを作る必要があるのでしょうか?初心者にお勧めの哲学の本がありましたら併せて教えていただけたらと思います。 ちなみに「善の研究」を読むときには岩波の原典(?)と講談社学術文庫の注釈つきのもの、それと西田幾多郎(もしくは「善の研究」)を解説した本が必要かなと思うのですがどうでしょうか? 以上いくつも質問してしまいましたがよろしくお願いいたします。

  • 倫理学で「道徳的な善は何によって決まるのか?」というテーマは解決してる

    倫理学で「道徳的な善は何によって決まるのか?」というテーマは解決してるのですか??? 今の日本では何によって決まってるのですか??????

  • 絶対的に正しい行為(絶対善)を定義してみた。

    私たちは正しい(正義)と善は何か違うものように感じています。そこで善とは何かを考えてみました。 アメリカのエール大学などの実験で、あまり理性の発達していない生後数か月の赤ちゃんでも善悪は分かっていると科学的に証明されています。つまり善なる感情は生まれつき持っている本能的なものであると分かります。理性で考えられた正しい事、規範(信号を守る、税金を納めるなど)ではなく、本能から来る善なる感情は何なのか?と考えました。そこで多くの善なる行為を考えてみてピン!と来たのが「思いやり」だったのです。 例えば浜辺に打ち上げられたクジラを海に返してあげようと頑張っている人たちを見れば、何か暖かいものを感じ「善い人たちだな~」と思います。またカルガモが道路を渡れず困っているのを見て、みんなが車を止めてカルガモを渡してあげるのを見ているとなんだか心が暖かくなります。このような善なる行為を多く考えて、そのすべてに共通しているもの、内包しているものを考えていたら、それは「思いやり」であると気が付いたのです。 これは論理学でいう内包的な定義のやり方です。全ての要素に共通しているもの、内包しているものがその本質なのです。その本質を言葉で表したのが定義と言い、これが厳密的な定義になります。 つまり多くの善なる行為に内包していたのが「思いやりであり、私より公を優先する行為」だったのです。そこで私は善とは「私より公を優先する行為、つまり愛や思いやり」であると定義しました。勿論、自分が考えたすべての善なる行為に「思いやり」が内包していただけですから、もしかしたら「思いやり」が内包していない善なる行為があるかもしれません。しかし私が考えた善なる行為の中にはすべて「思いやり」が内包していたのです。 私は哲学はまだ素人であまり自信がありませんので、賢い人たちの意見を聞かせてください。どこか間違っているでしょうか?よろしくお願いします。

  • ニーチェの善と悪”good and evil"とは?

    ニーチェに関して、善と悪”good and evil"の道徳の解釈はなんですか? またなぜニーチェはこれを奴隷道徳と呼んだのですか? 教えていただけると幸いです。 よろしくお願いします。

  • 絶対善世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 相対的な善悪で自分自身を責めるのはその辺でやめた方がいいんじゃないでしょうか。 どのみち私たちは絶対善からは逃れられないのですから。

  • 絶対善世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 たまにはこんなことを考えてみるのはどうでしょう。 考えることを止められないなら、いっそのこと世界の仕組みについて考察するのもいいんじゃないでしょうか。