• 締切済み

絶対って・・・

この世には絶対があるんですかね? 否定しようと思えば, 「絶対が絶対にあるとは絶対に否定できない」 という風にしたら,絶対は否定されるわけですし, 「無というのも実は無というのがそこにあるわけだし,絶対に何かがある」 という風にもすることができます。 いったい皆さんはどう言う考えを持っているのでしょうか?

みんなの回答

  • redGL
  • ベストアンサー率0% (0/0)
回答No.10

私はその道の専門家ではないので回答するのは少し偉そうかもしれませんが、それでも(専門家でなくても)、論理的に考えることができさえすれば、次のような文は「絶対」に否定できないと思います。 「明日は雨が降るか降らないかのどちらかである」 「明日雨が降りかつ明日雨が降らない、ということはない」 「PならばQで、いまPが成り立っている。したがっていまQも成り立っている」 また、ここから先は補足ですが、これらの文は自明すぎて絶対に否定できないからといって役に立つこともないじゃないかと思われるかもしれません。しかし、普通の生活を営む上では何らかの判断を下すとき、その判断までの制限時間が決まっていることがほとんどですら、絶対に正しい推論だけを使うというわけにもいかないと思います。したがって、「絶対」に正しい前提から「絶対」に正しい推論だけをして得られた結論が意外な結論、つまり意味のある、役に立つ結論であることもあると思います。

回答No.9

絶対であるものがいたとして、彼が何をするかをかんがえましょう。

  • kaya-
  • ベストアンサー率21% (65/296)
回答No.8

こんばんは、kuro_0824さん。 回答とは違うんですけど、kuro_0824さんの二つの例え…。 「絶対」そのものの話、というよりは、論理学に感じるのですけど…。

noname#1438
noname#1438
回答No.7

「絶対」ですか。そういえば15くらいの頃に「不動」について考えていたことを思い出します。  今のところわたし自身は、なるべく物事を相対的に判断するように考えているので、ふだんはあまり使わないですね。  でも限りなく「絶対」に近い、ということはあると思うので、近似値として「絶対」を使うことはあるかもしれません。  「0.999999999……(以下無限に9)」=「1」?  「0.000000000……(以下どこまでも0)」=「0」?  そういう見方で、追求することが現実問題に対して大した影響がないと思われる時は近似値を使って考えることにしています。  でないといつまでも先に考えが進まなくて困りますので。(^^;  便宜上そうしている、というところでしょうか。何となくデジタルとアナログの世界の違いみたいな感じですが。。

  • UKIKUSA2
  • ベストアンサー率14% (82/562)
回答No.6

「絶対」とは,高校生くらいの人がよく使う言葉である,との認識があります. ついこのあいだ,高校生らしき学生さんが話をしていました. 高校生A:「明日は絶対に部活に出てこいよー.」 高校生B:「行く行く.絶対行く.」 高校生A:「絶対に来いよーー.」

  • kur
  • ベストアンサー率34% (13/38)
回答No.5

私が知っている絶対に否定されないことは、「人(動物・命のあるもの含む)は死ぬ」です。

  • xinman
  • ベストアンサー率30% (25/83)
回答No.4

こんにちは! gooの国語辞典で絶対を引いてみると ぜったい 【絶対】 (名・形動)[文]ナリ [一] (1)他に並ぶものがないこと。何物にも比較されないこと。比較や対立を絶した存在であること。また、そのさま。「―の真理」 (2)一切他によって関与・制限されないこと。無条件。「上官の命令は―だ」「―の権力をもつ」 (3)〔哲〕「絶対者」に同じ。「唯一―の神」⇔相対〔absolute の訳語。明治期には「絶待」とも書かれた〕 [二](副詞的に用いる。「に」を伴うこともある)どうしても。なにがなんでも。必ず。決して。「―間違いない」「―行かない」「―に反対する」 とありました。 [一](1)があるかどうかは分かりませんが、 [一](2)、[一](3)、[二]についてはあるんじゃないでしょうか?

参考URL:
http://dictionary.goo.ne.jp/cgi-bin/jp-top.cgi
  • hide--
  • ベストアンサー率23% (24/104)
回答No.3

