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「ただ現在を生きろ」?

taleの回答

  • tale
  • ベストアンサー率43% (7/16)
回答No.3

とても本質的な問題なので、どうかお話をさせて下さい。 まずO-jiroさんの問いかけは、「忘れてしまった記憶は 自分にとって無価値だからではない」ということでした。 これはすぐに論証できます。アトランダムな20桁の数字を すべていえたら賞金がもらえると仮定して、この 20桁の数字は価値あるはずなのに、人は簡単に忘れて しまうからです。価値ある情報でさえ忘却するのですから 価値の有無は忘れることとは関係ないことになります。 さて脳科学では一時的な記憶と長期記憶の二つの記憶を振り分ける 機能があるそうです。これは価値の度合いによって振り分けられている のではなく、繰り返し反復されることで、他の保存された記憶との 関係が複数関連付けられ(複数のニューロン接合がおこなわれ) 長期記憶になるとのことです。つまり 消えてしまう記憶というのは無価値だからではなく、単に 他の記憶との関係が見出せなかったに過ぎないということになります。 逆にいうとトラウマのような個人にとっては価値の否定的な 記憶も、さまざまな記憶と結びついて保存されてしまうのです。 このようにもし、O-jiroさんが何かを忘れてしまっても それは、価値がないからではありません。たんに情報が 他の情報とうまく接続できなかっただけなのです。 また付け足せば潜在記憶という分野もあります。 個人の心的なバランスのために抑圧されて 忘れたような状態になっているだけだという説です。 O-jiroさんの心のバランスのために一時的に忘れられた 記憶である場合もあるということなのです。 長文で失礼しました。

O-jiro
質問者

補足

正直taleさんの意見、すごく勝手にシンパシーを感じるというか、私の仮定を見事証明してくれて大変気持ちがいいです(笑)。 >価値ある情報でさえ忘却するのですから 価値の有無は忘れることとは関係ないことになります。 >心のバランスのために一時的に忘れられた 記憶である場合もあるということなのです。 この2つをなんとか長期記憶に残しておきたいものです。 あ、自分のことばかり書いて何を補足したかったのか忘れてしまいました(^^ゞ taleさんとぜひ談義を交わしたいという「意欲」ばかりが優先してしまいました。よろしければ下の補足への相談にものっていただけると幸いです。

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    哲学や学問は世界を探求した結果がまとめられたようなものですよね。 それを自分に取り込めば、世界への理解がインスタントに得られ、 生活に役立ったり、よりよく生きることが出来るようになったりします。 しかし、そういった哲学や学術の本を読んでしまったら、 読まなかった以前とは思考や思想が変わってしまったり、 もし同調などしてしまったら、"自分らしさ"なんて消えてしまうのではないでしょうか? 例え上手く付き合ったとしても一度読んだものは忘れることは出来ないわけで、 『影響されなかった』と言い切ることはできないですよね。 哲学の本などは特に価値観や思考に直接関係するようなものばかりで、 もし影響されやすい人なら、本の内容そのままの思想に乗っ取られ、 作者のレプリカみたいなモノになってしまったりするんじゃないのでしょうか? もちろん、内容すべてに同調することは殆どないと思いますが、 その本の一部でも吸収してしまったら、もう読んだ人は"天然もの"じゃないですよね。 色々な本を読んで、自分が最も共感できる者を択一する…。 一見、オリジナリティ・個性をを保持したままのような感じがしますが、 実際はただの寄せ集め…ちぐはぐな存在でしかないのではないでしょうか。 彼が後に本を出したとして、その内容はしょせん過去の本からの引用…。 何百年後に評価されるような事はあるのでしょうか? 古今東西の哲学書を読んだ哲学者より、 森の中で生まれ育った人間の方が、よっぽど斬新で有意義な本を書くのではないでしょうか? 科学の分野で古い理論や最新の理論を読んだとしても、 それは過去、或いは直近での「事実」を読んだに過ぎず、 今や未来での「真実」を追求するのに何か役に立つことはあっても、 それ自体が「真実」に影響を与えることはないと思います。 (世界は平らだといっていた時代があったから、いま地球が丸い、というわけでないように) ところが哲学…思想や思考に関するものには「真実」がないですよね。 あるとしても個人のセンスに依存しているわけで…。 そうすると過去の本を読むことは、いたずらに自分を汚すようなものじゃないんですか? 科学が研究して真理を求めるように、人は経験し自らの思想思考を育む。 なのに本を読んで、こりゃあいいやって傾倒したら、 それは真実が変わってしまったかも知れないってことですよね。 20世紀には沢山いい哲学者がいたようですが、 21世紀にも、後世で「すごい人だね」と言われるような人は現れるでしょうか? 哲学-学者は哲学者になりうるのか…。 オリジナリティに溢れる哲学者はどこから来るのか…。 どうお考えになりますか?

  • 35年前に読んだ本の書名・著者名を探しています

    35年前に読んだ本の書名・著者名がわからず、気になっているので、 「もしやこれでは?」というものをご存知でしたらお教えください。 丸山眞男氏の本、『増補版 現代政治の思想と行動』(未来社 1964年)の中に 非常に有名な「超国家主義の論理と心理」という論文があります。 この中に有名な一節があります。 --------------------------------- 天皇を中心とし、それからのさまざまの距離に於て 万民が翼賛するという事態を一つの同心円で表現するならば、 その中心は点ではなくして実はこれを垂直に貫く一つの縦軸にほかならぬ。 そうして中心からの価値の無限の流出は、 縦軸の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保されているのである。 ----------------------------------- これと同じような発想で書かれていた本を35年前に読んだ気がします。 「日本人は、円筒形の筒の、外側にいて、そこから筒を覗き、 自分より上の位置にいるか、下の位置にいるかという 相手との相対的位置関係を確認する。」 遠い記憶なので不正確ですが、 日本人の「長いものにはまかれろ」的な習性、権威主義について 分析した論文だったかと思います。 昔読んだであろう本を図書館などで見つけては 探しているのですが見つからず困っています。 よろしくお願いします。