こんにちは。 なんだか面白いこと考えてますね。ちょっと言葉の遊びっぽいですけど。 私が考えるに、絶対とは「唯一無二」のものであるでしょうが、 この世の中で考えると絶対はあるでしょうね。でないと数学的な答えが一つの ものはないことになります。 でも、「この世の中」の話しに限りますよね。 私たちはこの世の中に住んでいるのであって、この世の中の価値観で生きてますから、そうでない世界があるともないとも言えないわけで、そして、仮にあったとしたら私たちの常識が通用するかも分からないわけで。ら~ら~~らららららら~ら(北の国からのテーマ) というわけで、一応のアドバイスは、 私たちの価値観の中では絶対はあるけれども、価値観の外の話しはわからないと思いますし、この世に限定すれば絶対はあるでしょうね。

noname#1001
noname#1001
回答No.2

客観的真実とか、そういう命題で「絶対」というのは哲学的な事まで絡んできそうで難しい気がしますが、主観的な話であればいくらでも存在すると思います。 たとえば、「時間は絶対に後戻りできない」というのは科学や物理学の進歩で、そうでもないかもしれないぞ、というような可能性が出てきたような状況ではないでしょうか。 また、「命ある物はいずれ絶対に死ぬ」というのも、これまでは是認されてきた事だと思いますが、老化の原因が解明されたり、遺伝子の研究などからいずれ不死が実現するのかもしれないという思いが生まれた時点で「絶対」ではなくなりましたね。 でも、主語が一人称になった場合、たとえば、「私はうどんよりもそばの方が絶対に好きだ」とか「辻希美よりは加護亜衣のほうが絶対に可愛い」といったことに関しては、客観的な評価とは別に、当人にとっては「絶対」はそのままの意味で存在すると思います。 まして、現時点では、とか、この先は判らないけど、などという条件をつければ存在は間違いないと言えると思います。 あるいは、信心深いある人にとっての神は「絶対の唯一無二」であり、別の宗教の熱心な信者から見ればその思い込みは間違いということになると思いますが、これはその当人にとっては死ぬまで「絶対」であり続けたわけです。当人にとって例外や妥協を認めた事がなければ、絶対は存在した、という事になるのではないでしょうか。 ただ、こういうのでは御質問の趣旨には沿わないのだろうな、というのも感じます。 ですが、 絶対というのは「当然」とか「必然」とか「必ず」とか「確率100%」というよりも、もっと強調した強い意味合いを含む物だと思います。まあ、「絶対温度」などという学術用語もありますが、多くはそういう主観的な思い入れを含んで使われる言葉ではないかな、という気もします。

  • janis999
  • ベストアンサー率62% (37/59)
回答No.1

kuro 0824さん、こんにちは! 「絶対」って言葉、難しいですよね。 「どんなことがあっても絶対に僕の気持ちは変わらない!君が好きだ!」などと言っている ドラマがよくありますが、人間の感情的な部分については「絶対」ということが無いと思います。 その後、もっと好きな人が出来たとかで別れてしまうこともあるでしょう。 私の友人の結婚式でも、新郎が涙を流しながら「絶対に幸せにします!」とみんなの前で 宣言してましたが、3年持たず別れてしまいました。 でも「100度の熱湯に1分間、人間が裸で入ったら、絶対にやけどする!」と言ったら 絶対だと思います。 ですから私は現実的な部分で「絶対」という言葉を使うようにしています。 人間のような日々変化する気持ちという部分では使用しないようにしています。 本当に難しい言葉ですよね。それでは失礼します。

関連するQ&A

  • 絶対的な無について

    (qa3867782『無は存在しますか?』 に関連して、焦点を絞り込んで質問し直すことにしたが、絞り込まれたものは以下の問題に集約されると思われる。) ≪(唯物論者について)彼らは、 「死んだら無になるんだ。…あぁ恐ろしい」 と言うのです。ここには、無になるなら恐ろしいも何も無い筈ではないかという疑問の他に、それ以前にその無は有り得ないんじゃないか、という考えがあるのです。 彼らの言う「無」とは、何でしょうか? 何かの事象に付帯する状態の表現としての無でしょうか? 私にはそれは、意識の完全な無、つまり絶対無であると思われるのです。 つまりこういう事です。意識の有無は客体から見れば、或る意識に付帯する状態としての有無と言え、それは有る。 しかし、主体的意識にとっては、それは絶対無ではないか。 客体の捉えたものが真なのか。 主体の世界が真なのか。 主体の目線から考えるなら、形而上学的な絶対無について考えるしかない、そんな風に思われるのです。≫ 絶対無があるという事になれば、「死んだら無になる」は可能となる。 絶対無が無いなら、「死んだら無になる」事が出来ない。というより意識の無限が論証されてしまう。 それとも、やはり客体の視点しか存在しないのか? 「自分のことは自分が一番分かる」のか。 「他人が見てしか分からない事がある」のか。 そこで質問内容は結局2点以下に絞り切れなかった。 客体が見る事象であるところの意識の状態の有無しか存在しないのか? 主体的意識があるとして、それの無は絶対無であるが、絶対無は有るのか? いろいろ込み入って参りましたが、付き合って下さる方、どうかよろしくお願いします。

  • 絶対とはなんなのか

    よく「この世に絶対はない」といいますが、 A)もし絶対というものが存在しないならば、 B)「絶対が存在しない」ということは絶対になってしまい、絶対というものは存在するという結論に行き着くような気がするのですが、そうしたら(B)の文は自らを否定してしまうような・・・。 どなたかアホな僕にこの文のおかしいところを教えてください。 あわせて、絶対という事象はどういったものを以って証明できるのでしょうか? たとえば「あらゆる生物は死ぬ」というというのは宇宙が生まれたときから全ての生物の死を確認してきた人がいるのでしょうか?あした太陽が東から昇ることをどうやって証明できるのでしょうか?

  • この世に絶対に正しいことはありますか?

    この世に絶対に正しいと断言できることはありますか? 数学の証明は公理という絶対に正しい前提を必要とします。 特殊な例だと思います。 絶対に正しいと断言できることがこの世にあったら教えてください。

  • 生前の絶対無と死後の相対無

    自己の誕生を他者達が認識した「後」には、【自己の生前の無】が認識され得ますが、その『無』は【誕生後の有】との比較に依存していますので、『相対無』に属しているのだろう、と思われます。 そして、自己の死後にも、自己の死を他者達が生存との比較によって認識していかざるを得ませんので、その【死】さえもが『相対無』として認識され続けさせられるのでしょう。 従いまして、他者達からの認識に囚われ続けていますと、『誕生によって比較され得ない頃の【絶対無】』へと還元され得ないだろう、と考えました。 でも、そうしますと、朱熹の考えとの齟齬を来たすのではないか、という疑問が浮かんできたものですから、教えて下さい。 「【無極(自己の絶対無)】と【太極(自己の相対無)】とは、『他者達による認識の前』から一体化されていたのでしょうか?」

  • 「絶対」と、「必ず」

    たしか以前に、私は、「絶対」は、否定語だから、「絶対に行くよ」とか、「絶対できる」というのは間違いで、「必ず行くよ」「必ずできる」と、言うのだと、教わった気がするのですが、現在、ほとんどの人が、前者に、使用しています。 これは、正しいのでしょうか? 気になるのは、私だけかな?

  • 無からはなにも生じませんか?

    無からは何も生じませんか? 無からは何も生じなければ この世の始まりは無からではなく、有となります。 つまり元々すべてがあった訳で 有る、ということが物事の基本ベースとなります。 私達は無が物事の基本ベースであり そこに何かを付け足すことで有になる、 と考えがちですがそれは錯覚であり、 物事の始まりなど存在せず、 有が基本ベースだというアンリ・ベルクソンの考えに賛同です。 どう思いますか?

  • 絶対に関する格言

    世界中に全てに絶対はないと否定した。しかし絶対否定できない自分自身がいる・・・といった人は誰でしょう。それとこの格言の全文をお願いします。

  • この世にある「絶対」を教えてください

    人が死ぬ とか 数式の答え  みたいにこの世の100%は他に何がありますか? もしかしたら人がいつか死ぬのも科学が進めば絶対でなくなるかも知れませんが・・・ 結構考えるのですが他にはあまり思いつきません よろしくお願いいたします

  • 輪廻転生とかの根拠

    ほとほと疲れたので「来世に期待」という心境に陥りました。 そこで同じことを考えている人はいるのかなと「来世に期待」と検索したら、たくさんスレがたって、少し驚きました(笑) そこでまた考えたのですが、本当に来世に期待してもよい仕組みなのか、あの世というところは?ということです。 輪廻転生の考えだと、この世は自分をバージョンアップするためのところ。この世で自らレベルを向上させれば、神により近い精霊になれるといいますし、信じてきました。 でも一方で、死んだら無という考えもあります。 でも我こそは真実だと語る、あの世は誰が見てきたものなのですか? もし、死んだら無だとしたら、もうこの世限りの自分で終わってしまって、死ぬ楽しみがなくなってしまいますし、この世で懸命に頑張っている命はなんのために頑張るのか、ということになります。 あの世は、ある、ないという方双方の考え方を知りたいです。

  • 仏教の教えは唯一つ

      念ずるのである。 この世の全ては無であり空であると、 ただひたすら念ずるのである。 嬉しかろうが、楽しかろうが、有り難かろうが、苦しかろうが、悲しかろうが、そのようなことはどうでもよいのである。 念ずるとは如何なる場合であれ、この世の全ては無であり空であると、ただひたすら念ずるのである。 このように念ずることにより、 人はみな生きることの苦から解き放たれ、 救われるのである。 仏教の教えは唯一つ、これではないか。 補足:  「色即是空空即是色」 → この世の全ては無であり空である。 「義無きを以って義とする」 → ただひたすら念ずる。  

専門家に質問してみよう